店主、唄う
✥より後は現在に話が飛びます。
今話の話と矛盾点が生じたので四話『店主、祈る』の修正を行っています。詳細は四話をご覧ください。
庭の片隅にに小さな穴を掘り、鼠の死骸を横たえる。小さな体、既に全て零れ果て冷たくなった弱い命。脇に寄せていた掘り返しの土を柔らかくそっとかけた。
「…………」
ただ哀れなこの動物に、しかし感傷は湧かない。それでもスコップを置き、屈んだままの体勢で手を合わせる。狼としての鼻が、否応なしにわずかな血臭のみを嗅ぎ取り、顔をしかめた。
そうしながら、もしも自分が死んだなら、彼女はどうするのだろうかと考える。
あの無表情の下が無感情でないことは知っている。いるが、けれどもあの凪いだ碧は果たして涙を零すのか、それともただ目を伏せ地面を見つめ続けるのか、はたまた何の動揺もなく在りつづけるのか……考えると、分からなくなる。
彼女と過ごした時間は他の誰よりも長いと自負しているが、それしきで理解しきれることではなかった。
もどかしいと、思う時もある。
しかし、普通にいるような人であったなら、レオ・ウルリクはスティナ・バーリエルを彼の忠誠を捧げる主として選びはしなかった。
「………………」
自分は運がいいのだろう、と思う。
様々な可能性を孕んだ運命の、しかし行き着くのは一つである道の上に偶然在った出来事の一つ。彼と彼女のその出会いは所詮はその程度であったにしても彼にとっては十分大きな出来事だった。
今でも、昨日のことのように思い出せる。
――己を死の際から救った少女と出会い、それが彼女であるという記憶は、彼にとっては十分過ぎるほどに鮮やかで尊いもので。
きっと彼女以上の人が現れることはないのだから、そしてレオは彼女以外の誰にもそんな気持ちを抱くことはないだろうから。
~店主、唄う~
玄関口をいつも以上に清め、血臭もその跡も綺麗に消したのを確認する。店内もわずかな埃を払い――ただし夜の侵入者がいた周辺は念入りに掃除した――窓を開ける。
多少手間のかかるようなことはあったが、簡単に朝の仕事を終えると後は開店までの時間を持て余した。
居住スペースに戻るのに廊下を抜けると、スティナも食器を既に片付け終えていたらしく縁側に座り込んでいるのを見つける。
「スティナ様」
「んー…………」
首だけ心持ちこちらに向けた体勢に何を抱えているのかと後ろから覗き込むと、見覚えのある猫である。
時折ふらりとやって来ては餌をねだりに来る、黒の毛並みが綺麗な猫だ。
スティナはその背中に顔を埋めてもふりつつ、器用にも隣の場所をぽんぽんと叩いた。レオは彼女の示すとおりに、座ることにする。
「隣、失礼します」
日が射しはじめているのにちょうど照らされるそこは温かく、夜からの(主には聞かせられないような)騒動に疲れた心を解してくれるような気がした。
隣をちらりと眼をやれば、彼女は猫の毛並みに突っ伏しながら目を閉じている。
一緒くたになり、日だまりにまどろんでいるようにも見えた。
「眠いのですか」
「いや? 私よりもよっぽどお前の方が眠そうだよ」
スティナうっすらと瞼を持ち上げレオを上目がちに見るが、それは一瞬のことですぐに碧は見えなくなる。
あまり説得力のないような体勢だ。が、あながち間違っているわけでもないのにレオは苦笑する。
元から眠りが浅く、またそうならざるをえない職業とはいえ、夜中のアレは少々厳しいものがあったからだ。
本来狼の五感は人の何倍とも言えるほど鋭いので、こういう人の多い所だと少々生きにくいきらいがある。
……まあ、とはいっても、順応している者が少ないわけではない。本能を放棄し、人間に歩調を合わせるように生きれば鋭敏な感覚も鈍るものである。幸か不幸か、レオには全く縁のないような話だが。
彼にそんな鈍りなど許されないし、山奥の群れの生まれである彼は狼獣人の生まれ持つ闘争心を失うこともなかった。鋭敏な感覚は昔のまま、依然として保たれたままである。
それはスティナを護る剣の一部であり、同時に彼を疲弊させうる枷となる。
そして、そのことをかの主も知っている。
「まだ開店まで時間があるし、寝るといい。きっと誰も来ないから」
「まぁ、そうでしょうが……」
しかめっつらを隠しきれず煮え切らないような答えで、それでも閑古鳥の気配を否定しない護衛に、スティナは伏せた顔でうっすらと微笑んだ。
彼に、じゃあこうしようと提案する。
「【魔術の神】の『神子』に師事したという人の仕事を疑ってはいないけれど……運用テストでもしてみようか」
ごそごそと取り出して胸の前で握り込んだのはいつぞやに手に入れた懐剣だ。
束の内部に装填された魔石が常日頃から持ち主から取り込み貯めていた魔力を放出し、設定されたとおりにその周囲を結界として覆う。蓄積された魔力が足りなくなれば、逐次所有者のを奪っていくので使いすぎなければなんということもない、とそれを売っていた店の店主に説明された。
もし製作者の望む結果が得られているならば、さらに聖遺物との合わせて二重の結界に護られるスティナに手出し出来る者など、そうそういない。
魔力の揺らぎを感じたか、じたばたと暴れだした黒猫を抱き潰すように押さえ付けながら彼女はその護衛に問う。レオも展開される魔力の動きにわずかに目を見開いた。
「どうかな」
「これほどとは……蓄積型の魔石と知ってはいますが、体は大丈夫ですか」
思っていた以上の効果なのだろう。驚きの混じる護衛の言葉に、乏しい表情のままスティナはおっとりと首を傾げた。くすんだ金がさらりと揺れ、射しはじめた陽光に当たり輝いている。
彼女が感じる限りで、魔術の行使時特有の虚脱感はなかった。
「負担らしい負担もないみたいだ。ね、これでお前も休めるだろう?」
「えぇ。――貴女に危険が及ばない限り、俺は貴女の望むままで在りましょう」
「素直に休むって言えばいい。大袈裟だよ」
ぎゅうぎゅうと抱き潰していた猫を隣に置いて――すぐに距離をとるあたり、しばらくはスティナの傍に寄って来ないかもしれない――今度は膝をぽんぽんと叩く。
その意味を理解しかねて、レオが思わずスティナを見つめる。
隣に座らせた時の動作が、叩く手の位置を変えただけである。
なんだ、主の膝の上にでも座れというのか。
「レオ」
「…………」
「頭、乗せていいから」
は、と疑問にも似た息が漏れて、そのことに顔が引き攣ったような気がした。
ただの親切心ですか、それとも意図的ですか――と言おうにも、それが前者であるだろうと、彼女の性格から知っている。
知っている故に余計たちが悪いように思えるのは気のせいなのか。
「……猫はよろしいので?」
「いいんじゃないかな」
かわいがっている割には、案外あっさりとしていた。まあ近づいたところでしばらくは相手にしてくれないだろうが、と思う。それ程までの拘束力であったことには違いないのだ。
逃げ道を塞がれたような状況で、スティナがもう一度ぽん、と膝を叩く。
しばらくの逡巡の後――主のこちらを見つめる碧に根負けする狼獣人の姿があった。
別に悲壮な決意をしたわけでもない。むしろその逆に自分がこうするのに妙な満足感があって、自分のくせしてレオはその感情に戸惑った。
「失礼します」
隣り合わせだった体を改めて主の方に向ける。主従の関係でありながら主が護衛に膝枕するのはどう考えても間違いとしか思えないのだが、でもこれはスティナが望んでいたことでじゃあいいんじゃないだろうか。ああ、しかし――彼女が己のために何かする必要なんてないというのに。
護衛の意地か、そんな内心は微塵も見せないが、断りを入れてからゆっくりと頭を膝の上に乗せる。
「………………」
「レオ?」
腰まで無造作に伸びるくすんだ金も、光に当たればきらきらときらめいて見えた。彼の顔を覗き込めば髪もさらりと揺れ、凪いだ海の碧に己が映る。頭の後で感じる感触は存外に柔らかく、それが堪らないようにも思えた。
行き先を失った手にじゃれついてきた猫を適当にあしらいながら、レオはそっと目を逸らして、庭を見遣る。そうしなければならないような、今彼女の顔を見続けてはいけないように思えた。
「スティナ様」
「何?」
「あまり他の人にやすやすと膝枕しないでくださいね」
「これだって初めてのことだけど……お前以外にやろうとは思わないよ」
「…………」
「心を許すのはまだ、お前一人でいい」
いつもの調子でそう言った彼女が、一体何を見ていたのか。目を逸らしてしまった彼には分からなかった。
ただ、与えられた今の状況を過ごすことしか出来ない。
「……開店の時間に起こしてください」
「出来たら、ね」
魔術で本を一冊喚びだしたスティナがすげない様子で言い返す。先のあの言葉をどういう意図で言ったのか――あるいは、本当に軽く言ったつもりで何も気にしてはいないのかもしれないが――分からなかった。
それ以上、深く考えることも叶わなかった。
「おやすみ、レオ」
その声が朧げに聞こえて、深くから引きずり込まれるかのようにレオは瞼を閉じた。
スティナはただそれを見届ける。同時にぱた、と閉じられたそれは古い魔術大全だった。
毎年更新されゆく魔術は、日常に使うなら古いものでも十分に事足りる。
もちろん近年開発された魔術で役に立つものもあるのだろう。しかしそれ以上に、スティナは『そこに至るまでの過程』を重視する。机上で生み出されるような、いわば魔術のために魔術を作り出すような……そんな物は好まないし、また興味もなかった。
彼女は本のかなり分厚い中から一つ、選んだのを行使する。
一通り読んでいるのでやり方も一度は理解していたが、完全に覚えているわけではない。【全知の神】の『加護』を持つ者のように一発で覚えられるような異常さを持ち合わせているわけではないのである。
彼女の好みの通りの、古い魔術だ。
無属性魔術、名称は『いざなう唄』。
まだ魔術の発展していない頃、声の出ない母が子の為に子守唄を歌ってやれない悔恨から生み出された魔術である。安らかに、深い眠りへと導く声なき唄。
難点は、それが母と赤子の関係であったゆえにお互いに接触が必要だということくらいか。その点で彼女の行動は――レオの内心はさておき――正しい。
膝の上に乗せられた頭。存外に柔らかい質の茶の髪をそっと撫でる。
犬耳を触ってやりたいという謎の欲望と戦いながら気を紛らすためふとその腹部を見れば、黒猫がふてぶてしくレオの腹の上で丸くなっている。スティナは少し笑い、手は護衛の頭を撫で続けていた。
二人がこの町で店を構えたばかりの頃、こんな経緯で始まった行動だったが、それが長いこと続くことになるとは思ってもいなかった。
✥ ✥ ✥
「…………で?」
「うん、おはようクローク」
「昼だ」
「無断で入ってくるのはどうかと思うよ。今更だけれど」
突然読んでいた本を強制的に取り上げられれば誰だって反抗的になると、眉をひそめたスティナは彼に言い返した。
クロークはむしろこっちがそうしたい気分だったが、それは個人的感情の領分である。今更とはいえ、常識的には無断侵入には違いない。何も言えなかった。
それでも、今更なのである。
聖遺物の能力は、人や物に関係なくそこに込められた思いを選別する領域を展開し対処すること。スティナに対して害意を抱かない者には作用しない。
つまり……クロークは該当するような人間でないという証明でもあった。
しかし、だからといってそれが店の奥の居住スペースに入り込んでいいかといえば、そうではないだろうが。まして人が張っていた結界を製作者であるのをいいことに勝手に解除するなど言語道断である。
「本、返して」
「また読むだろう。食事くらいしろ」
「そんなの、私の勝手だろうに」
立ってまで取り返す所だが、残念ながら彼女の膝を陣取る青年の頭があるからそんなことも出来ない。
「言っておくけれどさ、今日店を開ける気はないよ」
「お前に私の仕事を分けてやりたいものだ……で、こいつは寝不足か?」
うん、と頷いてスティナは手持ち無沙汰になったのを紛らすように髪を指に巻き付ける。じっと本を掲げる男を見つめてもさっと視線を逸らしたり話題を変えたりしてくるのだ。諦めろと言っているようなものである。本を読みたい欲望を放棄し、仕方無しに護衛の寝顔を眺め、夢は見ているのだろうかと、そんなことを思った。
そんなことをしながらスティナは、クロークの問いに朝から眠ってるんだ、と答える。
「町の外れにあっても人はそれなりにいるからね。レオは狼獣人だから、きついだろう。普段なら平気な程度には慣れているけど、昨日の夜中にお客があったみたいだし」
まあ、経過やきっかけが何であれ彼な状態が魔術での強制睡眠であるのは間違いない。ある程度になれば目覚めるのだからそろそろだとは思うのだが、と彼女はレオが目を開けるのを待つ。
詳しい襲撃事情を知らないクロークからすれば相槌を打つことしか出来ないような話だ。そもそも何が目的なのかとか、彼女の平々凡々な面しか知らない彼に重大なことまで話すつもりもないけれど。
「レオの熱狂的ファンがね」
たまに場所を特定するんだよねぇ、と暢気に言うのに顔を引き攣らせたのを視界の端に捉えた。
構わず襲撃に伴う嫌がらせの内容をちょろちょろと話して感想を求めれば、なかなか精神的にくるものであったらしいからスティナも口にしないというのも理由である。
クロークの反応を見るまではもう一つのことも頭の片隅で考えてはいたスティナだったが、実際に見て喉元まで出かかったのを再び飲み込んだ。
否、喋る必要性などそもそもないのだ。
――まあ、嘘は言わなかった。
その要因が全てではないだけで。
そして、それだけで何とかごまかせる魔術師も大概素直である。
「護衛が自分で主人の襲われる理由を作りに行ってたら世話ないだろう」
「……あぁ、それ本人に言わないでほしいんだ。一応気にしてるから」
努力していないわけがない。
彼の預かり知らぬことではあるが、レオもクローク印の魔道具愛用者である。
造作は同じでも髪や目の色、身長まで変わればもはや別人の域になることを実際に目で見て知っているから、スティナはレオが変装していても気づけるのだ。言われなければ分からない。
むしろ彼女らの中にはその魔道具、もとい変装グッズがあってそれがレオだと気づいたりするのだから大したものである。
執念さえ感じさせるものがあるが、それでも被害は最小限に抑えられている、と言ってもよいだろう。
「まあ、私からすればそれもたいしたことないんだけれどさ」
髪を巻き付けていた指を解いて今度は頬をつつく。気にするようなこともなく無表情で言い切ったのをクロークは微妙な表情で見つめた。
「スティナ、お前……」
「ん?」
「………………いや、何もない」
どう表現すればいいのか。
あるいは、もっと単純で明快にこう言ってもいいのかもしれない――平然とした様子に対する、違和感のようなもの。慣れ、という一言では片付けられないような。
その時クロークがスティナに追及していれば、何かが変わったのかもしれない。
けれどもクロークは、いい意味でも悪い意味でも、魔術師らしからぬ一面を持つ魔術師であった。
弱い『加護』。魔術師としては許されざるハンデでありながら、けれどもそれゆえに彼は『普通』の『人間らしい』魔術師だった。
空気を読まない魔術師ではない彼はスティナが口をつぐんだそれに気づくところまでいきながら、その核心に触れず。
「おはようレオ」
「ぅ………………あぁ、スティナ様…………っ、どれだけ眠ってました!?」
「昼だな」
「今更だろうに。眠気がなくなったならいいけど」
機会を逸したまま、わずかな違和感は忘れられてゆく。
「昼飯だ、ほら」
「いつもはたかってくるのに。珍しい」
「それだって金を払っているだろう」
クロークは屋台で売っている、いわゆる"挟むもの"を空間から出して手渡した。もちろん金はとるぞ、と言うのを聞きながら、レオはスティナの膝に乗せていた頭を上げる。碧と視線が絡まり、じとっとした目を向けた。
「本、読んでたでしょう」
「クロークに取り上げられたけどね」
「……初めて『これ』をされた時の夢を見ました」
「夢の中でまた眠ったの?」
器用なことをする、とずれた返答をする彼女に少し笑う。
「開店時間に起こしてくださいと言っておざなりな返事をもらったのも思い出しました」
「……そんなことも言ったかな。まあつい、ね」
悪びれもせずに肩を竦めるスティナのことを分かりきっているレオはともかく、クロークは彼女に呆れた目を向けた。
それ以上に納得も出来るのだが。
「想像できるな」
「けれど、今ほどではないと思うよ」
「おい」
それって悪化しているんじゃ、と言うのにレオは苦笑する。
彼女に言わせるならきっと、こう言うのだろう。
――それなりのことがあっても、やっぱり此処の居心地がいいからね。
二人そろって素知らぬふりで非難の視線を流しながら、食べ物の包み紙をぺら、とめくってかじりついた。
※過去の話ではスティナとレオはまだクロークに出会っていないもよう。