002-葛城省吾/目覚めた夜に
葛城省吾
「うわあああああ! 落ちるううう!」
情けない声が響くと、俺の顔面が床に叩きつけられた。くそ痛い。
最悪の目覚めだ。どうやら、うたた寝をしてしまったらしい。その途中で、椅子のキャスターが転がり、椅子から落ちた俺は、床におはようのキスをしてしまったようだ。頭をなんとか持ち上げ振り返ると、椅子が部屋の端まで移動していた。
既に時刻は、午前1時を少し過ぎていた。
学校から家に帰ってきたのが午後8時頃。スーツのまま、随分寝てしまった。
泣く泣く、椅子を引きずってデスク前に戻す。自然と、デスク上のノートPCに目が行く。
「あぁ。だから、あんな夢を見たのか」
他に誰もいない部屋で俺は呟く。
ディスプレイでは、同じ動画がリピート再生されていた。
「はい、という事で自己紹介を――」
それは、少女が自己紹介をしている動画だった。ただ、彼女は生身の人間ではない。バーチャル世界の存在である。ただの動画に過ぎないと分かっていても、いざ彼女を――藤多柚衣を目の前にすると、俺の鼻息は荒くなり、耳たぶが熱くなる。
待て待て、これはあくまで仮想現実。現実じゃない。気を乱す必要なんてない。
「一旦、風呂入るか……」
一度PCをスリープさせ、俺はリビングを出て、シャワーを浴びに向かう。汗を流し、寝間着に身を包む。濡れた髪をタオルで拭きながら、リビング併設のキッチンへ入った。カップラーメンしか入っていない棚から、適当なものを選び、電気ポットの湯をカップラーメンにそそぐ。
「3分間待ってやる」
なんて冗談をかましながら、PC前へカップラーメンを持っていく。真っ暗なディスプレイには、眼鏡をかけた男。髪もしばらく切っていないし、目に覇気もない。我ながら冴えない見た目だ。加えて、唇の端も間抜けに切れている。今年で24歳になるというのに、貫禄という物が一切ない。その顔をかき消すように、PCの電源を入れた。すぐに、俺の疲弊した顔は、少女の笑顔に切り替わった。
「み、皆ぁーシェアスマ―……?」
良い。やはり彼女は、人を惹きつける素質を十分に持っている。
一つに、見た目の良さだ。スタイルは勿論の事、愛くるしい顔は老若男女、誰からも好まれるだろうし、トレードマークの金髪アホ毛は彼女の元気を体現している。更に言えば、泣きぼくろや肩出しルックは、少し大人な魅力も内包しているのだ。
人気が、出ないはずがない。
ポテンシャルはある。これは、絶対的な確信だ。
俺は動画の再生回数に目をやる。
87回。
お世辞にも、人気があるとは言いにくい。しかもその内、40回近くは俺が稼いだ。投稿から2日でこれは、正直かなり寂しい。
俺に再生数を稼ぐ以外、何が出来るだろう?
おそらく今の彼女には、見た目以外の魅力が必要なのだろう。魅力的な見てくれなんて、最早この時代においては当たり前のステータスである。
その中でアホ毛1つ分でも抜きん出るには、彼女の持つ魅力をもっと引き出す必要がある。
この動画にも、彼女なりに足掻いた形跡はある。例えば大喜利をしてみたり、オリジナル挨拶「シェアスマ」から自己紹介を始めてみたりといった具合だ。ただ、何かコレジャナイ感が漂う。取ってつけたような、チグハグな印象を受けるのだ。少ない再生回数と、コメントもいいねも付いていない事実が、更にそれを物語っていた。
「な、なので! 皆さんも私のファンに、なってくれると嬉しいです……」
動画もエンディングに差し掛かり、別れの挨拶に入る。
虚しい。これでは、せっかくの笑顔も届くべき人に届かない。
届いたとしても、今の君のその姿は、一人の疲れた大人を笑顔にするどころか、途方に暮れさせるばかりだ。
「ま、またのご視聴、よろしくお願いします!」
彼女は言う。だから、俺はまた動画をリピートする。
手元のメモ帳に、改善点などを書き溜めてみたものの、俺はこれをどうしようと言うのだろう。別に、やらなくてもいい。出来るかどうかも分からない。
「藤多柚衣です!」
彼女は飽きることなく、拙い自己紹介を繰り返す。
でも、彼女、藤多柚衣を俺は――
決心した俺は、マウスを操作し、素早くキーボードを叩く。
しかしその時、俺は衝撃の事実に気付いてしまう。
「しまっ……」
マウス横のラーメンは、もうすっかり伸びきっていた。
省吾は高校の教師です。
藤多柚衣の動画の先に彼が何を見ているのか、続きにご期待ください。