ある学園の正当な婚約解消の後日談。
『この学園に不当な婚約破棄などない。』の続編です。今回は断罪シーンはありません。
聖ベネデッタ学園は、その名の通り平和と平等の女神たる聖ベネデッタを由来として設立された、国一番の規模を誇るマンモス校だ。
貴族生徒は青いネクタイかリボン、平民生徒は茶色のそれらを身につけることで区別されてはいるものの、入学に関しては身分差関係なく、広くその門戸は開かれている。
ベネディアンナ王国において名実共に最高の学習環境であるこの学園には、当然ながら学生寮が併設されている。
寮生には主に、下級貴族や平民の生徒が多い。上級貴族の生徒たちは王都という立地上、それぞれ家が所有する屋敷から通うことが多いためである。
よって、正門の傍らには貴族の馬車が駐車するスペースが設けられている。
実家の格や派閥によって、駐車場所を組み替えるのは学園事務局の仕事だ。毎年のように事務員たちが頭を悩ませているのは言うまでもない。
放課後はそのスペースに上級貴族の馬車が多く見受けられる。居残って自習するよりも、家で雇っている家庭教師に学ぶ方が良いとされているからだ。
平民生徒たちは変に目をつけられても困るため、裏門を使ったり時間をずらしたりして対応している。
そんなわけで、普段放課後の正門付近は、ある程度の時刻までは常に一定の生徒は見えるものの、ごった返すということはほとんどない。
だが、その日はそれこそお祭り騒ぎかと勘違いしてしまいそうなほど、正門前は大変混雑していた。
正門のほど近くに停車した一台の馬車。その傍らに佇み人を待っていた、一人の美丈夫が原因で。
百人が百人美形だと称賛するようなその男は、愛しい婚約者に愛の言葉を捧げていた。
本人としては挨拶のつもりなのかもしれないが、口から飛び出るのは明記するだけで歯が浮くような美辞麗句の数々。そしてその眼差しは、直視しただけで氷菓子のように溶けてしまいそうなほど熱い。
それを直接吹き込まれている令嬢は、普段の通り淑女の微笑みで流そうとしたのだが、受け流しきれずに徐々に顔を赤く染めていく。
流れるような金髪の隙間から除く赤い耳を指し、女子生徒たちがきゃあきゃあと黄色い声ではしゃぐ。男子生徒は、いつもであれば挨拶するのも躊躇われる高嶺の花が、普通の少女のように慌てる姿に釘付けだ。
「うわ」
ざわざわと騒ぐばかりの野次馬で溢れかえる正門付近。そこへやってきた一人の男子生徒は、周囲に聞こえない程度の小声で呟いた。
濃い褐色の髪と目。特に目立つものでもない顔。着崩してもいない指定の制服。
埋没してしまいそうな無個性の塊である彼こそが、この状況の立役者とも言える。
「何だあれ……」
珍獣でも見るかのような目で人だかりを眺める平民の男子生徒。ベイリーという名の彼は、先日第三王子殿下とローズベリー侯爵令嬢との間で起きた婚約破棄騒ぎの関係者だ。
だが、周囲から特に注目を集めているわけでもない。
マンモス校ゆえに彼個人の顔を覚えている者が少ないというわけではなく、これは彼が有する特殊技術に起因するものだ。
王侯貴族を審議し処断する、「天秤の従僕」という組織。そこに所属する者は、個人認識能力を極限まで低下させる秘術を使用する。
先日の事件の際、その秘術を用いてベイリーという平民生徒への認識力を下げておいたおかげで、こうして彼は平然と学園生活を送れているのだ。
また何か面倒な事件だろうか。彼は呆れた顔でそう考え、ひとまず人垣の端に近付きざわめきに耳を傾ける。
途切れ途切れに聞こえてくる情報を継ぎ接ぎしながら、ベイリーは「なるほど」と一人頷いた。
「噂は本当だったんだな……」
「えっ!? 本物!?」
「やっぱりベンフィールド家の紋章だ」
「あちらはマリアベーラ様でしょう?」
「羨ましいわ。目の保養ねえ」
「嘘だろ? 団長がこんな時間に暇なわけ」
「ねえ見て、殿下のお顔」
ベンフィールド家は、一代限りの名誉士爵だ。当主の名前はシルヴェスター・アレク・ベンフィールド。王弟殿下その人である。
彼は庶子であったため、若い頃から王位継承権を放棄している。その際与えられたのがベンフィールド士爵としての地位、というわけだ。
ちなみに、王弟殿下は王国騎士団の団長でもある。これは王家のコネやテコ入れではなく、彼自身の実力によるものだ。
さて、そのベンフィールド家の紋章付きの馬車が、何故学園の校門前に停めてあるのか。しかもこの騒ぎは一体何事か。
何が目的で、誰の差し金で、こんな大事になっているのだろうか。謎すぎる。
有り得そうな可能性をいくつか考えてから、ベイリーはこっそりと溜め息をついた。考えてもわかりそうにないことがわかったからだ。
仕方がないので少しだけ移動して、軽く背伸びをして、ざわめいている中心を覗き見て。
「うわあ……」
野次馬だらけの正門を最初に見たときと同じような、けれどそれより嫌気の増した呟きをもらして、盛大に顔を歪めた。
人混みの中心では、王弟殿下が、学園にまで来てマリアベーラを口説いていたのだ。
そして口説かれている彼女は、もういっぱいいっぱいといった様子で顔を真っ赤に染めていたのである。
普通に考えれば呆れそうな内容だが、今回に限って言えば笑い話ではない。
婚約破棄を切り出されたマリアベーラ。彼女に落ち度はなかった。とはいえ、婚約者がいない侯爵令嬢というのはあまり外聞のいいものではない。
だから噂話で話が広まる前に、王弟殿下自らこの婚約が成立したことを喧伝しにきたのだろう。多分、きっと。
ベイリーは、今回の婚約解消に少しは関わっている自覚がある。
だから今現在、マリアベーラが混乱の極みにあるのは彼にも責任があるということも、ほんの少しは感じている。
悪いことをした。いや悪事を働いたのは自分ではないのだが。
そう考えつつもつい直視するのが心苦しくなって、ベイリーは思わず顔を背けた。
「……見なかったことに」
出来るのか。いや、しなければ。
そうでなければベイリーに平穏は訪れない気がする。主に精神面で。
再度溜め息をついたベイリーは、賑わう正門付近からそっと離れていった。
心の中だけで、人垣の中心に向かって「婚約成立おめでとうございます」と呟いてから。
*
その後、ベイリーは騎士団の事情通からとある情報を得た。
いわく、今まで王弟殿下に女性の噂がなかったのは、昔から親交のあるマリアベーラを一途に愛していたからなのだとか。
あまりにも女性関係がクリーンすぎて一時は男色の噂もあったのだが、そう言われれば辻褄が合う。
だが、十年以上も甥の婚約者に懸想し続けるというのはいかがなものか。
今でこそマリアベーラは立派な淑女に成長したが、当時はそれこそ少女を通り越して幼女である。ロリコ……いや、全ては言うまい。
まさに、恋は盲目ということだろう。第三王子殿下しかり、王弟殿下しかり。
むしろ婚約破棄に関しては王弟殿下が手を回していたのではあるまいな、という疑念さえ湧いてきた。あの優秀さならやりかねないのが恐ろしい。
だが、今回は王弟殿下は無関係だと既に裏は取れている。かねてよりローズベリー侯爵に接触していたのは事実だが、それ以外の、それこそ法に触れるような手回しはなかった。
少なくとも、「天秤の従僕」が調べられる限りでは。
まあ、あの様子ならばマリアベーラに知れて嫌われるようなことはしていないだろうし、今後もしないに違いない。多分、きっと、恐らく。
ベイリーは、ふと一つの仮説に行き当たる。むしろ恋愛的に制限のある王族や貴族の方がこういった事件を起こしやすいのではないか、と。
だから、最近各所で唐突に婚約破棄を叫ぶ妙な事件が多発しているのではないか。
「まさか」
ないない、と頭を振って乾いた笑みを浮かべたベイリーだったが、彼の表情筋は引きつっている。
もしその仮説が正しければ、彼は今後何度も何度も、婚約解消の正当な手順について一から説明しなければならないのだから。
そんなことをするために「天秤の従僕」になったわけじゃない、と主張するベイリーだったが、現実とはかくも残酷である。
卒業後、組織の上層部に呼び出された彼は、予想通りの任務を遂行するため、各地を飛び回ることになったのだった。
「雇用契約書の内容と違うんですが!」
(終)
ベイリーは 不当な婚約破棄絶許マン の称号を手に入れた!
※天秤の従僕に日本の雇用制度は適用されません。
※前回の補足↓
第三王子と侯爵令嬢は婚約解消済み。
婚約破棄騒動はヒロイン()の香の所為だったので第三王子は責任能力なしとされて慰謝料の件は帳消し。