005-葛城省吾/違う高さで同じ低みを
葛城省吾
かつての夢はもう忘れてしまった。ただ1つ言えるのは、それが高校の国語教師ではなかった、という事だけである。
数多の職の中から教師を選んだのは、勉強はそこそこ出来たし、教職であれば周囲への面目も立つからだ。就職難の中でとった安全策、といえば多少聞こえは良いが、要は妥協点だった。
そんな俺が、生徒の将来を調査し、指導している。今も教壇に立ち、丁度配り終えた進路希望調査書の記入を急かしていた。
【期限はホームルーム終了まで。書き終わった人は、前に提出して退出すること】
俺は黒板にそう書き込む。書き終えたところで、「ここだから」と、教卓の上に置かれたカゴを指で叩いた。
教師にあるまじきことだが、俺は声を張り上げるのが苦手だ。極力、声は出したくない。
その事を生徒達も理解していて、特に気にする様子はない。黙々と空欄を埋めている。俺が「トップ校で埋めろよ!」と発破をかけることはないが、風変わりな進路を書けば当然、呼び出しは免れないだろう。だから誰も彼もが、調査するまでもない順当な大学名を書いていくのだ。
数分もすると、何人かが帰りの支度を始める。まだ高校2年の春、将来の事なんて真剣に考えていない生徒が大半だろう。早く帰りたいから、適当に書くのがほとんど。帰宅の波はすぐ教室中に広がり、だんだんとざわつき始めた。
手持ち無沙汰なので、腕時計を見てみる。機械的に、無感情に、時計の針は進み行く。同様に俺も、彼ら彼女らも、決まったルートを周回する。悲しきかな、高校教師の知っている進路は高校教師だけだ。進路を指導するなんて、土台無理のある話なのだ。なんて、心の中で言い訳をした。
カゴに将来が乱雑に投げ込まれる。
仕方がない。俺がどうにか出来る問題でもない。高校のシステムが悪いのだ。
「はい、ありがとう」
俺は適当に声を出しておいた。
ぱらぱらと退出する生徒達は、「第一志望どこにした?」「国立とか無理だわー」「まぁアタシ、推薦なんで」と各々、進路について盛り上がっている。流石に、未だ調査書にペンを立てている者は少なくなってきた。
急かす意味で、「第一志望だけはちゃんと書いてくれー」と声をかける。早く帰りたいのは俺も、生徒も同じだ。
なんの気なしに教室を見渡す。ふと、ある生徒と視線が合った。すぐに俺は目を伏せる。な、なんだあの目、すこぶる怖い。殺意すら込められていたように思う。
榛原瑞希、俺が一番苦手なタイプだ。俺が生徒だったとしても、話すことはきっとなかっただろう。
客観的に見て、榛原は容姿が優れている。昨年の入学式では、芸能人の娘でも入ってきたんじゃないかと話題になっていた。彼女はそれをよく理解していて、頭も回るから、多少の横暴を周りが許す事を利用できる。
自分は周りと違う、そう言いたげな振る舞いをするのだ。勿論、彼女だってそれを口にはしないし、うまく隠している。
にも関わらず、彼女の自意識を感じられるのは、俺がかつてそうだったからだろう。いや、俺がかつて、そんな姿に憧れていたから、が正しいか。
そんな彼女を俺が苦手とするのは、おそらく悔しいのだと思う。彼女を見ていると、自分の情けなさが浮き彫りにされるような気がした。
榛原瑞希はそっち側の人間だ。俺には分かる。きっとあの調査書は未だ白紙で、彼女の腹の中には野望が潜んでいる。
彼女から見た俺は、とんだ道化なのだろう。お前に何が分かるのか。お前こそ、自分の道に迷いがあるだろ。お前が信じないお前を私は信じない、とでも言いたげな目だった。
「ええと」
俺は言葉にもならない声を漏らすと、しばらくの間目を泳がせる。
俺は榛原が苦手だ。彼女もまた、俺の事を嫌悪しているだろう。だが、榛原の夢に罪はない。俺にそれを摘み取る権利もない。
気が付けば、書き終わってないのは榛原だけだった。他に残っている生徒は、既に提出して雑談に興じている。黒板には退出しろって書いたのだが。
だから、俺は榛原に背を向けた。黒板消しで文字を消し、新たにチョークで書いていく。
【調査書の記入がまだの人は後日、葛城まで提出すること】
俺はチョークの粉を払い、調査書の入ったカゴを回収する。そして、そのまま教室を後にした。
彼女の、榛原の夢とはなんなのだろう。
そして、かつての俺の夢はなんだったのだろう。
ただ1つ言える事は、どちらも高校の国語教師ではない、という事だけである。