第二帳 プロローグ
隧道を抜けるとわたしは白き国にいた。
そうとしか言いようがない。
それほどにそこは別天地だった。
遠くヴァナギスタンに「壺中天」という伝承がある。
ポトラスという薬売りが、夜な夜な店にある小さな壺の中に入っているのを彼の友人が目撃した。
彼は自分も壺の中に入れてくれと頼む。
壺の中は色とりどりの花の咲き乱れる常春の楽園だった。
ひと晩のあいだ、二人は泉から滾々と溢れだす極上の葡萄酒を酌み交わしながら、大いに談笑したという。
むろん、わたしの目の前に開けてきた光景は常春の楽園などではなく、雪に閉ざされた真冬の盆地である。
がたがたと耳障りな音を立てながら進む古ぼけた電気バスは桃源郷のイメージからはほど遠い。
それにもかかわらず、電気バスのいささか情緒に欠ける前照灯が、夜明け間近の濃い闇を切り裂き、深く積もった雪が白銀色の反射光を返すその向こうに、わずかながら射し込みはじめた曙光に照らされた温泉町が姿を見せたその瞬間、わたしが真っ先に想起したのは「壺中天」の話だった。
なるほど、精巧に作られた模型のような町並みは、幼い頃に祖父の作ってくれたおもちゃの街を思い出させるし、峻険な山に囲まれた温泉地の光景は、四方を壺の湾曲した内壁に囲まれた、壺中の天地を思わせるものがある。
また、町のそこかしこから立ち上る湯気は、曙光に照らされて、柑橘色と藍色のまだらに入り交じったいわく言いがたい幻想的な模様を造り出し、温泉町の光景にヴァナギスタンの屏風絵や山水画のような風情を加えている。
しかしそれ以上に、この町が、わたしを逼塞させる世間から完全に隔離された世界だという感慨こそが、わたしをそんな他愛のない妄想へと誘った。
この町は現実に存在する壺中天であり、世間と隔絶した別天地である――当時のわたしは、無邪気にもそんな妄想を信じることができた。
いや、信じたかっただけなのかも知れない。
わたしとてわかっていた。
この壺中天のごとき温泉町にしても、結局のところ世間の一部にすぎず、足かけ数ヶ月もいればわたしは帝都で味わったのと同じ息苦しさを感じ始めることになるのだろうと。
だが、わたしは信じたかった。
身内の醜聞をおもしろおかしく書きたてるしか芸のないわたしのごとき卑しき私小説家であっても、隣人と手を取りあい、笑いあい、助けあいながら生きていける、そんな別天地がどこかに存在するということを。
バスは緩やかな下り坂を滑っていく。
山の傾斜に沿うように広がる温泉町の町並みを、今はまだ視野の中にまとめて収めておくことができる。
美しい町だ。
強烈な颪が吹きすさぶ冬晴れの麓の町とはまるで様子が違う。
雪に塗り込められたグリンス=ウェルの町並みは、シヴァーラ神が戯れに造り出した氷雪の町を思わせる。
わたしはわたしを逼塞させる現実からまんまと逃げおおせた。
現実家のわたしにそんな甘やかな夢を見させるほどに、白き国の幻想的な光景は、ただひたすらにうつくしかった。
(モーリス・ヤスナール『白き国』より抜粋)