5 エリシャさんと混浴
ぼくやアンネの自室やキッチン、家族風呂などは本館の裏に建てられた別館にある。
別館は従業員向けの施設ではあるけれど、見栄えのために本館と同じく黒曜石とシィバ檜を存分に使った豪華な建物だ。
ハイネ&ハイネケン旅館は風越山を背にして作られている。
異国風の正門の前に電気バスの停留所があり、本館は正門を入ってすぐ。
肝心の温泉浴場は、本館と背後の山のあいだにある。
山側に面しているせいで眺望はあまりよくないけれど、秋になると風越山が紅葉して綺麗だし、冬は一面の雪景色になる。
眺望という点では、温泉よりも本館二階からの眺めがいい。
ハイネ&ハイネは風越山へ向かう斜面の上にあるから、グリンス=ウェルの中心にある湯畑や商店街が一望できる。
湯畑からもうもうと立ち上る湯気が、景色に温泉街の風情を加えている。
湯畑というのは、グリンス=ウェルの中心にある、温泉の源泉を木製の樋にかけ流す施設のことだ。
土産物屋や飲食店が並ぶ商店街の中心に、幅およそ三〇メテル、長さ一〇〇メテル以上の範囲にわたって木製の樋がいくつも並べられていて、その樋を泉源から湧きだしたばかりの湯が流れていく。
立ちこめる湯気と硫黄の臭いがいかにも温泉地という風情で、グリンス=ウェルのシンボルとして有名だ。
なぜそんな施設があるのかというと、温泉の成分を抽出して湯の花を採取しながら、入浴するには温度が高すぎる源泉を空気で冷ますためだ。
採取された湯の花は湯畑のすぐそばにある土産物屋で入浴剤として販売されているし、適温に冷まされた源泉も湯畑の下流にある大浴場で利用されている。
ハイネ&ハイネには、お客さま用の大浴場とは別に従業員用の家族風呂がある。
両方とも露天風呂で木目の美しいクィケル檜と天然岩を贅沢に使っている。
湯はもちろん温泉で、湯畑とはすこし離れた自家用泉源から引いている。
グリンス=ウェルにはそのような泉源がいくつもあり、時間のあるお客さまにはいくつかの温泉(外湯という)を比較してみるようお勧めする。
お客さま用の大浴場に比べればさすがにこじんまりしているけれど、家族風呂もちょっとした温泉旅館の浴場に負けず劣らずの広さがある。
ぼくはクィケル檜張りの洗い場で身体を洗い岩風呂に浸かる。
(今日は、さすがに疲れたな)
お客さまは少なかったが、その代わりに招かれざる来客があった。
(ミランダ・エリーズ・シュルンベルク……ね。
年はアンネと同じくらいだと思うけど。
気品があるというよりは単に傲慢なのかな。
ある種の強引さというか、人に言うことを聞かせてしまう力が、大きな企業のトップに求められることはたしかだろうけど。
なにか帝王学のようなものでも仕込まれてるのかな)
ミランダさんの傲慢さは、生まれつきのものというよりも、後天的に身につけたもののように思える。
どこか無理があるような気がするのだ。
しかしだからこそ、自分の意志を通すことに執着しているし、力を振りかざして他人を従わせることで自分の力を証明しようとする。
(いくら情理をつくして話しても、人の言うことを聞くような相手じゃないかもしれない。
人の言うことを聞いてしまえば自分の立場が危うくなると思い込んでいるようなタイプだ。
たまにハイネ&ハイネにもそういうお客さまがいらっしゃる。
会社や官庁の指導的な立場にある人で、人は自分に従って当然だし、人を従わせなければ自分の沽券に関わると思っているような人が。
そういうお客さまには、なるべく下に入るようにして、相手の顔を立ててさしあげることが必要になる。
でも、ミランダさんに関してはそうもいかない。
言いなりになるわけにはいかない。
ハイネ&ハイネの未来がかかってるんだから)
では、どうするのか。
思いつかない。
本当に、《王の杖》で争うような事態になるかもしれない。
(できれば避けたいな。
相手に有利な舞台だし、法廷費用も馬鹿にならない。
ハイネ&ハイネにそんな余力はない。
だからこそミランダさんも《王の杖》に訴えるなんて言ってぼくらを脅しにかかったんだろう。
いったいどうすればいいんだ……?)
ぼくが湯船に浸かりながら出口のない考えを巡らせていると、引き戸の開く音がした。
ぼくはハッとしてふりかえった。
「エリシャさん……?」
そこにいたのは、バスタオルだけを身に纏ったエリシャさんだった。
エリシャさんは背は高いが華奢な体つきで、女性的な迫力には欠けるけれど、その折れそうな細腰や脂肪のあまり乗っていない長い足が、これでもかとばかりに危うさや儚さを醸し出している。
そのくせ、料理の時には平気で重たいフライパンを扱っているし、スープでいっぱいの深い鍋を運んだりもしている。
エリシャさんの華奢な身体のどこにそんな力があるのか、料理の手伝いをしていると不思議に思えてならない。
「おお、アルトか。邪魔するぞ」
「……入口に入浴中の札をかけておいたはずですけど」
「うむ。見た。
だが、べつに構わないだろう?」
「いや、構わないと言えば構わないというか、ぼくとしては歓迎ですけど」
エリシャさんはぼくが物心のつくころからこのハイネ&ハイネで料理人をやっている。
両親の不在がちだったぼくとアンネにとっては、母親代わりとも言える存在だ。
まあ、本人にそう言うと「せめてお姉さんと言え」と言ってぼくの頭にげんこつを落とすけれど。
だけど実際、エルフの血の入ったエリシャさんは、実年齢よりもずっと若く見える。
ふつうに見て二〇代、ちょっと服装を工夫すれば一〇代にも見えかねない。
おまけにとんでもない美人でもあるので、思春期を迎えた頃のぼくはエリシャさんにどういう態度をとっていいかわからなくなった。
正直、今でもよくわからない。
母代わりとしての愛着と、魅力的な異性に対する感情と。
その二つが未分化に入り混ざって、ぼくのエリシャさんに対する想いを複雑にしている。
エリシャさんは、バスタオルを取り、洗い場で身体を流すと、ぼくのすぐそばに入ってきた。
身体を隠そうともしないのでぼくの方が目を逸らした。
ちゃぽん、という静かな水音にぼくの心臓が跳ねる。
エリシャさんと混浴するのなんて、ずいぶんひさしぶりのことだ。
「……たまには、昔のように一緒に風呂に入るのもいいかと思ってな」
エリシャさんはそう言って、湯船の中で手足を伸ばす。
エリシャさんの美しい四肢がぼくの視界の隅に入ってくる。
ぼくは目を逸らしながらもついその四肢に意識を奪われる。
「何を緊張してるんだ」
「そう言われても……」
「フッ。わたしもまだまだ現役でいけるのかもしれないな」
「それは、そうでしょう。
エリシャさんが現役じゃなかったら、世の中の大半の女性は現役じゃないですよ」
「ふふっ。そうか。
ありがとう」
エリシャさんはくつくつと笑った。
どこか皮肉っぽいその笑い方はエリシャさんによく似合っている。
「……なあ、こっちを見てみろ。
顔を合わせてくれないと話しにくい」
ぼくはぎこちなく顔を横に向ける。
なるべく首から下は見ないように。
「べつに、見てもいいんだぞ。
減るものでもないし」
エリシャさんはバスタオルすら身につけていない。
グリンス=ウェル温泉の湯は濃い緑色をしているが、濁り湯ではないので、エリシャさんの、危うさと儚さをそこはかとなく醸し出す優美な裸体が視界の隅にちらつく。
「か、からかわないでくださいよ……」
「アルトがあまり緊張してるからおかしくてな」
エリシャさんはまたくつくつ笑う。
それから、エリシャさんは顔を引き締めると、
「……スパリゾートの件だが」
「はい」
「なにも、売るか争うかしか選択肢がないわけではないだろう」
「……それは、どういう?」
「たとえば、スパリゾートの出資を受けて傘下に入るとか。
そこまでは行かなくとも、メイファート王子の行幸の期間だけウチの設備をスパリゾートに貸し出す、という方法もある。
つまり、妥協の余地があるかもしれないということだ」
そういうことは、考えてもみなかった。
戦うしかないという悲壮な決意に酔って、現実的な交渉の可能性を見失ってしまっていたのかもしれない。
「……ミランダさんは強引な人ですから、交渉が決裂する可能性はありますけど」
「だからといって、試してみないわけにはいくまい。
連中だって、わざわざ裁判なんてしたくはないだろう。
行幸がいつかは知らないが、裁判に時間を取られれば準備が間に合わなくなる可能性だってあるしな」
それは確かにその通りだった。
「……そうですね。
それが現実的かな」
ぼくはつぶやくように言った。
エリシャさんは、湯船から身を引き上げると、湯船の縁に腰をかけた。
ぼくはあわてて顔を逸らす。
エリシャさんは顔を逸らしたぼくの頭を後ろから撫でながら言う。
「大変なことになってしまったが、あまり自分一人で背負い込みすぎるな。
わたしもいるし、アンネもいる。
責任感が強いのは悪いことではないが、一人で抱え込んでドツボにはまってしまえば、適切な行動が取れなくなることもある。
こういう時こそ、わたしたちを頼ってくれ。
迷惑をかけるなんて思う必要はない。
わたしもこのハイネ&ハイネの一員なんだ。
おまえに頼られて悪い気がするはずがないよ」
エリシャさんは立ち上がり、洗い場のイスに置いていたバスタオルを取って、家族風呂を出ていった。