店主、語らう
リハビリです。
ぱらり、と、音がする。
何も突然聞こえたものではない。断続的に、とぎれとぎれながらも続くそれは、日常に紛れていて今では聞き慣れたものである。
棚の整理をしていた手を止めて、レオ・ウルリクは何とは無しに、その音を立てている方をちらりと見た。
ちょうど、窓から緩やかに吹き込んできた風が、彼女のくすんだ金髪を一房さらっていく所だった。
耳にかけていたそれがはらり、と手元に影を落とし、それまでレオの存在をものともしなかった――否、単に没頭していて気づいていなかっただけなのだろうが――碧眼が、文字列を追うのをやめた。
ゆるりと上がる視線が、レオのそれと交わる。
「お疲れ様です」
「…………今、何時?」
「昼前かと」
そう、と呟いて、彼女は静かに、それまで読んでいた本をぱたりと閉じた。
どうやら集中力が切れたらしい。
それでも指は、そっと、まるで子を慈しむようにその表紙の題名を名残惜しげになぞり続けている。そうしながら――彼女は不意に、ふっと微笑んだ。
大方本の内容について考えているのだろう。けれども、その表情の柔らかさが不意打ちのようで、レオは目をしばたたかせた。
「なら早いけれど、昼食にでもしようか……レオ、どうかした?」
「いえ……」
少々の動揺も、すぐに普段の表情に隠れる。そのおかげもあって、気のせいか、とすぐに追求をやめた彼女にそっとレオは安堵の息を吐いた。
苦手、というわけではないのだろう――ただ、敢えて言うのならその微笑みは、なんだか胸をざわつかせるような何かがあった。
支度をするのに、ようやく本を手放して奥に引っ込んでいく後ろ姿を見届けた彼は、とりあえず自分も手でも洗って来ようか、とそんなことを考えて棚から身を離す。
整然と並べられているのは本だ。
彼女が先程していたように、背表紙をつとなぞり、彼はかつてのある日を思い出す。
少年だった頃は、――彼女と出会う以前は、こんな生活を想像したことなど一片もなかった。
「レオ、戸締まりはー?」
もう準備を終えたのだろうか、奥から尋ねる主人の声がする。
或いは、単に自分の回想する時間が長かっただけなのかもしれない。
「今からするところです、スティナ様!」
我にかえりそう返すと、彼は近場の窓から閉めようと動き出した。
その気になれば、そんな作業はすぐに終わるものである。
ものの数分で点検、最後に仕上げとばかりに軽く中を見渡し、明かりを消す。
外への扉を開け、主人が既に準備を終え待っているのを見つけた。
「待ちましたか?」
「少しだけだよ。でも珍しいね、大体私より早いのに」
「……少し、感慨にふけっていまして」
背を向けて扉に鍵をかける。だから主人がどんな顔をしているのかは見えず、ただいつものように、そう、とつぶやく声を聞く。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
建物が建ち並び、そのそれぞれが商売に励んでいるその端にひっそりと店を構えている書店『無限書巻』。
店主である彼女、スティナ・バーリエルとその従業員兼護衛のレオ・ウルリク。
彼らの日常は、大体こんな感じである。
~店主、語らう~
二人の昼は、大体外食だ。
仮にも店を営んでいる身で暢気にそんなことをしてもいいのか、とか(客に)言われることも多々あったりするのだが、二人はそこまでお金に興味があるわけではないし、実際他人に思われている以上には財産を持っている。
けれども最大の理由は、毎食手料理をしているとスティナが本を読む時間がなくなるためなのだろう。
朝食の準備ならばまだいい。しかし、割とよく食う男がいる時点で調理時間が長くなるのは必然である。
時間的にも、労力的にもそちらの方が良いと二人で判断した結果である。
かちゃ、と、レオが鍵を回し『外出中』の札を立てているのを眺めつつ、スティナは目を細める。
陽射しが強く照り付けるのを遮るため額に手をかざして、目の前にある書店を仰ぎ見る。
――感慨にふけっていまして、ね。
そう思うのも、分からなくはない。
スティナだってふとした時に思い出すことがあるし、一日中頭のどこかで記憶が燻っていることもある。
レオにとってのそれが、今日だったに過ぎない。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
作業を終えただろう彼と、横に並ぶ形で歩きながら、室内では遠く聞こえた喧騒を横切っていく。
「ところで、場所は決まってるんですか?」
「まだだね」
一瞬、思案するように黙り込むレオの返答を、スティナは待った。もとより小食な彼女にとって、昼食はなくても良いものだからだ。メインは彼で、彼女はついででしかない。
「……まあ、しばらく行ってませんし、『幸福の風見鶏亭』なんてどうですか」
「うん、じゃあそうしようか」
訳もなく進めていた足に目的を与え、向かうそこは案外近くにある。
料理の質と量を兼ね備えた街中でも人気の店。もちろん建物自体も大きなもので、窓の外からは忙しなく人が動き回っているのが見える。
ちょうど食事を終えた人と入れ違いに中に入ると、カラン、と軽快な音が鳴り、雑踏とはまた違う、人の会話が入り交じるざわめきが押し寄せて来る。
きびきびと動いていた従業員達は一瞬だけ二人に視線をやり、またすぐに離れていった。
大抵が顔見知りではあるが、忙しい時に油を売るほど彼らも暇ではない。
二人は、今出て行ったであろう人の、偶然二つあるカウンターの席に座り、精力的にフライパンを振るう料理人の中の、恰幅のいい狼獣人の女性に声をかける。
「アキさん、お邪魔しますね」
「よっ、と……ああ、スティナにレオ坊じゃないか! しばらく来ないからあたしゃようやっとあんた達が真面目に仕事をし始めたんじゃないかって心配し始めてた所だったよ!」
実際珍しく忙しかったのだが、怒涛のようにそう言われ、スティナは微妙な表情になった。
まるで普段真面目でないようではないか、と。
仮にもし自分が真面目でなく、彼女曰くの『仕事をし始めた』として、何故それが心配になるのか、とも。
……確かに店に来る客達からはもっと働けと言われることも多々あるのだが。
「……心配ですか? 安心じゃなく?」
「せっかくの上客が来なくなることの何が安心なんだか分からんがね、今日来たってことは金を湯水のように使ってくれるんだろう?」
「ああ、そういう……レオ、期待されてるよ」
店主のニヤリとした顔に、納得した後こちらを向いたスティナの苦笑だか微笑ましく何かを見るようなのだかが混ざったような視線に、自然にレオも憮然とした顔つきになる。
まずスティナはいいとして、何故店主にこうも苛々させられねばならないのだろう。そもそも同種族という理由だけで自分のことを『坊主』と言うのはいかがなものなのか。確かに年齢はこちらの方が下だが。
「……いつもの頼む」
「あ、私はスープを」
「はいよー」
ただ、食事をこうも美味くすることはレオには出来ないのだから、何も言い返せないのが現状である。
彼のそんな心情を知ってか知らないでか、アキとスティナは普通にたわいもない会話を続けていた。
もちろんアキは平行して料理もしている。
「で、どうしたんだい。大仕事だったんだろう?」
「あぁ……そこまで大したことでは。魔導書の見かけで中身は普通のモノだと言うので、持ち込まれたので封印解除をしていた位です」
それなりの難しさではありましたが、と普段の無表情を心持ち嬉しそうにするスティナにアキは呆れた眼差しを向けた。
スティナ・バーリエルと言う女は、傍目から見ても本を、物語を心底愛していると言える。
どこにでもあるような童話であれ、とうの昔に滅びたであろう民族についての考察をまとめたものであれ、神が使っていたであろう神語の記述が散見する古文書であれ。
それが一つの物語であるならば、自分の経験したことのない未知であるのならば、それを求め、知りたいと願う……彼女は、そんな人間である。
変わっているとも言えるのかもしれない。
普通は本に対して人生をかける程の情熱を持ち得ることはない。それはどこまでも『趣味』で、それ以上にはならないのだから。
「はあ……あんたも物好きだね。【全知の神】の加護持ちじゃないんだろう?」
それは――『神』が存在し、誰もが何かしらの『加護』を授かり……それによって己の職業を決めるこの世界ならば、なおさらのことである。
スティナは机の下で白手袋に包まれた手をそっと摩って、その問いに頷いた。くすんだ金髪が、さらさらと揺れる。
【全知の神】の『加護』の、あらゆることを知ることを欲するという特性上彼女の同業者には確かにそういう人が大半を占めていた。
「それでも、趣味ですから」
「逆に何であんたが授かっていないのか不思議な位なんだがねぇ……ほい、お待ち」
彼女の前には湯気のたったスープ皿が置かれた。
たかが一品、されど一品。その仕事の速さには感嘆するしかない。
――そしてこれも、『加護』という存在によって成立するものであるのだ。
そうでもなければ店も回らないだろうし、それが普通である。
スティナはほう、と息を吐いて素晴らしいですと呟いた。
「私もこれ程であれば苦労しないんでしょうがね……レオ、先に頂いてるよ」
「はい」
そのままスプーンに手をつける。
時折かちゃかちゃと鳴る音は、喧騒の中では小さなものでしかなく、誰も気にすることはない。
程なくしてレオの手元にも、皿が立て続けに置かれた。
「ほい、まず三つ」
「半分か」
レオはそう言って、自分もまた料理に手を付けはじめる。まだ半分。彼は計六皿食べる大食漢だった。
「作る方が言うのもおかしいけどよくもまあ、そんなに食べるねぇ」
「……ほっとけ」
『幸福の風見鶏亭』はその値段に不釣り合いな量と質の料理を提供する店である。一皿あれば一人が満足出来ると言われている。
少食であるスティナにはその一人分でさえ多いのを、六人分食べる。レオはひどく燃費が悪かった。
のんびりとスプーンを動かす主人に対し、かなりのスピードで平らげる。
……もしかすると、間髪入れず差し出される料理に気をとられていたのかもしれない。
レオはスティナの店の従業員ではあるが、それ以前に彼女の家族であったし、同時に護衛でもある。
店の最大権力者たるアキがいようとも、そんなことはあっていいはずもない。
(気を緩めすぎていたか)
その時レオは、食事中の箸を投げだして彼女の無防備な背を守るように動いた。
未だ何も起こってはいないが、スティナもまた、何かあったのかと体を強張らせる。
気づいてからの一連の動きは立派に護衛のそれであったが、彼にとってはその気づき自体が普段よりも数段遅いと自覚していた……まあスティナからしてみれば、本当に不意に起きたことで大して変わりはしないのだが。
一瞬遅れて、皿の割れる音が聞こえる。スティナの背後、レオの視線の先。
遅れて彼女もまた振り返って見れば、常連の彼らが見かけたことのない使用人――新入りのようであった――で着るエプロンを付けている青年が、慌てた様子で床の惨状を見遣っていた。
地毛であるのだろうか、その灰色髪が一際目立つ青年である。
大方、一度に片付ける皿の量が多すぎたのだろう。
「レオ」
「……はい」
さながら忠犬のごとく。身構えていたのからすぐに元の体勢に戻ったものの、それでも厳しい視線のままである彼をちらりと横目で見る。
彼女の何故かよく働く危機察知は直前まで全く仕事をしなかったし、実際に降りかかるような被害はなかった。けれども隣でレオが警戒するようにしているのを見ると、何ともしがたい違和感があった。
もとより表情に乏しい彼女だが、今の状況にひっそりと眉をひそめる位には困惑する。
「まずはその山のような皿を片付けてはどうですか?」
けれども、一度途方に暮れている人を放っておくほど無情ではない。
無造作に足元まで来た破片を拾い上げ、スティナはその手の平を青年に差し出した。
✥ ✥ ✥
それから、食事を終えて休むこと少し。
レオが耳をぴくりと動かし、短くスティナに呼びかけた。
「スティナ様」
「ん……あぁ、さっきの」
散らばっていた破片がきれいに取り除かれたそこに灰色髪の青年は何も抱えず立っていて、その立ち姿にどこか、気弱そうな印象を感じた。
「あ、あの……さっきはありがとうございました」
「私は何もしていません。あなたに怪我がなくて良かったです……ところで、新入りの方、ですよね?」
私たちは常連なんですが、あなたを見かけたことがないもので、と言うとアキが口を挟んだ。
「ああ、旅をしているようで、資金が尽きたから一度稼ぎ直すんだとさ」
「おや、そうなのですか。では長い付き合いになるかはまだ分かりませんね」
――それでもしばらくは宜しくお願いします、多分すぐにまた会うでしょうから。
そう言い切り、スティナは席を立つ。
レオも後に続き、相も変わらずの鋭い目つきでアキを睨み、ついでにそのまま青年も見遣ってから踵を返した。
「まいどありー」
「あ、ありがとうございました!」
さらりとした金髪とそれを追う狼獣人を見送る。
ちりん、という音は耳を澄ませてようやく微かに聞こえる程度。
使用済の食器だけが、つい先程まで彼らがいたことを示していた。
灰色髪の青年はただ、閉まった扉を見ていた。名前を聞き忘れたと思いながら。
「さぁアルス、あんたもさっさと仕事に戻んな! まだまだやることはいっぱいあるんだからね!」
青年――アルスははい、と頷きつつもどこか上の空だった。
アキはからかうようににやりと笑い、「スティナに惚れたかい?」と言う。
「いえ……どうなんでしょう」
僕にも分かりません。呟いて、彼女はスティナという名前なのだとそこで知る。
「その、スティナさん、ですか。何をしている人で?」
「本屋さ。一緒にいた坊主は従業員さね」
「へぇ……」
確かに、本屋を営む想像上の姿に違和感はない。諦観を潜ませる、凪いだ海のような碧眼が文字列を追う姿が容易に想像できる。
「ま、そんなことは仕事が終わってからきにしな。まだまだ客はいるんだからね!」
威勢のいい女店主に、アルスは小さく悲鳴を上げた。
『無限書巻』に一人、客が増えるのかどうか。今はまだ、分からない。
ただし、スティナとレオ二人が思っていたように、アルスもまた、「彼らと関わることがまたあるだろう」といった漠然とした考えを抱えていた。
✥ ✥ ✥
元来た道をたどる。
レオと横並びに歩きながら、彼にしか聞こえない位の小さな声で、「どう思う?」と呟いた。
「あの鼠のような男のことですか」
「鼠ってレオ、お前ね……確かにそうだけれどさ」
嫌な感じだ、とスティナは言い、レオもそれに頷く。
気を抜いていたとは言えども、あの男がすぐ傍にやって来ることを察知できなかったのもある。
けれど、何より――スティナの『感じ』に外れることはほとんどない。そしてその大抵は、既に『何か』が起こる引き金を引き終えているのだ。
(……しばらくぶりになるのかもしれないな)
それでも、レオは、彼が彼である故に。
「貴女は俺が護ります、スティナ様」
「……私はしがない本屋の店主だよ」
「知ってますよ」
「うん……ごめんね、お前には苦労をかける」
レオは主人に負けない位動かない表情にうっすらと笑みを浮かべ、首を振った。
「それが俺の望みですから」
――ただ、貴女と共にあることが。
以下設定とか人物紹介とか↓
【スティナ・バーリエル】
本屋の皮を被ったほぼニート。ただし依頼されれば多分仕事はする、きっと。
金髪碧眼白手袋と三拍子揃った無表情美人Eカップ。多分そのくらいはあると作者は信じてる。
【レオ・ウルリク】
こんな忠犬が書きたかった従業員兼護衛の狼獣人。本屋の収入があまりないために体を鈍らせないのも兼ねてギルドで荒稼ぎすることで金を工面しているという裏話がある。
【客が来ないので】
わざわざ外に食べに行く二人。いつものことである。
二人で切り盛り(仕事らしい仕事もしていないが)しているので、戸締まりもちゃんとする。本屋としての自覚ゼロ。
【幸福の風見鶏亭】
人気の料理店。女の子はメイド服を着ていればいい。
【アキ】
幸福の風見鶏亭の店主。狼獣人の女性。スティナのことを気にかけている。また、レオのことを子供扱いするが年長者を敬う傾向のある種族なので、彼はあんまり彼女に強く言えない。
なお、実際は前述と違い強い者を敬う習性を持っているのだが、単純に年長者の戦闘力が高いだけである。
【アルス】
レオとスティナに警戒されている。鼠っぽいとあるが、彼は獣人ではない。
何か変な箇所、あるいは誤字報告などありましたら、お願いします。