2 夜這い
その夜のことだった。
例のごとく敷地内の見回りをすませ、正門の鍵を閉めて戻ろうとすると、正門のむこうからかすかに戸を叩く音がした。
ぼくが正門の勝手口を開くと、そこにはミランダがいた。
「どうしたの? こんな夜中に」
ミランダは顔を伏せたまま、言葉を発しない。
いつも胸を張っているミランダらしくもなく、肩をすぼめ、背を丸め、顔をうつむけている。
(いったい、どうしたんだろう?)
事情はわからないが、こんな様子の人を放って置くわけにはいかない。
「とにかく、上がって」
そう言ってミランダを中に引き入れながら、
(前にもこんなことがあったな)
ぼくは既視感をおぼえた。
三日前、アシュフォード兄妹が貴族の服の上に外套をまとって、ふたり身を寄せ合うようにして佇んでいたのもこの場所だった。
(この宿は、困った人が行き着くようにできてるんだろうか)
いいことのような、悪いことのような。
ぼくはミランダをロビーに案内してソファに座らせようとしたが、
「人目につきたくないの。アルトの部屋に連れていって」
ミランダは顔を俯けたままそう言った。
(こんな時間に女性を部屋に上げるのは、どうかな。
でも、何かあったみたいだし)
ぼくはアンネやエリシャさんと出くわさないように注意しながら、ミランダを別館にあるぼくの自室まで案内した。
前にングトゥフ夫妻からいただいた発酵麦茶が残っていたので、それをホットで淹れることにした。
発酵麦茶は、ふつうの麦茶と違い、ホットで飲んでもおいしいのだ。
「……ありがとう」
ミランダはそう言って発酵麦茶に少しだけ口をつけた。
ぼくもミランダの向かいのイスに腰かけた。
どうしたの? ――そう聞きたい気持ちを堪えながら、ぼくはミランダが口を開くのを待つことにした。
ミランダは顔を俯けたまま、ぼくの顔をたまにちらちらとうかがっている。
その顔が少し赤いような気がした。
やがてミランダは意を決したように立ち上がると、身につけていたカーディガンを脱いだ。
そのしぐさに不覚にもどきりとしてしまう。
(暑かっただけだろう。ぼくはなにを想像してるんだ)
ぼくは首を振ったが、そのあいだにも事態は進行していた。
ミランダは脱いだカーディガンを丁寧に折りたたむと、今度はブラウスのボタンに手をかけた。
ミランダの震える指先が、ボタンを一つ一つ外していく……って。
「ち、ちょっと、ミランダ……!?」
ミランダはブラウスの前を完全にはだけさせてしまった。
ブラウスのあいだから、ミランダのほどよく膨らんだバストとレースで飾られたピンク色のブラがのぞく。
ミランダは無言だが、うつむいて前髪で隠された頬が朱に染まっているのが見えた。
「ま、待って! 一体、どうしてこんな……」
ミランダは無言のまま、今度はスカートのホックを外しはじめた。
清楚なイメージを醸し出す、高価そうなチェックのスカートが、ミランダの細い腰からすとん、と落ちた。
ブラウスの裾の合間に、ピンク色の布がちらちらとのぞく。
ブラウスと下着だけになったミランダは、ようやく顔を上げて、ぼくを見た。
頬はまっ赤に染まり、大きな瞳はうるんでいる。
形のいい唇には紅が引かれているようだ。
ぼくは、ミランダの顔を見つめる。
目が離せない。
羞恥と興奮と決意と。
さまざまな感情の交じり合ったミランダの顔が、ぼくの目を惹きつけて放さない。
「……アルト」
「……な、何?」
ぼくは背もたれに背中を痛いほど押しつけながら、ただ呆然と、ミランダの顔を見上げることしかできない。
「こんなことを言うのは恥ずかしいのだけど。
知り合って間もないアルトにこんなことを言うのは破廉恥だとわかってはいるけれど。
お願い……わたしを、抱いて」
「えっ……!? って、ちょっと待っ……」
ミランダが、ぼくの頭を両腕で抱え込む。
ぼくはミランダの形のいいバストに顔を押しつける格好になって、幸せ……じゃなくって!
ぼくはなけなしの理性を総動員して、ミランダの身体を押しのける。
「……わたしじゃ、いや?」
ミランダは傷ついたような顔をした。
「ちがうよ、そうじゃない。ただ……」
「それなら……わたしを……」
「待ってって! ミランダ、どうしたの? 変だよ……」
「いいから! 黙ってわたしを抱いて。
大丈夫、迷惑はかけないから」
迷惑はかけないから。
その言葉を聞いた瞬間、ぼくの頭は煮立った。
今日はそればかりだ。
メイフレアさま。
ミレイユさま。
それにミランダ。
迷惑はかけないから……なんだ?
迷惑はかけないから、詮索しないで。
気にしないで。
放っておいて。
なるほど本人たちは、ぼくを巻き込むまいとしてそう言ってるのだろう。
だけど、そんな思わせぶりなそぶりを見せられて、気にせずにいられるほどぼくはドライじゃない。
そんなことを言い出す時点でもう、「気にしてほしい」と言っているようなものなんだ。
そうだ、ぼくはアシュフォード兄妹に対して遠慮している。
事情もわからない。
それどころかほんとのところどこの誰なのかもわからない。
ぼくなんかが詮索していい問題ではないのだと思って、ただ時の経過とともに事態が進展するのを待つだけだった。
それが悪いとは言わない。
館主と宿泊客の関係としては、それで正しいだろう。
お客さまの問題はあくまでもお客さまの問題であって、宿の主が首を突っ込むべき問題ではない。
そう思って遠慮して、でも遠慮しきれずに聞いてしまって、アシュフォード兄妹に誤魔化されて、苛ついて、でも遠慮を完全に振り払ってしまうこともできず、結局中途半端な立ち位置に立たされて。
そんな煮え切らない状況への苛立ちが、ぼくの頭に間欠泉のように噴き出してきて、ぼくの脳を占拠しつつあった煩悩を押し流してしまった。
「あのね、ミランダ。
迷惑はかけない……ってことは、なにか事情があるってことなんだよね?
ミランダはぼくのことが、その……す、好きでこういうことをしてるんじゃなくて、なにかやむにやまれぬ事情があってこういうことをしてるんだよね?
それは……ダメだよ。
そんな子を……だ、抱くとか……ぼくにはできない」
ぼくも男だから、こんな可愛い子に迫られて悪い気がするはずがないけれど、一時の感情に流されて相手を傷つけ、後で後悔するようなことはしたくない。
いや、格好をつけるのはよそう。
ぼくは今にもミランダの身体に手を伸ばしそうだった。
そうせずに済んだのは、ミランダの言葉――迷惑はかけないから――のおかげだった。
「……そっか。そうよね。アルトは、そういう人なんだった」
ミランダは小さくため息をついた。
だけど、その顔はどこか安堵しているようでもあった。
先ほど淹れた発酵麦茶はぼくがミランダを押しのけた時にこぼれてしまっていたので、もう一度淹れ直してテーブルに置いた。
ミランダはそのあいだにスカートを穿き、ブラウスの前を閉じている。
「それで、これは一体どういうことなの?」
ぼくが聞くと、ミランダはぽつりぽつりと話しはじめた。
「今日、兄が来たの」
「お兄さん?」
「ええ。
グレフェン・ガリウス・シュルンベルク。
わたしの異母兄で、《王の杖》の裁判官をやっているわ」
《王の杖》は、温泉王の先々代にあたる立法王ヴィルヘルト一世によって設立された王立の裁判所で、王の所有する司法権を王に代わって執行する機関だ。
アセイラム帝国の発展にともない、王宮の専権事項だった裁判が激増し、処理しきれなくなったため、専門の機関として《王の杖》が設立された。
その運営方針は公平中立で知られていたが、近年は産業界との癒着がとりざたされてもいる。
だが、《王の杖》が王の司法権を代行する司法の最高機関であることはまちがいなく、《王の杖》の裁判官になるには、厳しい選抜と教育とをくぐりぬける必要がある。
この国でエリートといえば、官僚や医師をさしおいて、まず最初に挙げられるのは《王の杖》の裁判官だ。
「さすがはシュルンベルク家というべきかな。優秀なお兄さんなんだな」
ぼくは何気なく褒め言葉を口にしたのだが、ミランダは顔をしかめた。
「そう。優秀であることは確かね。でも、だからこそ厄介だともいえるわ」
「……どういうこと?」
「グレフェンは、簡単にいえば、父の腰巾着よ」
「腰巾着?」
肉親に使うにはキツい言葉だ。
「ええ。
グレフェンは《王の杖》の裁判官ではあるけれど、国王陛下に対する忠誠心もなければ、社会正義にも関心がない。
ただ単に、シュルンベルク家の利益を最大化することだけを考えてるの。
裁判官になったのも、一族に一人でも裁判官がいればシュルンベルクの利になると踏んだからよ」
「それはまた……」
《王の杖》の裁判官になるのは、並大抵のことではない。
百倍ともいわれる厳しい試験、早朝から夜遅くまで続く授業、尋常ではない量の課題。
それらを着実にこなしていかなければ裁判官にはなれないと聞く。
その上、人格の完成も求められる。
いくら勉強ができても、《王の杖》のモットーたる公平中立を体現しているような人物でなければ容赦なく切られる。
「《王の杖》の厳しい選抜を、内心の政治的野心を巧妙に隠して乗り切った。
尋常じゃない神経の持ち主よ。
わたしたちきょうだいのなかで、もっとも色濃く父の血を引いたのは、グレフェンだと思うわ」
ミランダは兄であるグレフェンが好きではないらしい。
いや、嫌悪しているといってもよさそうだ。
それくらい、兄のことを語るミランダの表情は厳しいものだった。
「恐ろしそうな人だね」
「そうね。冷静沈着で合理的。それでいて、シュルンベルク家の繁栄を狂ったように求めてる。
なにがグレフェンをそのようにかきたてているのかはわたしにはわからないけれど、敵に回したくない相手であることは確かね。
かといって味方にもしたくはないけれど」
想像する。
激しい野心を胸に抱きながら、それでいてふるまいは冷静、思考は合理的。
ふつうはそれだけの野心があれば勢いあまってなんらかの失策をしでかしてしまうものだし、逆に失策をしないだけの冷静さがあれば、野心の虜にはなりにくいだろう。
グレフェンはおそらく、野心という名の煮えたぎる感情の悪魔を使いこなす術を理解している。
シュルンベルク家の繁栄という最大の目的を達成するために、感情を殺す術を知っている。
政治的人物。
そんな言葉がぼくの脳裏に浮かんだ。
善し悪しではなく、自らの利益を最大化するために行動する。
そのためには手段を選ばない。
人を騙し、傷つけることを厭わない。
と同時に、必要とあらば自分自身をも傷つけ、騙す。
自らを目的のための心のないパペットへと変えることができる。
もちろん、そんなのはぼくの勝手な想像ではあるのだけれど、そんな怪物的に政治的な人物が、ミランダの元を訪ねてきた。
そのことに、不吉な予感を覚える。
「……お兄さんの用件はなんだったの?」
それこそがミランダの暴走の原因なのだろう。
「ある意味では、ありきたりな話ではあるのよ。
良家の娘のもとに家長的存在である兄がやってきた。
さてその用件は? ということね」
「……縁談?」
「ええ、そうよ」
ミランダはため息をついた。
「わたしにはまだ早いから……そう言って断ろうとしたのだけれど……」
「断れなかった?」
「ええ。相手が相手だったのよ」
「相手?」
「メイファート王子」
またその名前を聞くことになるとは思わなかった。
「なるほど。王族との縁談なんて、いくらシュルンベルクでも滅多にはないことだろうね」
「そうね。現在の王家に男子はメイファート王子ただ一人だから。これを断れば次はないわ」
再びため息をつくミランダ。
だけど、
「それは、君にとっては悪い話だったんだ?」
「……どういう意味?」
「いや、ふつうに考えて、いい話なんじゃないの? 王子の人となりについてはいまのところ悪い噂はないし」
「……本気で言ってるの?」
ミランダの視線が冷たくなった。
「じゃあアルトは、好きでもない女性と、その女性が名家の令嬢だからというだけで結婚するわけ?」
「いや、しないけど……」
「わたしだってそうよ」
ミランダは首を振った。
「でも、それでさっきのその……アレにはどうつながるの?」
ミランダに縁談が来たことと、先ほどぼくに迫ってきたことと。
その関連がわからない。
ミランダは眉根に皺を寄せてぼくの顔をまじまじと見た。
「……本気で言ってるの?」
さっきとおなじセリフだけど、ミランダの視線はさらに冷たさを増している。
「ええっと……なにか不味いことを言ったかな?」
「……もういいわ」
よくわからないが、ミランダはすっかり不機嫌になってしまった。
しばらくして、ミランダが口を開いた。
「だいたい、アルトにとってもこの縁談は他人事じゃないのよ」
「え?」
「鈍いわね。そもそもわたしのスパリゾートがハイネ&ハイネを買収しようとしてるのはなんのため?」
「それは……メイファート王子の行幸が……って、あ!」
「そういうことよ。
この縁談はシュルンベルクと王家の仕組んだ政略結婚なのよ。
そして、その結婚をうまく運ぶためにシュルンベルクは……というか父は、グリンス=ウェルに目をつけた。
メイファート王子は祖父君の温泉王陛下ととても親しかった。
王子の産湯はグリンス=ウェルの温泉だったそうよ。
王子と浅からぬ縁のあるグリンス=ウェルを、今後のシュルンベルクと王家との関係の出発点にしたい。
父らしい、政治的な演出ね」
「なるほど、そういう事情か……」
ハイネ&ハイネは王家とシュルンベルク財閥の政治的な提携の舞台として目をつけられてしまったのだ。
こんな山間の小さな温泉旅館が……。
「なんというか……どこかよそでやってほしいものだね」
思わずつぶやくと、ミランダが申し訳なさそうな顔をした。
「そうよね。あなたにはまるで関係のないことだものね……」
あまりにしょげた様子のミランダに、ぼくはあわてた。
「い、いや、ミランダは悪くないでしょ」
「……それが、そうでもないのよ」
「え?」
「メイファート王子の歓心を買ういい方法はないかと父に聞かれて、グリンス=ウェルのことを話してしまったのはわたしなの」
たしかに、ミランダはグリンス=ウェル・スパリゾートの代表だ。
メイファート王子とグリンス=ウェルとの縁を聞き知っていてもおかしくない。
それに、メイファート王子と祖父である温泉王との縁や、王子の産湯がここの温泉である話などは、ごりごりの経営者であるヒルベルト・ファイガルス・シュルンベルクが関心を持つような話ではないだろう。
ミランダが情報源だとした方がしっくりくる。
「でも、ミランダがうちを買収しようと言い出したわけじゃないんでしょ?」
「ええ。そうね。
でも、わたしは……自分の仕事を父に認められたくて。
父のことはあまり好きではないけれど、やはり血のつながった親子なのね、心のどこかで父の歓心を買いたかったのよ、きっと……。
父の下問をうけて、よろこんでグリンス=ウェルの話をしてしまった。
そんなことをしても、父がわたしを愛してくれることなんて、ありえないのにね」
ミランダは自嘲するように笑った。
「父にとってわたしは所詮道具なのよ。
グレフェンのように《王の杖》の裁判官でもなければ、サダクみたいに外国との交易に詳しいわけでもなく、マーシャルのような財務の専門知識もない。
それで、とりあえず親族をトップに据えたかったリゾート部門に回された。
父にとってリゾートなんて、金持ちのための娯楽、王侯貴族の接待のための道具……その程度のものでしかないわ。
父にとってのわたしもそう。
わたしは単にイスに座っていればいいだけ。
しかるべき時期が来たら……こうして政略結婚の道具にされる。
それだけよ」
「そんな……」
「アルトには想像しにくいことかもしれないわね。
でも、世の中にはそういう親もいるのよ」
たしかに、ぼくには想像のしにくいことではあった。
ぼくの両親は草本学者と冒険家で、いつも家を空けているけれど、ぼくもアンネも、ふたりに愛されていないとは思っていない。
ふたりとも家に戻る時にはどっさりと土産物を買ってきてくれるし、旅先での楽しかったことや大変だったことをぼくらにおもしろおかしく聞かせてくれる。
ぼくらを置いて旅立つ時には、ぼくらのことを強く抱きしめ、優しい言葉をかけてくれる。
何より、その時の寂しそうな顔は嘘じゃない。
自分の人生を生ききることと、ぼくらとともにいることを両立できないことに、ふたりとも心を痛めている。
たとえいつも傍にはいられなくても、親というものは子どものことを愛して止まないものだということを、ぼくもアンネも実感としてよく知っている。
だけど、ミランダにとってはそうではないらしい。
「父は野心に取り憑かれた人で、ただ名家の娘だからというだけの理由でグレフェンたちの母と結婚したのよ。
グレフェンたちの母は、夫から得られなかった愛情を子どもたちから得ようとした。
それが、彼らの歪みの元になったんじゃないかしら」
「どういうこと?」
「本来、子どもは親から愛情を注がれる側であって、愛情を与える側ではないわ。
幼い時に親からたっぷりと愛情を注がれた子どもは、大きくなって今度は自分が他の人や自分の子どもに愛情を注ぐようになる。
でも、わたしの義兄であるグレフェンたちはそうではなかった。
父は知っての通りの人物だし、彼らの母――わたしにとっては義母だけれど、彼女もまたどこか精神の平衡を欠いたところがあったわ。
没落貴族の出で、意に沿わない政略結婚の結果、父ヒルベルトの妻になった。
父は彼女を自分の箔づけのための道具としか思ってなかったから、気位が高く、束縛したがる彼女を次第に疎んじるようになったわ。
いえ、最初から興味などなかったのかもしれないけれど。
結果、彼女は夫から得られなかった愛情を、子どもたちから得ようとするようになった。
でも、愛されたことのない子どもにはそもそも愛するということがよくわからないのよ。
愛情を注がれないまま、愛情を与えることばかりを求められる。
だけど、義母は子どもたちがなけなしの愛情をふりしぼって尽くしても飽き足りることがない。
義母は愛してくれないといって子どもを責める。
教えられていないことをやれと言われ続けて、その度に挫折して、それでも親から慰めてもらうこともできず。
グレフェンたちは年を取るごとに感情を凍てつかせ、ものごとに対してシニカルな態度を取るようになっていったわ。
そして、与えられなかった愛情を得ようと、グレフェンは《王の杖》の裁判官を目指し、サダクは外国貿易のプロフェッショナルになり、マーシャルは財務管理の知識を身につけた。
そうすることで、誰かに認められたい、注目されたい……きっと、そういうことなんでしょうね。
彼らの母――義母は、もう何年も前に病死したのだけれど」
「ミランダは、どうなの?」
「……わたしの母は父の愛妾だったわ。
わたしが小さい頃に死んだけれど、優しくて暖かい人だった。
今でも覚えているわ。
母の胸に抱かれて、母の匂いに包まれている時の、あの安心感を。
だから、わたしはあの冷たい家にひきとられた後も、なんとか生きてくることができた。
もちろん、わたしもあの家の影響を受けてはいて、なにか卓越したことをして人に認められたいという根強い欲求があるし、他人に対する思いやりとか、優しさとか……そういう、母から与えられていたはずのものも、今ひとつ、うまく持つことができないんだけどね」
「……いいお母さんだったんだ」
「そうね。それは確かよ」
ミランダは瞑目して、しばらくのあいだ口を開かなかった。
ぼくはすっかり冷めた発酵麦茶を新しく淹れ直した。
テーブルにマグカップを置くことりという音で目を開いたミランダは、マグを両手で包み込むように持ち上げて、発酵麦茶を一口飲んだ。
「わたしのことばかり話してしまったわね」
ミランダは小さくため息をついた。
今日はため息が多い。
いや、前もそうだったか。
ミランダの華奢な双肩に、いったいどれほどの重責がかかっているのだろうか。
小さな温泉旅館ひとつ経営するのでも気苦労が絶えないのに、ミランダはシュルンベルク財閥のリゾート部門なんていう巨大な組織を統轄する立場にあるのだ。
「いいよ。ぼくももっとミランダの話が聞きたいし」
ぼくにできるのは話を聞いてあげることくらいだ。
ぼくがそう言うと、ミランダは少し頬を赤くしながら、
「ありがとう。
でも、ごめんなさい。
わたしのことの前に、アルトに話さなくちゃいけないことがあるの」
「ぼくに話すこと?」
「ええ。グレフェンはわたしに縁談を持ってきたのだけれど、あの合理主義者がそれだけのために帝都から遠く離れたグリンス=ウェルにまで足を運ぶことはありえないわ。
グレフェンはもう一つの目的をもってここにやってきたの」
「もう一つの目的?」
「そう。ハイネ&ハイネの買収にかかる係争を、《王の杖》の裁判官として調停し、メイファート王子行幸の下準備を終わらせること」
「ええっ!? でも、ミランダはまだこの件を《王の杖》には持ち込んでないんでしょ?」
「持ち込んでないし、持ち込むつもりもないわ。
……最初は強引にでも買収しようと思ってたけど、アルトのことを知った今、そんなことはとてもできない。
父に上げる報告を遅らせて時間を稼いでたんだけど、とうとう父がしびれを切らしたらしくて、グレフェンを通して催促をしてきたわ」
「……そんなことをしてくれてたのか。
ありがとう」
「べ、べつに、お礼を言われるようなことじゃないわよ。
そ、そんなことより、このままではグレフェンを裁判官とした《王の杖》の出張法廷で争うことになってしまうわよ」
「それは困るね。
でも、グレフェンさんとやらは、仮にも君のお兄さんじゃないか。
当事者の関係者が裁判官だなんて……」
「そうね。普通ならありえない。
だけど、シュルンベルク財閥と王家の後押しがあるから……」
かたや政界に大きな影響力を持つ新興財閥、かたや司法権を独占し、《王の杖》を支配する王家。
両者の思惑が合致したとなれば、多少の無理も押し通せるということなのだろう。
「あ~……まったく、厄介な相手に目をつけられたものだなあ……」
ぼくは思わず頭を抱えた。
「ごめんなさい。
もとはといえばわたしが……」
「いや、だからミランダは悪くないって。
買収を止めようとしてくれたんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「ミランダはできることをやってくれた。
感謝こそすれ、恨む筋合いなんてない」
「だけど、このままじゃこの旅館が……」
「まぁね。
でも、仮に最悪の事態になったとしても、すくなくともミランダの責任じゃない。
ミランダが自分を責めることはないよ」
「はぁ……。
あなたは、お人好しすぎるわよ。
責めてくれた方が、かえって楽なくらいね」
ミランダは首を左右に振ると、うつむきがちだった顔を上げて、ぼくのことを正面から見据えた。
「でも、ありがとう。
……ごめんなさい、今はアルトの方が大変なのに……」
「いいんだよ。
ミランダがぼくのことを心配してくれてるように、ぼくもミランダのことが心配なんだ。
辛いこととか、苦しいこととか……一人で抱えきれなかったら、遠慮なくぼくに言ってよ。
ぼくにできるのは、そのくらいのことなんだけどさ」
ぼくが言うと、ミランダはすこし照れたような顔で、小さくうなずいた。
「ハイネ&ハイネの買収に関しては、なるべく情報交換を密にしていきましょう。
わたしも、なにかいい手がないか考えてみるから」
「ありがとう。よろしく頼むよ」
「ううん。もともとはこっちが始めたことなんだから、礼なんて要らないわよ。
……じゃあ、今日はこれで」
「うん、いろいろとありがとう」
「だから礼なんて要らないってば。
それと……その、妙なことをして、ごめんなさい」
「妙なこと?」
「だから……ほら。
わたしが最初にしたことよ」
「ああ、その……ミランダがぼくに……」
ミランダの顔が赤い。
きっとぼくの顔もおなじくらい赤いのだろう。
「でも、なんであんなことを? 縁談を破談にするためだとしても、やりすぎだよ。
自分を大切にしなきゃ」
「……相手が誰でもああいうことをするわけじゃないわ」
ミランダは急に顔を背けると、イスから立ち上がってカーディガンを羽織った。
「あ、送るよ」
「いえ、いいわ。
あまりわたしと仲がいいところを見られると厄介でしょ」
「ぼくはかまわないけど」
「わ、わたしがかまうのよ。
とくにグレフェンに見られたらまずいわ。
いらぬ勘ぐりをされかねない」
「そっか。じゃあ、玄関まで」
ぼくは玄関までミランダを送った。
遅い時間だが、スパリゾートはハイネ&ハイネのすぐ隣だから、問題ないだろう。
ミランダが正門の向こうに消えたのを見届け、ぼくは部屋に戻ろうと踵を返す。
「うわっ! アンネ!?」
ぼくの背後、照明が落ちて薄暗いロビーにパジャマ姿のアンネが佇んでいた。
いつもの元気で明るいアンネとは打って変わった、暗く、どんよりとした重い空気をその身にまとっている。
「……お兄ちゃん」
アンネはゆっくりと顔を持ち上げた。
その顔にはりついているのは笑みだった。
だけど、ぼくはこんなにまがまがしい笑みをこれまでに見たことがなかった。
「こんな夜中に……あの女と……一体、何をしてたのかな?」
「ち、ちょっと待ってよ! ぼくはべつにやましいことなんて……!」
「ほほう? こんな時間に……女の子を部屋に連れ込んで……。
いつのまにかあの女とずいぶんと仲が良くなったのね、お兄ちゃん?」
「だから、誤解だって。
ミランダはぼくに相談があって……。
て、ていうか、ぼくの部屋に誰を上げようと、アンネには関係ないだろっ!?」
アンネの追求を逃れようと、ついそんなことを口走ったのだが、これは完全に失敗だった。
「関係ない、ですって!? お兄ちゃんは全っ然わかってない! いい!? あの女はね――」
その夜、東の空が白み始めるまで、ぼくはアンネにみっちりと説教をくらうはめになった。




