生贄
一通り胸の汚泥を吐き出した僕は、崩れていた表情をどうにか平静に戻した。
オーケー。クールに行こう。
顔が子狼の涎と僕の鼻水でぐちゃぐちゃな時点でクールでもなんでもないのだが。
顔に付いたもろもろを強引に拭ってから僕は立ち上がった。
「——ュ——ィ」
また先程と同じ甲高い声が聞こえた。
子供、子犬か?どちらにしろ年長のコボルトの声とは思えない高い声だ。
子供を保護するために、こんな奥深くに隠しているんだろうか。
日が全く届かない地の底なんて教育に悪いと思うんだけどな。
あ、もしかして僕のせい?ゴブリンがいるから子供を隠したとか?
ありえる。そのシナリオでいくと歓迎される図が全く見えないけど。
とにかく、近付いてみるほかあるまい。近付いて攻撃されそうになったら逃げればいいのだ。
「行くぞ」
子狼に小声で言ってから僕は静かに歩き出した。
奥に地底湖でもあるのか岩床は湿っていて歩きにくい。
「——ャャ—キュ——」
近づけば近づくほど子供の鳴き声は大きくなっている。
ただ、僕は何故だか不穏なものを感じ取っていた。
名画の贋作を見せられた時のようななんとも形容し難い違和感。
なにか、何かがおかしいのだ。
別に何もおかしくないだろう。僕はそう自分に言い聞かせた。
子供が泣くのは普通のことだ。ゴブリンでもそうだった。コボルトでもきっと同じようなものだろう。
たが、自分にそう言い聞かせても、何かが僕の心に不安の雲をかけていた。
嫌な予感に苛まれた僕は、取り憑かれたように足早に歩き出した。
「ヒュンヒュン、ギャン!」
大きくなり、心なしか数が減った悲鳴が僕から冷静さを奪った。
背筋が凍りつき、理性が行くなと叫ぶ。
ただ、確かめなければならない。僕は知らなければならない。
光源など存在しないはずの洞窟の奥から紅い光がさしている。
天然の光ではない、と思う。
「ヒュンヒュン、ヒュ」
悲鳴の数が減っている。僕はここまで来てようやくその確信を抱いた。
怯える子狼の頭を撫で、手頃な横穴に入れて隠れているように指示を出す。
しきりに、先程の悲鳴と同じように子狼が鳴く。
僕は一つ頷いてから、杖を抜いて歩き出した。
近づけば近づくほど隠しようのない血の臭いが鼻を刺激する。
「ヒュンヒュ——」
悲鳴の主がまた一匹減った。何が行われているのか。心のどこかが悟っていた。
ドチャリ、と何かが無造作に放り出されたような音がする。
何か、フレッシュなミートが投げ出された音が。
「**************」
呆然としていた僕の耳に成体のコボルトの話し声が入った。近づいている。
咄嗟に岩壁の亀裂に身を潜めた僕はただひたすら杖を強く握っていた。
「*****」
コボルトが下品に笑う姿を僕の目は捉えた。
「*****?」
コボルトの一匹が立ち止まり何かを探すような鼻音を立てる。
相手は5匹だ。仕留めるなら今しかない。
子狼と別れたのは失態だった。このまま後ろに行かせるわけには行かない。
いや、反省は後ででいいか。
まずは……小手調べだ。
「魔法の矢」
僕の手から放たれた魔法の矢は、コボルトの意識よりも早く頭に突き刺さり、スイカのようにその頭を破裂させた。
「まずは一匹」
「***!」
僕の存在に気付いたコボルトたちが僕を指差してギャアギャア騒ぐ。
馬鹿が。
「混乱」
一番遠くにいるコボルトを狙って攻撃は狙い違わず命中し、コボルトが剣を無茶苦茶に振り回した。
突然暴れ始めた仲間に気を取られている隙に、
「衝撃波!」
衝撃波は大した魔法ではない。僕はそれを重々承知していた。
単純な威力で見ればウルズのパンチの方がよっぽど強いだろう。
ただ時と場合によれば……実に愉快なことになる。
「*****!」
一番近くで衝撃波をモロに浴びたコボルトは耐えきれずに後ろのコボルトを巻き込んで転倒する。
巻き込まれたコボルトがクッションになって倒れた衝撃は殺せたようだが、衝撃波を喰らったのだ。数分はまともに動けまい。
となれば、残り二匹。
僕は杖に瘴気を纏わり付かせた。
僕の昏い感情に応じてより醜く、より悍しい力が杖に集まる。
僕の憎悪と恐怖を種として殺意が炎のように燃え上がっていた。
徐々に恐怖が薄れ、殺戮への渇望が湧いてくる。
クソ忌々しい邪神の寵愛とやらが僕を包んでいた。
「死ね」
簡潔な言葉と共に僕は唯一意識を保っているコボルトに近づく。
「****」
コボルトが手に持ったナイフを振りかざしながら叫んでいた。
コボルト語は理解できないが、近づくなとでも言っているんだろう。
これの最適な答えは——笑顔だ。
異文化であってもなんとか通じる最高のコミュニケーションツール。
まさに平和のための第一歩を進もうとしていた僕とは対照的に、コボルトは恐怖の感情の混じった目で僕を睨んだ。
そりゃあ、仲間を殺したゴブリンが笑顔で近寄ってきたら怖いわ。
「***」
やけになったコボルトの単調な突きを杖でいなし、ガラ空きになった股間の部分に踏みつけるように前蹴りを放つ。
「***」
幸いなことに、このコボルトは雄だったようで悲鳴を上げながらナイフを取り落とした。
まるきり獣である。
前屈みで必死に飛びついてくるコボルトの頭に杖を振り下ろした。
「SMAAASH!」
返り血を浴びながら、思わず僕は喝采を上げた。
ものの見事に命中したのだ。
昏い喜悦の表情を浮かべながら、僕は気を失っていた2匹に止めを刺した。
あとは、こいつだけだ。
無茶苦茶にナイフを振り回しているやつと近接戦なんてしたくないので、魔力がもったいないが魔法で片付けよう。
「魔法の矢」
頭を狙った魔法の矢だがコボルトの予測不可能な動きによって胴体に当たる。
もう1発必要かと杖を構えたが予想に反してコボルトは派手に内臓をぶちまけながら汚い花火を咲かせた。
「おいおい……なんだよこれ」
思わず素に戻った僕は付着した血の臭いに思わず鼻に皺を寄せた。
何この威力。いや、ありがたいよ?ありがたいけど今じゃないだろ。
「瘴気のせい……か?」
どうやら杖に瘴気を付与すると魔法の威力が上がるらしい。
理解できるようなできないような微妙な論理構造に文句をつけるのは後にしよう。
今は、先に進まなければ。
僕は心の中に現れたどこか懐かしい感覚に当惑させられた。
こんな薄汚い洞窟に旅愁を感じるほど動物になったつもりはないんだけどな。
妙に寒々しく、圧迫感のある雰囲気の中でついに僕は紅い光を放つ部屋に差し掛かった。
軽く息を整えてから一気に飛び込む。
敵は……いない。
ただ問題は……これだろう。
部屋の中心に血のように紅い七芒星形の魔法陣を見つけた。
前世であればどこの中二病の大きなお友達が用意したのかと鼻で笑うところだ。
周りに心臓を抉り取られたコボルトの子供の遺体のせいで笑う気分にはならないが。
「供物……か?」
コボルトから奪われたであろう心臓は七芒星の頂点でヒクヒクと痙攣している。
捧げる相手は、あれだろう。
部屋の奥に置かれた祭壇に歩み寄った。
教卓のような祭壇に何かの絵が書かれた古ぼけた箱が置いてある。
「心臓?か?」
図柄からして内臓っぽいんだけど何故か毛が生えている。
意味がわからない。
試しに開けてみようと手を伸ばすが鍵が掛かっているのか箱は開かなかった。
結局この部屋は邪教の生贄の間とかだろう。
関わり合いになりたいものではない。
よし、さっさと帰ろう。
そう決断した僕が何となく壁に目を向けると薄く、本当に薄く書かれた絵が見えてしまった。
歳月により削られたせいでよく見えないのだが、部屋の奥にあったせいかこの辺りは無事なようだ。
問題は何が描いてあるかだ。
近寄ってみれば何か影のようなうすぼんやりとした人物が、椅子に、玉座に座っているようだった。
経年劣化が酷い上に絵が元々暗い色しかないのであまり良くわからない。
だが多分これは……
「壁の絵が気になるかな?」
その嫌に穏やかな声に僕はブリキ人形のようにぎこちない動作で振り返った。




