4 窮地
「なっ、ななな、なんなのよ、あれはぁっ!?」
先ほどから怒り狂っているのは、言うまでもなく妹のアンネだった。
翡翠色の綺麗な目を逆三角にして、ピンクの長いツインテールを振り乱している。
「困ったね」
「困ったね、じゃない!
お兄ちゃんはどうしてそんなに落ち着いてられるの!?
ハイネ&ハイネ存亡の危機じゃない!」
「あわててもしょうがないだろ。
こういう時こそ落ち着かないと」
「うぅ~。
それはそうだけど……」
アンネをなだめながら、ぼくはエリシャさんの言葉を思い出していた。
嫌な予感がする――それはこのことだったのか。
たしかに、厄介な事態だった。
単にミランダさんが金を積んでこの旅館を買いに来ただけなら、応じなければ済む話だ。
だけど、ミランダさんはメイファート王子の行幸に関して王家からの支援を受けている。
王家をバックにしたミランダさんの要求を拒めば、最悪王家に楯突く存在として糾弾されかねない。
もっとも、それはあくまでも最悪の場合であって、王家にせよ権柄ずくでハイネ&ハイネを売れと言ってくることはないだろうし、仮に《王の杖》の法廷で争うことになったとしても、公正中立がモットーの《王の杖》がミランダさん側にだけ有利な裁定を下すとは考えにくい。
しかし、だからといって無策でいていいわけではない。
ミランダさんはシュルンベルクの財力を背景に優秀な弁護士を雇ってくるだろうし、そうなった場合、法廷でぼくらのほうが一方的に悪者にされてしまうような事態も考えられる。
たとえば、「ハイネ&ハイネの現経営者は不敬にもメイファート王子の行幸を利用して自分の旅館を高く売り抜けようとしている」などと言われる可能性は十分にある。
「とりあえず、ぼくらだけで立ち向かうのは危険だよ。
エリシャさんたちはもちろん、町内会とも連絡をとって、スパリゾートのやり方の強引さをみんなに訴えていかないと」
「そ、そうだね。
わたし、すぐにグレッサさんのところに行ってくる!」
そう言うとアンネはエプロンをかけたまま外へと飛び出していった。
ちなみにグレッサさんとは、このグリンス=ウェルで町内会の会長をしているマルガット旅館の館主のことだ。
ぼくは応接室を片付けるとロビーに戻り、革張りのソファに腰かけて、考えを巡らせる。
しかし、考えはうまくまとまらなかった。
いつのまにかロビーに差し込む光が茜色に染まっている。
そこへちょうどドワーフのングトゥフ夫妻が帰ってきた。
ぼくはソファから立ち上がり、夫妻の労をねぎらいながら、夕食のご案内をする。
今日はグリンス=ウェル近郊の清流で獲れた新鮮な川魚のフライがメインディッシュだとエリシャさんから聞いていたので、それを伝える。
ぼくより優に頭二つぶんほど小さいが、その分横にはがっちりしている木訥なドワーフの老夫妻は、
「それは楽しみだ」
「そうですねえ」
とのんびり言いあっている。
そんなお二人のご様子に、ぼくのなかの焦燥感もいくらか和らいだ。
今は自分のやるべきことをやろう。
そのうちにいい考えが浮かぶかもしれない。
客観的に見てかなり苦しい状況ではあるが、だからこそ心を静め、希望を捨てずに進んでいくしかない。
それからは夕食の準備で忙しくなり、昼間のミランダさんの話は頭の片隅に追いやられていた。
この時間のぼくはエリシャさんの調理を手伝うことになっている。
簡単な下ごしらえと、料理に適した皿を出すなどの軽作業だ。
その作業のかたわら、エリシャさんにミランダさんの話をかいつまんで伝えた。
エリシャさんは難しい顔をして「そうか」と言ったきり、料理に集中してしまった。
エリシャさんは料理する時はいつもこうだから、話すタイミングが悪かったのかもしれない。
グレッサさんのところへ行ったアンネが帰ってきたのは夕食時のことで、
「ごめん、遅くなっちゃった。
話はあとでね」
と言って、ぼくとともに忙しく夕食の準備や給仕に立ち働く。
準備はともかく、給仕はアンネが一手に引き受けているので、ぼくは事務室に引っ込んで溜まっていた書類仕事を片付けた。
アンネの手が空いたのは、ングトゥフ夫妻の布団を敷き終えた後のことだった。
その頃にはぼくは仕事を片付け、自室に戻っていた。
アンネがぼくの部屋にやってきたので、ぼくは発酵麦茶を二杯淹れ、アンネに片方を渡した。
アンネは「ありがと」とつぶやいてグラスを受けとる。
そのまま発酵麦茶をグラス半分ほど飲み、「ふぅ」と安堵の息をついた。
「お疲れさま」とぼく。
「うん。
今日はお客さまはひと組だけだったから、まだ楽だったけど、食事のあいだずっとお話ししてたから、少し疲れたかな」
「珍しいな。
アンネはぼくとちがってそういうのが苦にならないタイプだと思ってたけど」
「基本的にはそうだけど。
今日はスパリゾートの件で気が気じゃなかったから、落ち着いておしゃべりできる気分じゃなくて」
「そりゃそうか。
それで、グレッサさんはなんて?」
「うん……。
町内会でも調べてみるって」
「調べると言ったって……王家だからなぁ」
王家はその秘密主義で有名だ。
グリンス=ウェルの町内会は、温泉街の町内会としては異例なことに中央への太いパイプを持っている。
ウィスコット一世時代に築かれた人脈のいくらかが、機械王の御世となった今でもまだ生き残っているらしい。
だから、王家の関係者に話を聞くくらいはできると思うが、王家そのものとなると別格で、「国の行く末を見定めるべき王家にはいかなる外的政治力、経済力も影響を及ぼしてはならない」との考え方から、貴族や政治家、財界の有力者ですら接触が厳しく制限されている。
「町内会は全面的にハイネ&ハイネの味方をするとは言ってくれたけど」
ハイネ&ハイネは町内会に加盟する温泉旅館の内でも最古参の部類に入るのに対し、スパリゾートはそもそも町内会に加盟すらしていない上、湯畑の日照や源泉酷使の問題で加盟旅館との間にいざこざを抱えている。
町内会がハイネ&ハイネの支持に回るのは当然と言えば当然だった。
「スパリゾートのやり方については何か言ってた?」
「えっとね、『温泉街の仁義を無視した、経済原理剥き出しの非人間的なやり方だ』って怒ってた」
ぼくは経済原理に従うことが必ずしも悪だとは思わないけれど、たしかに、非人間的というか、相手の気持ちを考えないやり方だとは思う。
「温泉はみんなの共有物だし、『温泉王が愛したグリンス=ウェル温泉』というブランドも温泉街のみんなで築き上げてきたものだからね。
その事実を無視して自分たちだけ儲けようとしたら、そりゃあみんなの反発を食うよ」
確かに、スパリゾートは集客もサービスも町内会に頼らず自前ですべて賄ってはいる。
そんなことができるのは、シュルンベルク財閥の莫大な資本があってのことでもあるけれど、グリンス=ウェルが長い年月をかけて築き上げてきた温泉街としてのブランドがなければ、いかなシュルンベルク財閥といえども、ここまでの成功を収めることはできなかっただろう。
「でも、自分たちだけでもやっていけるからこそ、これだけ強引なやり方ができるのかもしれないよ?
シュルンベルク財閥の影響力がどれほどあるかはわからないけど、よっぽど自信があるのかな」
そうかもしれないが、ミランダさんは自信なんてなくても堂々と胸を張っていそうな気がする。
およそ接客業に向いているとは思えない女の子だが、これまで数々のリゾート開発を手がけ、成功させてきた辣腕の経営者であることはまちがいない。
「わたし、まだ片付けなきゃいけない仕事があるから、行くね」
「ん? ああ。
ありがとう」
アンネは発酵麦茶の残りを飲むと立ち上がった。
「家族風呂、入れといたから、お兄ちゃん先に入ってていいよ」
「そうか。悪いな」
「ううん。こういう時はお互いさまだし」
時期や混雑具合によってはぼくのほうが忙しいこともよくある。
というより、仮にも学生のアンネに仕事が集中するのは考えものなので、ぼくにできることはなるべくぼくに集中させているのだ。
お客さま応対だけはアンネの方が上手なので、どうしても任せることになってしまうけれど。
「……わたしは、旅館のお仕事、好きだよ。
お兄ちゃんこそ、無理しないでね」
「……そうだね」
なにも言ってないのに、顔色で考えていることを読まれてしまったらしい。
義理とはいえ、小さい頃からずっと一緒にハイネ&ハイネを手伝ってきた兄妹だ。
言わなくても通じてしまうことがある。
もっとも、ぼくがアンネの顔色から何かを読み取るよりも、その逆の方が圧倒的に多い。
こんなにちっちゃくても女だということなんだろうか。
残りの仕事を片付けに出ていったアンネを見送り、発酵麦茶を飲んだグラスを片付け、ぼくは家族風呂に向かった。