3 義憤
翌朝。
夜明けまでアンネの説教をくらったからといって、寝過ごすわけにはいかず、しょぼしょぼする目をこすりながらぼくは朝の仕事を片付けていった。
現在の宿泊客はエリオットさんとアシュフォード兄妹だけだから、仕事の量自体は多くない。
「この旅館の買収問題はどうなった?」
アシュフォード兄妹の部屋の食卓に朝食を並べ終えたところで、メイフレアさまがそう聞いてきた。
「いえ、解決の目処は立たないですね。
むしろ状況は悪化しているくらいです」
「悪化?」
「ええ。スパリゾート代表のミランダさんの義兄にあたる、グレフェン・ガリウス・シュルンベルクという《王の杖》出張裁判官が、グリンス=ウェルにやってきたそうです。
彼はどうも、シュルンベルク財閥の意を受けてこの係争の調停を行うつもりのようなのです」
「……ちょっと待て。当事者の身内が裁判官を務めるというのか?」
「そのようです。ミランダさんによれば、シュルンベルク財閥はメイファート王子の行幸を利用して財閥と王家のつながりを強化したいようですね。
王家のほうにも巨大な資本を持つシュルンベルク財閥との関係強化にはうまみがあるということのようです」
「王家と財閥が結託して、《王の杖》に圧力をかけているということか」
「そういうことになりますね」
「誇り高きアセイラム王家も地に落ちたものだ。
まっとうな経営をしている小さな旅館を潰すために、そんなことまでしているのだからな」
メイフレアさまはそうつぶやくと大きなため息をついた。
「だが……そうだな。
僕の知り合いに、王家に強い影響力を持つものがいる。
宿賃の代わりと言ってはなんだが、彼に手紙を出してみよう」
「よろしいのですか?」
「ああ。ご主人には迷惑をかけ通しだからな。
このくらいはしなければ、僕の矜恃が許さない。
すまないが、便せんと封筒を用意してくれないか」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
ぼくは事務所から便せんと封筒と万年筆、封筒をとじるための蜜蝋をとってきた。
「これでよろしいでしょうか」
「……カザルスの漉き紙か。十分だ。
花押の判子はないが、サインで問題ないだろう。
僕とミレイユの連名でこの宿のことについて問い合わせる内容の手紙を書いておこう。
おそらく、それなりの効果が見込めるはずだ」
ぼくにはメイフレアさまのご友人というのがどんな人なのか見当もつかなかったが、メイフレアさまは確証のないことをいい加減におっしゃったりはしない方だ。
当てにしていいだろう。
「ありがとうございます。
本来ならばお客さまのお手を煩わせることではないのですが……」
「気にするな。
わたしはともかく、ミレイユはこの旅館がたいそう気に入ったようでな。
わたしたちが……いなくなった後に、この旅館がなくなってしまうのは寂しいと言っている」
メイフレアさまが視線を向けると、ミレイユさまは小さくなったが、すぐに気を取り直すと、きっぱりした口調で言った。
「……その。温泉も建物もすばらしいですし、なにより、アルトさんもアンネさんもエリシャさんもザッハくんもトルテちゃんも……みんないい人です。
そんな旅館がなくなってしまうだなんて、わたし、許せません」
アシュフォード兄妹との交流はまだ始まったばかりといってもいいくらいなのに、ミレイユさまはハイネ&ハイネのスタッフ全員の名前を覚えてくれているばかりか、ためらいなく「いい人」だと言い切ってくれた。
「ありがとう……ございます、ミレイユさま」
ぼくは深々と頭を下げた。
「ミレイユは本当にこの宿が気に入ったのだな。
少し妬けてくるぞ」
「もうっ、お兄様ったら……。
そういう意味で言ったんじゃありません。
わたしが心を寄せるのは、これまでもこれからもただ一人――」
言いかけて、ミレイユさまは口をつぐんだ。
なにかぼくが聞いてはいけないことを言いかけたらしい。
それを詮索するつもりはぼくにはない。
適当に話を逸らすことにする。
「本当にお二人は仲睦まじいですね。
ぼくとアンネも見習いたいくらいです」
「あら、アンネさんもアルトさんのことが大好きですよ? アルトさんはもっとアンネさんを大切にしてあげないと」
「アンネが私を? いやいや、お客さまの前では可愛い顔をしてますが、日頃の私に対する態度などひどいものですよ」
「ふふ。そんなことを言ってると、またアンネさんに怒られちゃいますよ。
昨晩もフロントの前でお説教されてたでしょう?」
「参ったな。聞かれてしまいましたか」
「かわいい妹さんじゃありませんか。
かわいがってあげてください。
いつまでも……一緒にいられるわけでは、ないんですから……」
そうつぶやいたミレイユさまの表情には翳りが見える。
いつまでも一緒にはいられない。
そうかもしれない。
ぼくとアンネはハイネ&ハイネの共同経営者ということになっているが、ぼくかアンネが将来パートナーを見つけて結婚したら、兄妹で共同経営を続けることは難しくなってくるだろう。
ましてやアシュフォード兄妹はかの温泉王ゆかりの名家の子息であるらしいから、家の事情で早々と結婚させられてしまうこともあるのかもしれない。
ミレイユさまが見せた憂いに感応するように、メイフレアさまも眉間に皺を寄せてうつむく。
「……わたし、アルトさんとアンネさんがうらやましいんです。
もし、わたしとお兄様が、山間の温泉町の旅館の跡取りに生まれていたら、こんなに苦しむこともなかった……」
「……ミレイユ」
小刻みに震えはじめたミレイユさまの小さな肩を、メイフレアさまがやさしく抱く。
メイフレアさまがミレイユさまの耳元に唇を寄せ、なにごとかを囁く。
ミレイユさまは何度も小さく頷いている。
(……お邪魔だな)
ぼくはメイフレアさまに小さく会釈すると兄妹の部屋を出た。




