006-榛原瑞希/スタートダッシュ
榛原瑞希
葛城が教室から出ていった後も、私は席から教室の扉をにらんでいた。多分、調査書が書けていないのは私だけだろう。つまり葛城は、私に向けてあのメッセージを書いたのだ。なんだか、情けをかけられたような気がして、嫌な感じだ。あんなつまらなそうに教師をしている人間に。
「瑞希遅いっ!」
すると私の視界は突如、暗闇に閉ざされた。
「え、ちょ……」
何者かにヘッドロックされるような形、後頭部には柔らかい感触。この私に、こんな事が出来る怖い物知らずは、彼女しかいない。
「もー、茜でしょ」
「おおー早いっ! 流石は瑞希っ!」
声とともに、頭部の拘束が解かれた。振り返ると、いたずらな笑みを浮かべる少女が、私を見下ろしていた。
「あんたねぇ……ちょっとは加減しなさいよ」
頭がキリキリ痛む。とても女子高生の力とは思えない。
「私なりの愛だよっ」
そう言って、力こぶを作って見せつけてくる彼女は生駒茜。彼女は、私の数少ない友人の1人である。茜とはお互いに背が高い、という共通点から気が合い、今やすっかり仲良しである。
私をも凌駕する長身はスポーツに活かされ、陸上七種競技の県選抜やらにも選ばれたらしい。彼女は速さに命を懸けていて、速さに長い髪は不要と、髪をベリーショートにしている。そして小麦色に焼けた肌は、その鍛錬の証である。高身長に加え、顔も小さく、大きな猫目で愛嬌もある。見た目にさえ気を遣えば、芸能界も目指せるルックスだろうに。彼女はただ脇目も振らず、己の速さだけを追い求めている。
「で、どうしたのよ。部活は?」
「ふふーん、土日が大会だったから、今日はオフなんだなっ」
「なるほどね」
そう言って私は机の上に視線を戻す。
「まだ真っ白じゃんっ!」
すると、頭上から茜が覗き込んで声をあげた。
「勝手に見るなぁ」
茜から隠すように、私は机に覆い被さる。
茜は私の前に回ると、しゃがんで人差し指をぴんと立てる。説教のつもりだろうか。
「遅いっ! アタシなんて1番だったんだからっ」
「いや、茜は何でも速さに命かけ過ぎだって……」
この子の中で、速い事は絶対の正義だ。4月1日に生まれた茜は、幼少期から、学年で1番育ちが早い存在として扱われたらしいし、本人もそうある事を目指したようだ。速さを愛し、速さに愛されたのである。食事も、バナナとエナジードリンクで瞬時に済ませる。あの跳ねるような口調には、声がすぐどこかへ飛んで行ってしまいそうな響きさえあった。
「いや、速い事は何にも勝るからっ」
これである。茜の場合、このスピード信仰への熱心さもさる事ながら、事実それを実行できているのがすごい。有言実行というか、言う前には既に走り出している。
「その即断即決力を分けて欲しいよ」
「分けたげよっか?」
そう提案すると、茜は自分の顔を引き千切らん勢いで頬をつねる。アンパンマンか、お前は。
「やっぱいいよ。調査書が血で染まりそう……」
「あ、そう? まぁ、冗談はさておき、相談くらいならアタシが乗ってやるぜ?」
「ありがと」
私は情けなく笑う。だが、私の進路は私の問題だ。ただ、こうやっていつでも味方でいてくれる人の存在は、すごく心強い。
「そういえば、クラス最速の茜さんは、なんて書いたの?」
「待ていっ。世界! 世界最速だからね、茜さんはっ!」
茜に早口でたしなめられた。この気持ち良いくらいの自信過剰っぷりが、私はけっこう好きだ。
「はいはい。で、世界最速の茜さんは、なんて書いたのよ?」
「もちろん、オリンピック選手っ」
「いや、小学生の夢じゃないんだから」
「要はそういう事なのっ! アタシ、もう推薦で行く大学が決まってるからねっ」
「え、早っ」
「ふふーん、最高最速の褒め言葉をありがとうっ」
茜は、そう言って胸をバーンと張る。この子は悩む暇もなく、もっと先へと進むのだろう。なのに私は、何を迷ってるのだ。
アイツの呪縛は、こうも私を苦しめるのか。私は抗えないのか。私は、何故こうも……
「おーい、瑞希は何で悩んでんのっ?」
はらはらと茜の手のひらが、私の眼前で振られる。
「あ、えーと、何というか、そもそも進学するか迷ってる」
「ふーん、良いじゃんっ!」
「いや、何で良いのよ……」
自分で言っておきながら何だが、すんなりと肯定されてしまうのは何か違う。他のみんなは進学する。うちの高校ならそれが当たり前なんだ。その当たり前から外れる事は異常。良い訳が――
「もうこの時期から、ちゃーんと夢があるってことでしょ? 早い事は良い事だよっ」
「夢……か、あるのかな私に」
改めて、調査書に向かい合う。ただの三つの空欄が、悪魔の契約書みたいに思える。書けば、望んだ世界への扉が開くというのに、その代償を恐れてペンは進まない。
私の中の悪魔が「お前には無理だ」と囁くのだ。
「あるんじゃない? こんなに悩むくらいにはさっ。ちなみに、その夢って何なの?」
「えと、芸能関係……かな?」
自信なさげに答えてしまう。そんな風に逃げる自分を、私は心底嫌悪している。
「分かったっ! ズバリ、アイドルでしょっ! アイドルだよねっ!」
その時、茜のスイッチが入ってしまった。
「瑞希なら、絶対良いアイドルになれるっ! その面倒くさくてワガママな性格と、無愛想ささえ無ければ、高い身長とミスコンでダントツ優勝を決めるルックス、加えて歌わせても、踊らせてもピカイチっ! アタシ、前から瑞希は最強のアイドルになれると思ってたんだよっ。事務所はやっぱ、カグヤちゃんのいる所かなっ!」
早口でまくし立てる茜。彼女のドルオタスイッチを入れてしまった。だから、わざと濁したのに。
茜はスマートフォンを高速で操作し、画面を見せてくる。
「ほら、この事務所っ! あーカグヤちゃん、めっちゃかわいいっ!」
それを見た私は思わず、目をひそめた。
画面には今人気絶頂のアイドル、帯解カグヤが写っている。彼女は胸の前に手でハートマ ークを作り、まさにアイドルといったポーズをしていた。画面越しにも彼女の輝きが漏れ出さんばかりである。これが、本物のアイドルの力か。
アイドル。
人々の憧れを一身に受け、自身の魅力そのものを職業とする者。
輝かしい反面、己の魅力のみで戦うその世界。そこで生き残るのは、至難の業である。
私はその事を、痛いほど知っていた。
「私は、アイドルになんてなれないよ」
呟くように言う。
「そんな事ないってばっ」
「なれないの!」
今度は、声を上げてしまった。
思わず口を押さえるが、もう遅い。茜はバツが悪そうに、私を見つめていた。
「ご、ごめんねっ。瑞希、アタシつい……」
「いや、私こそごめん」
私が謝り返すと、茜は優しく笑う。
「ま、その紙書くのは今度で良いんでしょ? スイーツ天国でも行って、パァッーと忘れようぜっ!」
茜は「お姉さんが奢ってやるよ」なんて言いながら、調査書を取って、私の鞄に入れてしまった。
茜が言うように、あのダメ担任は締切を伸ばした。何も今日、悩む必要もないだろう。
そうだ。私はまだ、じっくり考えられる。少し気持ちが晴れた。私は跳ねるように立ち上がる。
「ありがとね、茜。でも私、ラーメンが食べたい」
「うげー、こいつマジでワガママだわー」
茜はアイドルオタクなスポーツ少女です。
これからも要所で瑞希を励ましてくれる予定です。