007-榛原瑞希/ホームアローン
榛原瑞希
家は嫌いだ。
ここへ帰ってくる度、私がまだ一人で生きていけない事を突きつけられたような気持ちになる。それこそ、アイツの思い通りになるしかない、と言われているような。
茜と、オーダーから10秒で出てくるラーメン屋なる店に行った後、そのまま家に帰って来た。もう夕方だから、家には既に人がいるだろう。私や母の職業柄もあってか、榛原家では、家に人がいても鍵を掛けるようにしている。私は無言で家の門をくぐり、玄関のドアに鍵を差し込む。カチリと音が鳴り、鍵が開いた。すると、中から小走りで駆けてくる足音が聞こえる。「はいはーい」と快活な声も聞こえてきた。
私がドアを開くと、玄関先では既に初老の小柄な女性が出迎えてくれていた。いつも、この早業には驚かされる。「おかえりなさいませ、瑞希さん」と言いながら、彼女はスリッパを出してくれた。
彼女はお手伝いさんの三谷さんである。今時珍しい真っ白な割烹着、笑ったときの目尻のしわとえくぼがトレードマークだ。とにかくいつも静かに笑っている印象がある。三谷さんは、週に何回か家事をしに来てくれていて、もう5年くらいの付き合いだ。
彼女の前にも、何人かがお手伝いとして来ていたが、どの人も私が辞めさせてしまった。そんな私にも、三谷さんは辛抱強く距離を縮めてくれた。背も低いから、まるで小さな仏様みたいな人である。初めはどう接して良いものか、悩んだものだったけど、今や彼女の人柄の良さもあって、とても仲良くしている。
「ありがとう、三谷さん」
「ふふ、こんな時間に帰って来るなんて、まぁた、ラーメンですか? 夕食はどういたしましょう?」
「あーバレちゃいました? でもラーメンは別腹なので、晩ご飯の用意もお願いします」
少し申し訳なさをそうな笑みを浮かべつつ、私は三谷さんにお願いをした。
だが、それも仕方がない。ラーメンという食べ物は、メインディッシュにもなり得るが、間食や夜食、締めにも持ってこれる最強の料理である。つまり、食前に食べるのも良い。ラーメンは、和、中、洋とあらゆる要素を詰め込める無限の懐がある。また、個人に合わせ、どんな風にも化けられる変幻自在のトッピングが可能だ。しかも、美味しい上に栄養価も高いのである。故に、一日一麺は人類の目指すべき生活規範であり、私もなるべく実践しているのだ。
脱いだローファーを靴箱に戻し、スリッパに履き替える。
「何か冷たい物でも飲まれますか?」
すると、三谷さんがそう問う。
「じゃアイスティー、もらおうかな」
「かしこまりました。お部屋でお待ちくださいな。持って参ります」
「ありがとうございます」
礼を言って私は自室のある2階へと上がった。部屋に入ると、部屋の壁一面に貼られたアイドル達が迎えてくれる。
夢にまで見たあの世界、今ではこんなにも遠い。
制服から部屋着に着替える。姿見をちらりと見やる。茜は「アイドルになれるさ」なんて言ってくれたが、私にアイドルなんて無理だ。鏡の中の私は、仏頂面でこちらを不満そうににらんでいた。
「どうしよっかなー」
言いながら、ベッドに倒れこんでみる。天井の角には、あのカグヤのポスターもあった。デビューの時の奴だ。あの頃から他の子と比べても抜きん出ていたな。
そのカグヤと背を合わせるようにして、無名の元アイドルも写っている。この頃はまだ、アイドルを演じられていた。アイツの命令を馬鹿みたいに聞いて、その為の努力は惜しまなかった。
だけど、今の私から見れば、彼女はとても醜い。アイドルは夢を与える仕事だ。その本人が夢を諦めているんじゃ、アイドルはアイドルたり得ない。
大きくため息を吐く。すると、ドアが2回ノックされた。
「瑞希さーん、ルイボスティー持ってきましたよ」
「はーい」
お盆にグラスとお茶受けのクッキーを乗せ、三谷さんがやって来た。慣れた手つきで、部屋のローテーブルに配膳していく。
「そういえば、瑞希さん?」
「あ、はい。なんです? 改まって」
「その、お父様から言付けを預かってまして……」
配膳を終えた三谷さんが、言いにくそうに目を伏せて切り出した。
なるほど、お茶はそのきっかけって訳か。アイツからの言付けなんて、きっとロクな事じゃない。私の中で、良くない予感が胸をざわつかせる。
「瑞希さん、もう芸能活動をやめて1年以上経ちますよね?」
「高校入学を機にやめたんで、そうなりますかね」
私はあからさまに不機嫌を声音へと込めた。元から三谷さんは腰の低い人だが、腰を丸めて一層小さくなる。
三谷さんには申し訳ないけれど、話の続きが読めてしまうだけに、私の口調は荒くなってしまう。
「それで今朝、お父様が『もう一度戻って来ないか?』と、瑞希さんに伺って欲しいと」
「三谷さん、辞めたんだよ、私は。仲間、スタッフ、応援してくれる人、みんなに迷惑を掛けてね。だから、私が戻る場所なんて、あそこにはない」
声にますます、怒りがこもるのが分かった。別に三谷さんは悪くないのに、やりきれない気持ちがどんどん膨らんでいく。
多分、自分の不甲斐なさが、情けないんだろう。それを認めたくないから。反発してしまう。自分の力だけでやっていけるなら、それをアイツに示せば良い。でも、今の私にはそれが出来ない。だから私は、こうやって声を荒げて、自分の思いを表現しようとしている。だけどこんなの、気に入らないことがあれば泣きわめく子供みたいだ。
ここまで自分で理解できていて、なおそうする事しか出来ない現状が、どうにも悔しい。
「そ、そんな事ないですよ。私はまた、瑞希さんがステージに立つのを楽しみにしてますよ。それに、きっとお父様が事務所にも声をかけて下さって……」
「もう、アイツの手を借りるのは嫌なのッ!」
私は力のまま、テーブルに拳を叩きつけた。こんな事をしたいんじゃない。怒りを撒き散らしている場合じゃないのに。
「瑞希さん、きっとお父様も、胸を痛めてらっしゃると思いますよ?」
「そんな訳ない! アイツは、私やママを、自分がのし上がる為の道具としてしか見ていなかった! だいたい、三谷さんに何が分かるの?」
「それは……」
三谷さんは、憐れむように私へ心配そうな視線を投げる。あぁ、本当に私は私の事が嫌いだ。三谷さんに、こんなことを言いたいんじゃない。文句を言うなら、もっと別の相手がいるはずだ。でも過剰なアレルギー反応のように、私の興奮は制御がもう出来なくなっていた。
「どうせ、アイツにお金でも握らされたんでしょ? 私をアイドルに戻すよう説得しろって。アイツのやりそうな事だよ。手柄の為なら、手段は選ばない」
「瑞希さん、そんな酷い事――」
「出て行って!」
三谷さんの言葉を遮り、私は声を荒げる。
「瑞希さん、落ち着いて――」
「出て行ってって、言ってるの! 聞こえない訳? こんな紅茶も要らない。下げて」
「……かしこまりました。夕食はいつもテーブルに置いてありますので」
三谷さんはそそくさと階下へと戻った。部屋には、私の荒い息遣いだけが響く。
私は、一人でやれる。やらなくちゃいけない。アイツの情けなんて、願い下げだ。絶対に、アイツを見返してやる。お前の方法は間違っていると。それに、ママだってお前が――
「あぁ、嫌になる」
これだから、家は嫌いだ。こんな私も嫌い。そして、アイツの事はもっと嫌いだ。
またベッドに倒れこむ。アイドルの姿だけは、いつでも私の心を熱くさせる。彼女達はそれぞれの夢に真っ直ぐ向かっている。そんな姿に、私達は応援したくなるし、元気を貰える。こんな風に捻くれても、私がアイドルを嫌いになる事はない。
「負けて、られないよね」
私は起き上がって、デスクへ向かった。
瑞希の家庭の事情については後々詳しく描いていきます。