救いを求めし幼子の声
八月のある晴れた平日、仕事のある大人はともかく、学生にとっては最大の休日となる夏休みのある日。
悠人もそんな夏休みを謳歌する学生のひとりであり、親が仕事でいない今日も家のリビングゴロゴロと自堕落に過ごしていた。
時間は昼を過ぎた頃であり、エアコンを付けずに開け放たれた窓からは、近くの公園で遊ぶ子どもの声が聞こえてきている。
昼前まではゲームで遊んでいた悠人だが、今はゲームはやめており、ネットの友人の瑠璃と通話をしていた。
「あ、そういえば、今朝あのゲームのガチャでさ・・・」
話す内容もゲームの話題やアニメの話題などの取り留めのない話題ばかりで、とてもゆったりとした時間だった。
この時までは。
『ごめん!ちょっと声が遠くて聞き取りづらいんだけど!今朝がなに?』
電波が悪くなったのだろうか、悠人は先程までと声の大きさを変えていなかったのだが、瑠璃にはよく聞き取れなかったようだ。
「え?ああ、今朝あのゲームのガチャで・・・」
先程話したゲームでレアキャラを当てたという話を悠人はもう一度瑠璃にする。
だが、
『あれ?おーい!悠人?聞こえてるー?』
瑠璃には悠人の声が聞こえていないのだろうか。
まるで悠人が何も反応していないかのような反応を瑠璃はしていた。
「瑠璃?今話してるの聞こえてるかー?」
悠人は瑠璃に自分の声が聞こえているかどうか聞く。
『やっと聞こえたー。それで悠人、今朝がどうしたの?』
やはり電波障害なのだろうか、やはり瑠璃には悠人の声が聞こえていなかったようだ。
「ちょっと電波が悪いのかな?今朝あのゲームのガチャで・・・」
悠人はもう三度目ともなるゲームでレアキャラを当てたという話を瑠璃に話す。
『おお!あのキャラか、よかったじゃん悠人!』
三度目の正直と言ったところか、今回はきちんと悠人の声は瑠璃に届いたようだ。
『あ、そういえばさ、悠人って妹とかいるの?それとも誰か悠人をお兄ちゃんって呼ぶような子でも家にいる?』
「は?妹?いや、俺は一人っ子だし、今は家には俺しかいないぞ?」
ゲームの話から一転、突然変なことを聞いてくる瑠璃を不思議に思いながらも悠人は正直に答える。
実際、悠人は一人っ子で妹はおろか兄弟はおらず、今は親は仕事だ。
親戚の子や友達が家に遊びに来ているということもなく、家の中には悠人一人しかいない。
『じゃあさ、昔妹がいたり、妹が産まれる予定があったりとかは?』
「どっちもないな、俺は生まれてこの方ずっと一人っ子だったし、妹も弟もできるかもって話になったこともない。というかいきなりそんなことを聞いてきてどうした?」
なおもやけに妹に拘って聞いてくる瑠璃の質問に正直に答えながらも、質問の意図が掴めなかった悠人は瑠璃の意図を聞こうとする。
『いやさ、さっきちょっとの間悠人の声が全く聞こえなくなったんだけどさ、また声が聞こえるようになってから悠人のとこから『お兄ちゃんお兄ちゃん』って言ってる女の子の声が聞こえたのよ。だから悠人の妹とかかなー?って思ったけど違うのね』
「は?女の子の声?」
瑠璃の説明に悠人は慌てて部屋の中を見回す。
だが、悠人のいるリビングには女の子の声はおろか悠人以外の人の姿すらない。
そもそも悠人は朝に親が仕事に行ってからずっと一人で家にいるのだ、他の人がいるわけがなかった。
「今、窓開けてるし、外の子どもの声が聞こえるとかじゃなくて?」
『違うよ、悠人の家からなのは間違いない』
悠人は、自分が気づいていないだけで、外から子どもの声が入ったのかと考えたがそれも違うらしい。
だが、自分の家から聞こえると言われても家に他に人がいないのは間違いないし、悠人にはそんな声は聞こえてこない。
『ねえ、悠人の家には正方形の部屋ってある?』
わけも分からず悠人が首をひねっていると、瑠璃は今度はそんなことを聞いてきた。
「正方形の部屋...?」
瑠璃の質問に悠人は家の間取りを頭に浮かべる。
悠人は全部の部屋の形を覚えている訳では無いが、確か悠人の部屋は正方形に近い形だ。
「確か...俺の部屋がほぼ正方形だったはずだけど、なんで?」
『あ、悠人の部屋なんだ。じゃあさ、悠人の部屋で最近物の場所が勝手に変わってたことってある?』
悠人の質問には答えずに瑠璃はまた別の質問をしてくる。
とりあえず先に質問に答えようと悠人は最近のことを思い出すが、悠人が把握している範囲では物の配置が勝手に動いていたことはない。
流石に押し入れの中とかまでは分からないが、そもそも悠人の部屋には親は入らないので物が勝手に動くことはありえなかった。
「自分が把握してる範囲では特には勝手に動いてた物はないな」
『うーん、じゃあ物に釣られてきたわけではないのね』
悠人の答えに対し、瑠璃はわけのわからないことを呟く。
そろそろ悠人はこの一連の質問の意味を知りたかった。
「なあ、さっきからのこの質問ってなんの意味があるんだ?」
『え?ああ、ごめんごめん、多分悠人の部屋に女の子の幽霊がいるんだけどさ、何が原因で来たのかなーって』
「はあ!?幽霊!?」
瑠璃のまさかの返答に悠人は驚いて聞き返す。
悠人は幽霊の存在を信じていないわけではないが、まさか自分の部屋に出てくるとは思ってもみなかった。
『うん、幽霊、しかも結構強い感じの幽霊。なんか偶然来たって感じがしないから物に釣られたのかと思ったけど違うみたいだね』
「幽霊、幽霊かぁ...。じゃあさ、今部屋に行ったら見えたりすんのかな?」
悠人は体を起こして立ち上がりながら瑠璃に聞く。
なんでこんなことを聞くのかというと、悠人は霊を見てみたかったのだ。
悠人には霊感がない、いや、正確には霊感がなくなったというのが正しいか。
薄らとした記憶だが、小学校の頃は霊とかそういうものが少なからず見えていた。
だが、中学の頃に礼拝堂で──中学はキリスト教系の学校だったのだ──真っ白な人影のようなものを見たのを最後に霊の類を見ることはなくなっていた。
それゆえに幽霊、しかも強い幽霊が部屋にいるというのを聞いて、もしかしたらまた見えるのではないかと思ったのだ。
『んー、結構力のある霊っぽいからもしかしたらみえるかも、でも──』
悠人は、瑠璃が質問に答える前に移動を始めており、瑠璃が答え始めた時には部屋の入口にまで来ていた。
どうせ答えは見れるか見れないかの二択だろうとタカを括っており、見れなかったら見れなかったで自分には霊は見えないとはっきりする。
その程度にしか考えていなかったのだ。
だが、悠人は瑠璃の答えをきちんと聞いてから動くべきだった。
『──もしかすると、見に行って気付かれたら取り憑かれて最悪殺されるかも』
部屋の中を覗き込もうとした悠人は、「でも」から続いて聞かされた恐ろしい可能性に動きを止める。
だが、今さら動きを止めたところでもう手遅れだった。
既に悠人は部屋の中を覗き込んでしまっていたのだから。
「っ!!」
悠人の視線の先、部屋の中央にそれはいた。
姿はよく分からないが、黒い影のようなものが部屋の中央に佇んでいる。
恐らくあの影のようなものが瑠璃の言っていた幽霊なのだろう。
だが、悠人には幽霊を見れたという喜びはなく、瑠璃の言った死の可能性が頭の中に渦巻いていた。
そして、悠人がその幽霊をじっと見ていると、突然幽霊が身じろぎするかのように揺れる。
「──!?」
目が合った。
顔があるかも分からないのになぜか直感的にそう感じた悠人は悲鳴をあげて後ずさろうとする。
だが、悠人の口から悲鳴が上がることはなく、また悠人の体は金縛りにでもあったかのように動かなくなっていた。
声は出ず、体を動かすこともできず、ただ幽霊を見ていることしか悠人にはできない。
そして、そんな悠人に対し幽霊がまるで飛びかかるように接近してきた。
『悠人!?』
悠人の、いや、幽霊の様子が分かったのだろうか、瑠璃が焦ったような声で悠人の名を呼ぶ。
そしてその瑠璃の声が届くとほぼ同時、幽霊が悠人の体に触れる。
幽霊が触れた場所から体が凍りつくような感覚が悠人を襲い、悠人の視界が真っ暗になった。
『お兄ちゃん!お兄ちゃん!』
視界はどこまでも暗く、魂までもが凍りついたかのような不気味な寒さに包まれている悠人の耳にどこからか兄を呼ぶ女の子の声が聞こえてくる。
そして、その声が聞こえるのを境に徐々に不気味な流石が消えていき、誰かに体が揺さぶられる感覚が体を襲う。
だが、いまだに悠人は体をぴくりとも動かすことができない。
それどころか、まるで体が鉛にでもなったかのように体が重く感じていた。
『あーらら、唯人は死んじゃったか』
頭上からさっきとは別の少女の声が聞こえ、唐突に視界が明るくなっていく。
だが、視界が明るくなったにも関わらず見えてくるものはどこかおかしい。
視界に映るものはセピア色であり、見える景色も悠人の部屋とは異なっている。
そもそも、悠人は先ほどまで立ってたはずだ。
にも関わらず悠人は今、床に倒れている。
そして、悠人の前にはどこか歪んだ笑みを浮かべる少女が悠人を見下ろすように立っており、悠人の横にはまた別の少女が悠人のことを『お兄ちゃん』と呼びながら悠人の体を揺さぶっていた。
(優那、唯)
悠人の頭の中に唐突に二つの名前が浮かぶ。
理由は分からない、分からないのだが悠人の前に立つ少女が優那、悠人を『お兄ちゃん』と呼ぶ少女が唯だという確信が悠人にはあった。
先ほど優那が呼んだ唯人という名、それが自分の名前だという確信も。
そして、唯人という名前であった自分は既に死んでいるという確信も。
自分の知らない光景。
自分の知らない名前。
自分の知らない死。
にも関わらず自分はこの光景も、その名前も、そして死の理由も知っている。
そんな明らかにおかしなこの状況であるが、不思議と悠人は違和感を感じていなかった。
『もう少し唯人でも楽しめると思ったんだけどねぇ。まあいいや、後は唯で遊ぼうか』
優那はそう言うと、唯に壊れた笑顔を向ける。
『ひっ...』
唯は怯えたように小さく悲鳴をあげて悠人の腕を強く握った。
『お、お兄ちゃん、お兄ちゃん!』
唯は悠人に助けを求めるように叫びながら悠人の体を揺さぶる。
だが、既に死んでしまっている悠人にはどうすることも出来ない。
『ねぇ唯?唯人はもう死んじゃってるし、今度はお姉ちゃんと楽しく遊ぼう?』
優那は唯に語りかけるようにそう言うと、口の端を釣り上げてふらふらと唯に近付いていく。
『お兄ちゃん!お兄ちゃん!お兄ちゃぁあああああん!』
『あははははは!どれだけ呼んでも無駄だよ唯?だって唯人はもう死んじゃってるんだからさぁ!』
優那に足を掴まれ、引き摺るように連れていかれる唯は、それでも悠人を呼んで手を伸ばす。
だが、伸ばしたその手は決して悠人に届くことはなく、悠人の視界は再び暗くなっていった。
『悠人!ねえ、悠人!返事して、悠人!』
『お兄ちゃん、お兄ちゃん...!』
二度目の暗闇の中、どこからか瑠璃の声と唯の声が響いてくる。
そして、それと同時にすぅっと何かに引き寄せられるような感覚が悠人の体を襲い、視界が明るくなってきた。
周りがはっきりと見えるようになった時、悠人の視界に映ったのは、見慣れた悠人の部屋だった。
最初に視界が暗くなる前に感じていた不気味な寒さは今も消えており、また、いつの間にか体が動くようになっている。
だが、体が動くようになったにも関わらず、悠人の体は重い。
(いや、これは体が重いというより、誰かにしがみつかれているような...?)
そんなことを考えながら悠人が視線を下に向けると、そこには唯がいた。
もう一度言おう、そこには、がっしりと悠人に抱きつき悠人に頭を擦り付けている唯がいた。
「うん、唯だな。うん!?」
一瞬唯がそこにいることを素直に受け入れそうになる悠人だが、おかしな事に気づいて疑問の声をあげる。
ここは悠人の家だ、先ほどまで見ていたセピア色の場所ではない。
にも関わらずなぜ唯がここにいて、なぜ自分に抱きついているのか。
ついでに言うなら悠人の部屋にいたはずの幽霊の姿が見えないがどこかに行ったのだろうか
わけも分からず首をかしげる悠人の耳に瑠璃の声が聞こえてきた。
『悠人!しっかりして!ねえ悠人!』
正確に言えば悠人の意識が悠人の部屋に戻ってから、もっと言えば悠人が幽霊に触れられて視界が暗くなってからずっと瑠璃は悠人の事を呼んでいた。
だが、悠人の意識が悠人の部屋に戻る直前の時を除き、セピア色の場所を見ている時はもちろん、悠人の意識が悠人の部屋に戻ってきてからも悠人の耳には瑠璃の声が届いていなかった。
「あ、瑠璃?なんかよく分からない状況になってるんだけど」
『悠人!?気づいたの?大丈夫!?』
悠人が唯から視線を外し、瑠璃に声をかけると、瑠璃は相当焦った様子で悠人に大丈夫かと聞いてくる。
「え?特に体に異常はないよ。唯に抱きつかれてるのがちょっとわけが分からないけど」
『よかった...!急に幽霊の反応が動いて悠人と重なって悠人の生気が急速に消えていくし、幽霊をどうにかしようにもまるで融合したかのように重なってるしで心配したんだからね』
「うん、よく分からん...ってもしかしてさっきのあの幽霊が唯か?」
『唯...?唯ってのが誰かは知らないけど、幽霊は今もあんたとくっついてるわよ、ほんとに大丈夫なの?』
瑠璃の言葉に悠人は再び唯に目を向ける。
唯はいまだに悠人に抱きついて頭をこすりつけていた。
「つまりさっきの幽霊が唯で、あれは唯の記憶か...?」
瑠璃の言う生気がどうというのは分からないが、多分唯が自分に触れた時に自分の中に唯の記憶が入ってきたのだろう。
そう考える悠人だが、それは違うというような気がした。
あのセピア色の光景、あれは単純に唯の記憶が流れ込んだのではなく、自分ではない自分の記憶だという感覚がある。
それになにより、唯が自分のことを『お兄ちゃん』と呼んでいる。
あのセピア色の光景がすべて唯の記憶によるものだと言うのなら、今ここにいる唯が自分を『お兄ちゃん』と呼ぶのはおかしい。
「輪廻転生?」
ふと悠人の頭の中に輪廻転生の単語がよぎる。
輪廻転生、死者の魂はまた新たな命となってこの世を廻っているという概念。
もしその概念が存在し、唯人と悠人の魂が繋がっているなら、そして唯人の記憶が魂に残っていたなら、さっきのセピア色の光景も、唯が自分を『お兄ちゃん』と呼ぶのも納得出来るのではないだろうか。
そう考えた悠人は、さっきまでの雰囲気から幽霊とかに詳しそうな瑠璃に聞いてみることにした。
「なあ瑠璃、輪廻転生ってほんとにあるのか?」
『なによ、藪から棒に。えっと輪廻転生だっけ?まあ実際にあるわね、死んで成仏すれば生まれ変わる、成仏できなかったら幽霊となって成仏するか消えるまでこの世に留まる』
「あー、じゃあやっぱりそういうことか」
瑠璃の説明に恐らく自分の仮説が正しいのだろうと分かった悠人はそう呟く。
だが、当然といえば当然だが、悠人は分かっても瑠璃にはなんのことかさっぱり分からなかったようだ。
『何がそういうことなのよ、一人で納得されてもよく分からないんだけど』
「ん?ああすまんすまん、実は・・・」
悠人は自分が見たセピア色の光景、そこで起きた自分が知ってる知らないはずの出来事、そして意識が戻ってからの唯の存在と行動を瑠璃に説明する。
『あー、なるほど、そういうことね。確かに悠人の仮説は正しそうね』
悠人の説明で瑠璃も納得したようだが、まだ根本的なことは解決していない。
『それで、悠人はどうするの?』
「ん?どうするって?」
『前世はともかく今のあんたはその唯って子の兄の唯人じゃなくて悠人でしょ?それを踏まえた上でその唯って子に対してどうするのかってこと』
「あー、そういうことか」
瑠璃のその質問に悠人は思わず天井を見上げる。
そう、今瑠璃が聞いてきたことが現状の最大の問題なのだ。
唯は悠人のことを唯人と思い込んで『お兄ちゃん』と呼び、とても嬉しそうに悠人にくっついている。
恐らく、唯はお兄ちゃん──唯人のことが大好きだったのだろう。
唯人が優那に殺されてからもずっと唯人のことを呼び求めていた。
だが、自分は悠人だ。
前世の自分がどうであれ、今の自分は悠人であり、唯人ではない。
それを唯に伝えるべきか、それとも嘘をついて唯人として振る舞うべきか、そこが問題だった。
二つの手段はどちらも正解のように思うし、どちらも間違っているようにも思う。
だが、恐らくこの二つ以外の選択肢はなく、この二つのどちらかを行わなければならないだろう。
だが、そのどちらを選ぶのかを悠人は決めかねていた。
「なあ瑠璃、どうすればいいと思う?」
『あんたが何に悩んでるかはなんとなく察しがつくけど、それはあんたが決めることよ。自分の心が示すことをしなさい』
瑠璃はそれだけを言うと、通話を切ってしまった。
瑠璃がくれたアドバイス、そして瑠璃の方から通話を終わらせてくれた優しさを悠人はありがたく思う。
「ありがとな、瑠璃」
悠人は天井を見上げたままそう呟くと、小さく嘆息する。
実を言うと、悠人の中ではこれからどうするのかは既に決まっていた。
しかし、その選択を行う勇気が出ずに瑠璃に聞いたのだ。
だが、このまま先延ばしにすることは出来ない。
「ふぅ.........」
悠人はゆったりと息を吐き、行動を起こす覚悟を決めた。
悠人は、右手を動かすと唯の頭に手を乗せる。
ちょっとすり抜けたりしないかが心配だったが、悠人の手ははっきりと唯の頭に乗せられていた。
『?』
突然頭に手を置かれた唯は頭をこすりつけるのをやめ、不思議そうな顔で悠人を見上げる。
「なあ、唯」
『どうしたのお兄ちゃん?』
「唯はさ、俺のことをお兄ちゃん、唯人だと思ってるんだよな?」
『お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ?』
悠人の質問に分からないと言った様子で唯は首を傾げる。
「いや、俺はお前のお兄ちゃんじゃないんだよ」
悠人のその言葉に唯は否定も肯定もせず、ただ悠人のことをじっと見つめていた。
「さっきさ、多分唯が俺に抱きついてきた時、唯人と唯の記憶を見たよ」
悠人は唯のそんな反応には触れず、ただただ話を続けていく。
「多分さ、唯は優那に何かされるのも辛かったんだろうけどさ、それよりも唯人がいなくなったのが辛かった、苦しかったんだろうな」
引き摺られて連れていかれた唯がどうなったのかは悠人には、そして唯人にも分からない。
だが、恐らく唯も唯人のように優那に殺されたのだろう。
優那は、狂ってしまっていたから。
「だから多分結が死んでしまってからもこの世に留まって唯人を求め続けた。そして、唯人と同じ魂を持つ俺の元へとたどり着いた」
そう、それが唯がこの場に現れた理由。
瑠璃は唯は偶然現れたわけではないと言っていた。
恐らくだが、唯人と同じ魂を持つ悠人に引き寄せられたのだろう。
だが悠人は悠人だ、唯人の魂を持っていても唯人とは別人で、唯人にはなれない。
「でもさ、俺は悠人だ。唯人じゃないんだよ。いくら唯が俺の中の唯人を求めても、俺は唯人になることは出来ない」
悠人が語る言葉を、唯はただじっと聞いていた。
その心の中で何を思っているのかは悠人には分からない。
だけど、それでも悠人は話し続ける。
それが、唯人にはなれない悠人が唯にしてあげられる救いだと信じて。
「だから唯は、唯は、もう安らかに眠るべきなんだ。いつまでも届かぬ唯人を求めて悲しい歩みを続ける必要は無いんだよ」
悠人はそう言って唯を抱き締める。
抱き締めた腕の中の唯はとても、とても冷たく感じた。
瑠璃が聞いた『お兄ちゃん』と呼ぶ唯の声、それは、兄という救いを求めた唯の魂の叫びだったのだろう。
そして唯は唯人と同じ魂を持つ悠人にたどり着いた。
ならば、もう唯は休んでもいいだろう。
これ以上、救いを求めて嘆き叫ぶ悲しい歩みは止めて安らかに、ゆっくりと眠ってもいいだろう。
「もう、苦しまなくていいから。もう、泣かなくてもいいから。唯はもうじゅうぶん頑張ったよ。だから、今はもう眠ろう。きっと、きっと、次に目覚めた時には全てを忘れて楽になれるから」
悠人が唯に全てを語り終えた時、悠人の胸のあたりが薄らと光を放ち始めた。
当然発生した不思議な光に、悠人は唯を抱きしめるのをやめ、唯も悠人に抱きつくのをやめる。
悠人の胸に生じた光は、やがて悠人の体から離れ、ふわふわと宙を漂い移動すると、唯の後ろで静止した。
「これはいったい...?」
悠人が、そして唯が見つめる先で、光は徐々にその輝きを増し、やがて光は一人の少年の姿へと変わる。
「唯人...?」
『お兄...ちゃん』
そう、光が姿を変えた少年、それは悠人の前世にして唯が求め続けた唯人だった。
それは本来ならば既に存在するはずのないもの。
かつては唯人であり、今は悠人であるその魂から生じた唯人の魂。
悠人の思いが生み出した奇跡の存在だった。
そんな唯人は、唯に歩み寄ると唯の体を優しく抱きしめ、そっと頭を撫でる。
『お兄...ちゃん、また...会えた...』
唯人に抱きしめられ、頭を撫でられ、唯はぽろぽろと涙を流す。
それは悲しさゆえのではない、求め続けて求め続けてそれでも手に入ることなどありえなかった救いが与えられたことによる喜びの涙だった
唯人は何も言うことはなく、ただ優しく唯の頭を撫で続けている。
そして、どれほど経っただろうか、いつしか唯の涙は止まり、二人の体がキラキラと輝き始めていた。
悠人にとっては初めて見るその光景だが、きっと唯たちが成仏していくのだろう、そんな気がする。
悠人がじっと二人を見ていると、唯が悠人の元へと駆け寄ってきた。
悠人の元へと駆け寄ってきた唯は、悠人の頬にキスをする。
『ありがとう!悠人お兄ちゃん』
唯はそう言って悠人に抱きつき、それから唯人の元へ戻っていく。
唯人はぺこりと悠人にお辞儀をし、それから二人は天に昇っていくかのように消えていった。
「悠人お兄ちゃん、か」
悠人はそう呟くと唯にキスをされた頬に触れる。
幽霊であり、体温など無いはずの唯だったが、唯にキスをされた頬には確かな暖かさを感じることが出来た。