2 手紙
ぼくとアンネは、グリンス=ウェル・スパリゾートに乗り込み、ミランダを呼びだすことにした。
スパリゾートに足を踏み入れるのははじめてだった。
大理石やシィバ檜をふんだんに使った内装は豪華の一言。
広大なスペースが確保されているロビーには、小さな噴水まで作られている。
ぼくとアンネは緊張気味に建物に入ったが、とくに見とがめられることもなかった。
考えてみればあたりまえだ。
スパリゾートは客室数が百を超える巨大ホテルで、それだけ人の出入りも激しい。
この場にいる誰が宿泊客で誰がそうでないかなど、いちいち気にしてはいられないのだろう。
ぼくは噴水の奥にあるフロントで、ミランダを呼びだしてくれるよう頼んだ。
まだ若いフロント係は怪訝そうな顔をしたが、連絡だけはちゃんと取ってくれた。
「……取締役は私室でお待ちになるそうです。
ご案内いたします」
(ミランダが一時的に取締役の地位を逐われたことは、知られていないのかな)
あるいは、他にふさわしい呼び方が思いつかないからそう呼んでいるのか。
蟄居同然のミランダの心境を思うと辛いが、ぼくらのせいで、などと言うと、当のミランダが怒るだろう。
ぼくらはそのフロント係の案内で、十七階にあるミランダの私室までやってきた。
「いらっしゃい。とにかく、入って」
ミランダはネグリジェの上にカーディガンを羽織っただけの格好だった。
目の下にはくっきりとした隈ができている。
「どうしたの? 裁判は……今日、だったわね」
日付の感覚があやしくなっているらしい。
ミランダの憔悴した様子にぼくもアンネも思わず息を呑んだ。
「わたしは、小さい頃から無力だったわ。
優秀な兄たちと比べられては、妾腹だからと馬鹿にされて……。
その劣等感を克服しようと、ずいぶんがんばってきたつもりだったけれど、その結果がこれよ。
わたしのせいでアルトたちの旅館を潰されてしまう。
わたしはそれを見ていることしかできない。
ねぇ、アルト。
わたしを憎んで。
その方がどれだけ気が楽になることか……。
でも、アルトはわたしを憎んだりはしないんだものね。
それは、とても残酷なことだわ。
だけど、それこそがわたしには似つかわしい仕打ちなのかもしれない」
「ミランダ……」
かける言葉が見あたらない。
ぼくが何もできないでいると、ふいにアンネがミランダに近づき――
頬を打った。
「アンネ!?」
「……あんたは、ずるいわよ。
ハイネ&ハイネのことを買収しようとしたかと思ったら、アルト兄に近づいて……。
同情を買って、自分だけ悪くないみたいなポーズをとって! なによ、なんなのよ……。
悪役なら悪役らしくしてよ! ふらふらしないで! アルト兄を惑わせないで! まさかとは思うけど、それも全部策略なんじゃないでしょうね!? アルト兄をたぶらかして買収に合意させようと――」
「アンネ、やめろ! ミランダにそんなつもりがないことはわかってるだろ!?」
ミランダにつかみかかろうとするアンネを後ろから抱きとめる。
「放してっ! わたし許せない! こいつさえいなければ、こんなことにはならなかったのに! ハイネ&ハイネも取られて、アルト兄もとられて……そんなの絶対許せないんだからっ!」
「何を言ってるんだよ! ぼくはべつに……」
「嘘! アルト兄はあの夜ミランダとやらしいことしたんでしょ!?」
「あの夜っていつだよ! ていうかそんなことは一度もしてないから!」
ああもう、なんでこんなことに。
ミランダはアンネに張られた頬を押さえて呆然としている。
アンネはアンネで誤解してるし、ミランダはミランダで落ち込んでるし。
ぼくだって裁判とアシュフォード兄妹のことでいっぱいいっぱいなのに。
わめきたいのはぼくの方だ。
「ああもう! とにかく落ち着いて!」
まずは妹の両肩を押さえて落ち着かせる。
「ミランダも。
そんな風に自虐的にならないで。
まだ買収されると決まったわけじゃないんだから」
「でも……」
「でももなにもない! とりあえず、君に読んでほしいものがあるんだ」
ぼくはポケットからメイフレアさまの残した封筒を取りだし、ミランダに手渡す。
「これは……?」
「ハイネ&ハイネに泊まっていた、例の貴族の子息らしい兄妹が、いなくなったんだ」
「え? あの、温泉金貨を持ってた……?」
「そう。その手紙はメイフレアさま――兄妹の兄が残していったものだ。
彼が言うには、それが今回の買収問題を解決する鍵になるらしい。
……正直、なんのことだかさっぱりなんだけど」
ミランダはぼくの言葉に首を傾げたが、とにかく読んでみることにしたらしい。
封筒を空け、便せんを取り出す。
はじめはぼんやりと便せんの文字を追っていたミランダだが、その表情が次第に真剣さを増してくる。
ミランダはあっという間に手紙を読み終えてしまった。
ミランダは顔を上げた。
その顔には憔悴の後が残っていたけれど、頬は引き締まり、目には強い光が宿っていた。
「――これは、行けるかもしれないわ」
「本当に……?」
ぼくはまだ半信半疑だ。
「一体、何が書いてあったの?」
「そうね。シュルンベルクに目をつけられるなんて、アルトは不運だと思っていたけれど、ひょっとしたらアルトはとんでもない悪運の持ち主なのかもしれないわ」
「まわりくどい言い方はやめてよ」
「ふふっ。ごめんなさい。
そうね、何から話したものか……。
まずは、アルトの言うところの『貴族の子弟』の正体からかしらね」
「アシュフォード兄妹の正体?」
「ええ。
その兄妹の兄の名は、メイファート・グレア・アセイラム。
アセイラム帝国王家の第一王子よ」
「……そうか。そういう……ことか!」
ぼくは、驚きはしたけれど、同時に納得もしていた。
二人が「メイファート王子の行幸」に過敏な反応を見せていたのもうなずける。
メイフレアさまなどは、メイファート王子の行幸の話を聞いて「聞いてない」とまで言っていた。
自分自身の行幸の話を聞いていなかったのなら、そういう反応をするのが自然だろう。
「メイファート王子は、妹姫であるミレイユ・マーサ・アセイラムと恋に落ち、家を出ることを決意した。
そのきっかけは王子と妹姫に持ち上がった縁談ね。
王子にはシュルンベルク財閥宗家の娘であるわたしとの、妹姫には遠国ヴァナギスタンの王子との。
二人は将来を悲観してヴァーデルハルト城から逃亡。
王子の祖父である温泉王ウィスコット一世に縁深いここグリンス=ウェルにやってきた。
そこでアルト、あなたに拾われて、一時の安息を得ることになった」
そうだ。
ミレイユさまは「温泉王にゆかりのある家柄」だと言っていた。
確かにある意味ではその通りだ。
ゆかりがあるもなにも、メイフレアさま――メイファート王子とミレイユさまはかの温泉王ウィスコット一世の孫と孫娘に当たるのだ。
「でも、兄妹でなんて……」
「兄妹と言っても、メイファート王子はもともと、現国王メルヴァス一世陛下の甥なんだけどね。
国王陛下には兄がいたんだけど、もう十年以上も前に狩猟中の事故で亡くなっているわ。
その遺児であるメイファート王子を、男子の後継者に恵まれなかった陛下が引き取って、養子としたのよ。
だからメイファート王子とミレイユ姫は、法的には義兄妹、血縁的にはいとこ同士ということになるわね」
いとこ同士の結婚が認められるかどうかは国によって違うが、アセイラム帝国の民法ではいくつかの条件付きで認められている。
また、王族同士の場合、血縁的に近い相手と結婚せざるをえないケースも、歴史をひもとけばいくらでも見つかる。
とはいえ、国王陛下が跡継ぎにと養子にとったメイファート王子が、あろうことかその「妹」と結婚するのはいかにもまずい。
「王子は、わたしとの縁談を破談にしたことを詫びているわ。
わたしも結婚なんてしたくなかったから、むしろ王子に感謝したいくらいだけれど。
『その上で、あつかましいお願いではあるが、私はこの旅館がもう直にいなくなる王子の行幸などのために買収されるのをよしとすることはできない。
この手紙を法廷で示し、私にミランダ殿との結婚の意思がないこと、及び、ハイネ&ハイネケン旅館の不法なる買収に反対であることを立証してほしい』……ということだそうよ」
ぼくとアンネは顔を見合わせた。
「行幸の当事者であるメイファート王子が反対している。
王子の政治的立場はまだ弱いけれど、グレフェンも将来の国王候補の言葉をまったく無視することもできないはずよ」
「じゃあ、裁判は……」
「ええ。これで勝算が出てきたわ。
というより、勝てる」
「勝てる?? え、ほんとに? やったぁ!」
アンネが跳びあがった。
だけど、ぼくはそう安易に喜ぶわけにもいかなかった。
ミランダがそんなぼくを見て首を傾げる。
「……どうしたの? これでハイネ&ハイネが買収されずに済むのに」
「いや、それはいいんだ。
もちろん、それは嬉しい。
だけど、メイフレアさま――メイファート王子とミレイユさまは、いったいこれからどうするつもりなんだろう?」
「……あ」
ぼくの言葉に、飛び跳ねてよろこびを表現していたアンネが固まった。
「え? アルトのところから出たんだから、家に戻る決心が着いた……わけではなさそうね」
反論しかけたミランダも、手紙の醸し出している雰囲気に思い至ったのだろう。
「……楽観はできないかもしれないわね。
温泉金貨は?」
「預かりっぱなしだよ」
もし家に――というか城に――帰るのなら、身元を明かして温泉金貨を持っていくだろう。
宿泊料が後日精算になるくらいはこちらも覚悟しているのだから。
「それに、あの二人の雰囲気は、ただごとじゃないよ」
アンネが言う。
「もう互いのことしか目に入らない感じ。
人前では隠そうとしてるみたいだけど、もうぜんぜん抑えきれないみたい。
あの二人は……もう一線を越えちゃってると思う」
「……許されない恋、その上心中……ね。
お芝居みたいな話だけど、近くで見ていたアルトたちがそう言うなら、その可能性は考慮に入れて動く必要があるわね」
「ぼくはすぐにでもあの二人を追いかけたい。まだ遠くには行っていないはずだ」
「だけど、裁判があるわ」
「でも、人命の方が大事だよ」
「その人命にしたって、二人がそうと決めたことなら止めるべきではないのかもしれないわ。
アルトに……いえ、この問題に関して、なにか裁決を下すことができる人がいるとしたら、国王陛下ただお一人でしょうね。
けれど、常識人で合理主義者の機械王陛下が――ううん、陛下でなかったとしても、まともな親なら二人の関係を認めるはずがない。
彼らが添い遂げるにはこうでもする他ないのかもしれないわ」
「それは……」
「国を担う……いえ、国家そのものの生きた象徴である彼らの背負う重責は、察するにあまりあるわ。
わたしも束縛の多い家柄ではあるけれど、その比ではないのでしょう。
自分を殺して、国家を支えるための人柱とならなければならない。
もしそれができないなら……本当に、死ぬしかないのかもしれない」
だんだんわかってきたけれど、ミランダが歳に見合わない役職をこなしてきたのは責任感の強さからであって、決してもとからそういう役職に向いた性格をしているわけではない。
むしろ、酷い目に遭えば落ち込んでしまうような脆い面も抱えている。
メイファート王子の手紙で持ち直したけれど、この部屋に来た時のミランダは目に見えて憔悴していた。
夏祭りの時のミランダの落ち込んだ姿が脳裏に浮かぶ。
ミランダも、そしてたぶんメイファート王子も、自分の心の脆い部分を責任感で覆い隠して生きているのだろう。
それはそれで立派な生き方だし、社会の枢要な地位につく人間にはむしろ必要なことですらあるのかもしれない。
「それでも、死ぬかもしれないのを、放って置くわけにはいかないよ」
「だから――」
「ミランダの言うこともわかるけど……。
いや、やっぱり、わからないかな」
「どっちよ」
「わからない。
そういうこともあるだろうと思うけど、それが正しいこととは思えない。
ぼくはぼくなりに、お二人をお止めしたい。
ハイネ&ハイネはお客さまの心身を癒し、明日への活力を取り戻していただく温泉旅館なんだからね」
めちゃくちゃな言い分だと思う。
ミランダの言い分のほうがよほど論理的だ。
それでも――
「アルト兄らしくて、いいんじゃないかな」
と、アンネが言ってくれる。
「まあ、止めはしないわよ」
ミランダが嘆息混じりに言う。
「でも、裁判にはちゃんと出て。
大丈夫、手紙を見せたら、裁判どころじゃなくなるから。
グレフェンがここにいれば今すぐに掛けあう手もあるんだけど、昨日は帝都に戻っていて、グリンス=ウェルに入るのが裁判の直前らしいのよ」
「でも……」
「確かに王子のことは心配だけど、わたしたちだけではどうしようもないことも事実よ。
グレフェンにしてもこの事態を放置するわけにはいかないでしょうから、協力は得られるはずよ」
ぼくは判断に迷った。
ハイネ&ハイネの館主としての責任はもちろん自覚しているが、王子たちを放っておくこともできない。
ぼくはアンネを見る。
アンネは小さく頷いた。
「……わかった。
ミランダの言うとおりにするよ」
「……アンネさんの言うことなら素直に聞くのね」
「え?」
「なんでもない」
ぼくらはやきもきしながら裁判の時を待った。
まだ時間があったので、ハイネ&ハイネに戻る。
ハイネ&ハイネのロビーでは、エリオットさん、エリシャさん、ザッハとトルテが揃ってぼくらの帰りを待っていた。
ぼくはミランダと話したことを説明する。
「たしかに、裁判を欠席するわけにはいかないな」
とエリシャさん。
「だが、町内会のグレッサさんに連絡して、捜索の準備をしてもらっておくことくらいはできるだろう」
エリシャさんはその連絡役を買って出てくれた。
旅館の仕事はザッハとトルテが引き受けてくれ、ぼくとアンネは裁判の準備に集中する。
裁判に関しては、世界中を旅して幅広い見識を持つエリオットさんが手伝ってくれている。
純血に近いエルフなのに、エリオットさんは人間の世界の社会制度にも詳しい。
「エルフは数が少ないからな。
社会制度を比較、分析するには、個体数の多い人間社会のほうが適しているんだ。
人口が多ければそれだけ多種多様な制度が生まれてくるからな。
それに、寿命が短い分、社会の新陳代謝も早い。
もちろん、寿命や文化の違いからそのままエルフには適用できない制度も多いんだが」
エリオットさんの旅行好きは、単なる趣味なわけではなく、一種のフィールドワークを兼ねたものでもあるようだ。
王子兄妹の捜索に手が出せないのははがゆいけれど、裁判の準備の手を抜くわけにもいかない。
王子の作ってくれたチャンスをふいにするわけにはいかない。
ぼくらは兄妹の無事を祈りながら裁判の準備に打ち込んだ。
しかし、その準備が役に立つことはなかった。
指定された時間にスパリゾートのパーティ会場に足を運ぶと、そこには既にグレフェンの姿があった。
ミランダは裁判の開始を待たず、グレフェンに王子の手紙を見せ、事情を説明した。
グレフェンの端正な顔から血の気が引いた。
「クソがっ。
城に出向いても王子が出てこねえのはおかしいと思っちゃいたが……。
そういうことかよ。
あの耄碌ジジイ、ただじゃおかねえ……!」
王家の代理人は王子とその妹の失踪をグレフェンにも隠していたらしい。
「チッ。こんなことになっちゃ裁判どころじゃねえ。
おまえら、運が良かったな」
肝心の王子に何かあっては、シュルンベルク財閥と王家のつながりを深めるという当初の目的は達成できない。
グレフェンは髪をかきむしりながら王家の代理人を繰り返し悪罵したが、すぐに頭を切り換えたらしい。
シュルンベルク財閥に連絡をとって捜索要員の派遣を要請し、同時に王家とグマーヌ県警にも事態を通報した。
「……お礼を言うべきですか?」
「フン。勘違いするな。
王子を見つけ出せば王家に恩が売れるからな」
スパリゾートのパーティ会場は、ハイネ&ハイネ買収裁判の会場から、あっというまにメイファート王子捜索の総本部となった。
ミランダはそこに残り、スパリゾートのスタッフを動員して王子の捜索に当たってくれることになった。
王子捜索のためとはいえ、確執のあるグレフェンと即座に協力態勢を敷くことができるミランダの胆力は本当にすごいと思う。
「ここはわたしに任せて。
アルトには他にやるべきことがあるでしょ?」
ミランダの言葉にうなずき、ぼくはパーティ会場を出た。
手がかりなんてなにもないけれど――
ぼくは、あの兄妹を死なせたくない。




