第1話『覚醒』 ④
葛原は少しの間、何もせず公園の方を見る。そして、目の当たりにしたあの子どもの行動について考えた。
唐突な変化、虫になったという子どもの言葉。冷静になって思い返してみても、やはり説明がつけにくい。
一体何だったのか、考えても答えが出てこず、葛原は頭をかいた。
「あ、先輩! きっとこの子ですよ!」
不意に後ろから大きな声が聞こえ、葛原は声の方に振り向いた。
そこには少々だらしのないラフな格好をした男性と、標準的な女性の体型からは少し遠のいた体格の、小太り気味の女の子が立っていた。
少女は、なぜか葛原を指さしている。
「外見は? "千里"が見たやつと同じか?」
だらしのない恰好の男性は、興味なさげに葛原を一瞥し、次に少女の方へと顔を向けてそう聞いた。すると少女は握ったメモを広げ、メモと葛原を交互に見て頷いた。
「背が小さくて、童顔で、たれ目で、左目に泣きぼくろ! 間違いないですよお」
なぜ自分が見られているのだろうか。
葛原はさっぱり意味が分からず、間に入るように二人に問う。
「えっと、どなたですか……?」
「お前が感知した場所はどこよ?」
「あの先の公園ですよ。絶対にこの子です!」
葛原の問いに全く反応もせず、二人だけで会話をしている。その態度に少し違和感を覚え、今度は少し強めの口調で話しかける。
「ぼくに用事ですか?」
「ああ。俺たちは能力者協会のモンだ。能力者協会……名前くらいは知ってるだろ?」
今度の問いかけには、しっかりと返答があった。そのことに、葛原はとりあえず安堵する。そして返答の内容が、よくテレビで耳にする団体の名前であることを思い出す。
「……ヤミビトの、保護団体……?」
「ま、そんなとこ」
「その、協会さんが、どうしてぼくなんかに用事あるんですか?」
自分にはまったく関係がないと思っていた人たちが、目の前にいる。現在のこの状況の意味が分からず、葛原は二人にそう聞いた。少女は少し目を丸くして葛原を見た後、今度は可哀想なものを見るように、少し困り顔になりながらも、口元に笑みを浮かべた。男性は依然、気だるそうに、どうでもよさそうに腕組みをして葛原を見ている。
「あ~……。先輩、きっとこの子、なりたてですよ?」
「そうみたいだな、“レーダー”。手っ取り早くて助かんじゃねーか」
二人は顔を見合わせてそう話す。
いったい何のことなのだろうか。葛原にはさっぱり理解できなかった。
「あの……説明してくれないと、よくわからないです……」
男性は面倒だ、と言わんばかりの大きなため息をつく。
そして葛原を睨みながら、気だるそうな声で、当たり前のように言った。
「察し悪いな、お前。お前がヤミビトだから、協会で保護しにきたんだろーが」
「…………え?」
そう言葉をかけられ、葛原は頭が真っ白になる。
あまりの驚きに、言葉を失い、ただ黙って立っていることしかできなかった。
「…………今、なんて?」
想定外のことを言われ、平静を装うのがやっとな葛原は、やっとの思いでそう呟いた。
自分がヤミビト。
何かの間違いではないのだろうか。
能力者協会を名乗る人が目の前に現れ、ヤミビトを保護すると言っている。その事実から、嘘をついているとは考えられず、葛原は内心焦っていた。
まさか自分がヤミビトなわけがない。
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も呟く。
少女はふくよかなその体を少し前に出して、ふん、と得意げに鼻を鳴らした。
「私が順番に説明しますとですね! 私の能力はヤミビトの超能力を察知する、いわゆる探知能力なんですけどね。あの先の公園から、何やら超能力の気配を感じたわけです! そこで、私たちの仲間の透視能力をもつヤミビト……ああ、“千里”っていうんですけどね? その人に公園の様子を見てもらったら、何やら不思議なことが起こってるってのが見えたわけです! そこで慌てて逃げ出す子がいたんで、“千里”が私たちにその子の外見を教えてくれたんですね。そしてその情報を頼りに、私たちがあなたを見つけ出したんです! そしてまさに今! そのヤミビトを保護しようとしているわけです!」
まさか。
逃げたのは、子どもが泣き叫ぶ姿を見ていることが辛かったからであり、決してヤミビトだからではない。
そう説明しようと、葛原は口を開いた。
「でも、ぼくヤミビトじゃ……」
「え~? ヤミビトじゃないのにあの場から逃げたんですか~? 能力使ったことがばれないように、逃げようとしたんじゃないですか~?」
「ま、とりあえず痣の確認な。俺はヤミビトの能力と呪いの分析すっから」
「おっ! “学者”先輩の出番ですねー! じゃあ私は痣の確認をします!」
葛原の言葉など全く聞く気がない様子で、二人は会話を進める。そんな二人の態度に葛原は呆気にとられる。
すると少女はいきなり葛原の頭をがし、と掴み、隅々まで見るように、頭の上から足の先まで全身を眺めはじめた。その意味不明な行動に、またも呆気にとられる。
「え、ちょっと……!」
「ちょっと失礼しますよー」
頭を掴むだけでは済まず、おもむろに服までめくり始める少女。二人の行動に戸惑い、混乱していた葛原もさすがにやめさせようと、手を突き出して抵抗する。しかし、その力士見習いかのようなふくよかな体型の前では、小柄な葛原の些細な抵抗も空しかった。
「な、何するんですか⁉ って、いたっ⁉」
まさぐられることへの抵抗に必死になっていた葛原は、急に頭上でぷつんと糸が切れたような音がし、頭にちくりと痛みを感じた。
「ああ、悪いな。俺の分析には、対象者の髪の毛が必要なんだよ」
「か、髪の毛って……」
“学者”と呼ばれた、名前とは似つかないだらしのない恰好をしている男性は、葛原の頭から抜いた一本の髪の毛を指先でつかみ、ひらひらと躍らせながらそう言った。
そんな男性の態度の意図がつかめず、葛原は少しの間抵抗の力を緩める。
すると突然、少女は意気揚々に大きな声を出した。
「あー! ヤミビトの痣、みっけですー!」
七分丈のズボンは少女の手によって大腿部までめくられ、細くて白い足があらわとなっている。さらけ出された足を指さし、少女はそう叫んだ。とても楽しそうに、明るい笑顔で。
楽しげな様子の少女とは真逆に、葛原はみるみる顔が青くなる。
「そ、んな……でも、何で……」
左足の膝に、花に×印の痣。その花は、スイセンのようにも見えた。その咲き誇る美しさは、残酷なほど綺麗だった。
葛原は目を疑った。
テレビで聞いていた、ヤミビトのみに現れる痣。ヤミビトだと判別するときに、絶対となるそれ。
ぐるぐると回転する思考の中で、今朝着替える際に見たときは、確かにそこに痣などなかったということを思い出す。
「朝は……何も、なかったのに……」
「ヤミビトってのは、何もしてなくても……いきなりなっちまうもんなんだ。覚えとけチビ。……こっちも分析終了」
葛原の髪の毛を握ったまま目を閉じて黙っていた男性は、切なげにそう言うとぽい、と髪の毛を捨てた。そしてだるそうに肩を回しながら、葛原の方へ体を向けて、睨みながら口を開く。
「こいつの超能力は“対象者に幻覚を見せる”能力。そしてそれに伴う呪いは―――人から愛されるということが、わからなくなる呪い」
「………………」
言葉を失った。
幻覚を見せる能力。先ほどの公園で、自分が能力を発動してしまい、子どもに幻覚を見せていたのだ。そう考えると、子どもの言動も理解できる。
ただ、強烈に嫉妬していただけなのに、いつの間にヤミビトになってしまい、その能力なんてものを使っていたのだろうか。意識もしていなかったのに。
そのことよりも、葛原が言葉を失った原因は、呪いの内容の方だった。
人から愛されるということが、わからなくなる呪い。
今まで、ただただ人に愛されたくて、愛してもらえるように、人によく思われるような行動を心がけてきた。愛してもらえる、認めてもらえることが、葛原にとって何よりも幸せなことだった。
それなのに、愛がわからなくなってしまう呪いだなんて。
最悪だった。幸せを奪われたような、絶望の淵へ叩き落されたような、そんな気分だった。
突きつけられた現実を受け入れられず、葛原は茫然と佇むしかなかった。もはや二人の会話すら、葛原の耳には届いていなかった。
「どうします? 連れていきます?」
「そうだな。連れてくか」
「あとで本部に連絡しないとですねー」
「おいてめえ、こっち来い。“レーダー”、抵抗しないように後ろで手ぇ縛っとけ」
「了解です先輩」
少女はポケットから紐を取り出すと、それを持ちながら葛原の後方へ回った。茫然と立ち尽くす葛原の両手を掴み、そのまま後ろへもっていく。縛ろうとし、紐を両手にかけるところで葛原ははっと気がつき、自分の現在の状況を一瞬で把握した。
「ま、待ってくださ……っ!」
後ろで握られた手を振りほどこうと、葛原は体を大きく揺らしてそう叫んだ。その行動に、少女は少し面倒くさそうな顔をしながら、葛原の腕をつかむその手に力を込める。
掴まれたその手に痛みを感じ、苦痛の表情を浮かべながら、葛原は顔を上げた。すると、今まで誰も通らなかったその道に、一人の少女がいつの間にかそこに立っていることに気がついた。
「くずこまくん⁉」
道に佇む少女は、この状況を見て一言、驚き交じりの声をあげたのだった。
「さわ子、先輩……」
声の主を見て、葛原はそう呟いた。
小さなトートバッグを肩に提げ、目を丸くしてこちらを見ているさわ子の姿がそこにはあった。
「あ? 誰だ、お前……」
「あなたたちは協会の……! ど、どうしてくずこまくんを連れていこうとするんですか⁉ くずこまくんを、離してあげてください!」
頭をかきながら、男性はさわ子を睨め、低い声で威圧をかける。
いつもは弱気で小さな声で話すさわ子が、いつになく強気な口調でそれに対抗する。
葛原の元へ駆け寄り、強引に、葛原を縛っている少女を押しのける。体型の違いはあるが、少女はあまりに強引なさわ子の行動にたじろぎ、葛原を縛る力を緩める。力が緩まったその瞬間に、葛原はその少女の腕から逃げ出し、さわ子の肩を抱いて二人と距離をとる位置に駆け足で移動する。
文句言いたげに口を尖らせ、少女はこちらをきっと睨む。男性の袖をちょい、と引っ張り、指示を仰ぐものの、男性はまるで少女のことなど気にかけず、じっとさわ子を見る。
「お前、俺たちが協会の人間ってこと、知ってるのか。ってことは、お前もヤミビトだな?」
「……」
何を言ってるんですか。葛原はそう言おうとしたが、驚きのあまりそれは声にはならなかった。そう言う代わりに、ちらりとさわ子を見る。
男性の問いに、さわ子は否定も肯定もせず、少しだけ葛原から視線をそらして、唇をきゅっと噛みしめた。
「あー! 私、ファイルで見たことあります、この人! “雨降らしの魔女”ですよ! この辺に住んでるヤミビトの!」
少女は明るく、指さしながらそう言い切った。
雨降らしの魔女。ヤミビト。
その言葉に、さわ子はびくりと体を震わせる。
今まで普通の人間だと思っていたが、彼女もまた、目の前の二人と同じようにヤミビトなのだろうか。
そんな。まさか。先輩がヤミビトだったなんて。
でも、この状況をすぐに理解したということは、もしかして。
「さわ子先輩が、ヤミビト……?」
葛原は、さわ子の反応から察して出た結論を、確かめるように口にする。その葛原の言葉にも、さわ子は何も答えなかった。少しだけ、俯きがちになる。
「ヤミビトならわかるだろ? 協会が保護する対象が何かってことくらいよ?」
「……わかってます。だいたい、状況も察してるつもりです。で、でも、彼は連れていかないでください!」
「いや、連れてく。……こいつの能力は使えそうだからな」
「能力者協会は、ヤミビトの保護団体と言いながら、やっていることはヤミビトの拉致と監禁じゃないですか……! そ、そんなところに、くずこまくんを行かせはしません!」
「それは違う。俺たちはヤミビトという存在を『管理』しているだけだ」
「何が……何が管理ですか。保護と言ってヤミビトを拉致し、協会がもつシェルターに入れて監禁しているだけじゃないですか!」
さわ子は普段の小さな声からは想像もつかないような、気迫を込めた声でそう叫んだ。
拉致、監禁。
その単語に、葛原は血の気が引く。
能力者協会は、ヤミビトの保護団体。テレビでは、人々から迫害されて行き場のないヤミビトに、良心的な施設を用意し、その施設内での安全な暮らしを提供しているといった、よいイメージの内容を放送している。だが、さわ子が言った能力者協会は、そのイメージを覆すものだった。
にわかには信じられない言葉だが、もし、さわ子が助けてくれなかったら。もしもの未来を想像すると、恐ろしさのあまり冷や汗が出そうになる。
「はあ……。“雨降らしの魔女”、思い上がるんじゃねぇ。これ以上邪魔すると、お前もこいつと一緒に捕まえんぞ?」
「……そんなこと、させはしませんっ」
「雨でも降らせて対抗しようっていうんですか? “雨降らしの魔女”さん。ふふっ。そうですよねー。“雨降らしの魔女”さんの能力は、雨を降らせる能力ですもんねー。私たちに対抗しようって言っても、それしかできませんよねー!」
さわ子に対して、二人は強気に発言をする。
そんな二人をきっと睨みながら、さわ子は葛原の手に触れ、それからぎゅっと力強く繋いだ。驚きながらも、葛原もその手をしっかりと握る。
握り返したことを確認するかのようにさわ子はちらりと葛原を見た後、もう一度二人を見た。
「……」
ぽつりと、何かが降ってくるのを感じた。
顔に冷たいものが当たったことで、それが雨なのだと葛原は気づく。
からりと晴れた空には、いつの間にか重たい雲が漂っていた。始めは細い糸のような雨だったが、徐々に雨量が増え、その強さも増す。黙っていても汗が出るような熱い真夏が、一気に梅雨に逆戻りしたようだった。天気が急変した、というにはあまりにも不自然すぎる。
雨降らしの魔女。
そう呼ばれていた通り、この雨はさわ子が降らせているのかもしれないと、繋いだ手を見てぼんやりとそう思った。
「おいおい、ほんとに降ってきたぞ。……でも、こんな雨でどうするってんだよ?」
「能力発動しましたね? “レーダー”の私にはお見通しですよー? でも、先輩の言う通り。雨くらいじゃどうにもできませんって! そうだ、何ならあなたも保護してあげますよ? こんなところで、ヤミビトを隠さなきゃいけないような、辛い生活なんてしなくて済むんですよ? ラッキーじゃないですか!」
「……辛くても、シェルターに監禁されるより、よっぽどいいです……!」
さわ子はそう言って、握る手に力を込める。それに気づいて、葛原はさわ子を見る。
「さわ子、先輩……?」
「くずこまくん、あのね、ちょっと痛いから。ごめんね。我慢してね」
顔は動かさず、目だけを葛原に向けて、二人には聞こえないようなか細い声でさわ子はそう呟く。その意味はわからなかったが、葛原は少しだけ頷いてみせた。すると、いつものように自信なさげな表情をして笑み、さわ子はまた二人の方を見て、目を閉じる。
しとしとと降り落ちる雨が、次第にその強さを増し、ざあざあと荒げるような音を立てはじめる。降り方が変わったと思ったその瞬間、滝のような雨が、絶えることなく降り始めた。
まるで襲い掛かるかのように降り注ぐ雨。
急に強くなった雨は、足元に波紋を描きながら凄まじい早さで水たまりをつくっていく。強さが増すにつれ、目を開けることもできないほどの、殴りつけるような激しい雨となっていく。顔に当たる雨が痛い。あまりの雨の強さに、目を開けてすらいられず、足元の水たまりすら見ることができない。
周囲の音すら聞こえないほどの勢いで降る雨の中、途切れ途切れに、二人の叫ぶ声が聞こえた。
「くっ……何だこの雨⁉」
「め、目が開けられないですよお……!!」
二人が今どうなっているのか、目をつむっている葛原には知る由もないが、二人の会話から察するに、彼らもまた葛原と同じ状況なのだろう。
雨を凌ぐことに気を取られていた葛原は、さわ子が繋いでいる手を引っ張って合図を送っていることに気がついた。
「走るよ」
雨のせいで目が開けられず、音すらもろくに聞き取れない状態であったが、さわ子がそう呟いたことははっきりと聞こえた。聞き取れるように、耳元で話してくれたのだろう。
わかった、と答える前に、さわ子は葛原の手を引いて走り出していた。引きずられるように、葛原はさわ子について行く。
アスファルトに溜まった水たまりの中を、ばしゃばしゃと音を立てながら走る。
どこに向かって走っているのか、どこまで走ってきたのか。ずっと目を閉じ、さわ子に引かれるがまま走り続けている葛原にはわからなかった。
雨は容赦なく降り注ぐ。痛く、冷たく、激しい雨に、どんどん体力が奪われているかのように感じた。本日二度目の走りに、だいぶ疲れが出ているのか、息がどんどん荒くなり、足もうまく上がらない。
雨に当たりながら葛原は少し目を開けて周囲を確認する。ずいぶん走ってきたのだろう。見慣れた光景がそこには広がっていた。
「こ……ここ、学校……」
「と、とりあえずね。部室まで行けば大丈夫かなって思って。話もしたいし……」
さわ子に促されるまま、校門をくぐり、雨でびしょ濡れの二人はそのまま駆け足で部室へ転がり込んだ。学校には部活動がある生徒以外は来ていないため、その慌てふためく姿は誰にも見られずに済んだ。
いつもの見慣れた光景、慣れ親しんだ空間に安心し、葛原は息を切らしながらも、大きなため息をついた。椅子を引っ張り出し、そこに座る。
「こ、ここまでくれば……たぶん、大丈夫。……あ、くずこまくん、大丈夫?」
「……だ、だいじょーぶ……かなぁ……」
葛原は走ったことでかなり疲労しているが、さわ子は以外にも疲れた様子はなかった。その姿に、ひ弱な自分がひどく惨めな気がして、少しだけ落ち込む。
「強い雨で、当たると痛かったでしょ……? でも、どうしてもあの量と、あの強さじゃないと、目くらましできないって思って……」
部室にいつも置いてある、劇の衣装に使うための大きめの布を渡しながら、さわ子はそう言った。葛原はそれを受け取り、濡れた顔をふく。
「助けてくれてありがとう、さわ子先輩」
「ううん」
自らもまた衣装用の布で髪をふきながら、さわ子は困ったように笑った。
しばしの間、沈黙が流れる。
能力者協会を名乗る二人に言われたことを思い出し、七分丈のズボンを少し上げた。何もありませんように、という願いを込めて左の膝を確認する。
スイセンの花に、バツ印。そこにはしっかりと、ヤミビトの痣があった。
「そっか……くずこまくんも、ヤミビトになっちゃったんだね……」
痣を確認する葛原を見て、さわ子はぽつりとそう呟く。
「……そう、なっちゃうのかな」
左の膝に手を添えて、そう答える。悲しいような、寂しいような、苦しいような、切ないような。なんともいえない感情だけが、葛原を満たしていた。
「……これは知ってると思うけど、ヤミビトは大多数の人からすごく嫌われてるの……。だから、くずこまくんはこれから、ヤミビトだってことをね、隠して生活しないといけないの。……正体がばれたら、きっと、能力者協会に連絡が入って、今度こそ本当に拉致監禁だと思うから……」
「隠して、生活……」
さわ子の説明に、不安を隠しきれない葛原は、震えた声をもらす。そんな葛原の姿を見て、両手を横に振りながら、慌ててさわ子は話し出した。
「だ、大丈夫だよっ。私、あんまり力になれないかもしれないけど、サポートするから……!それに、とりあえず、痣を見られないようにすれば、ばれることはないし……」
「そ、そっか……」
捲り上げたズボンを下げ、痣を隠しながら葛原は答える。
もう一度、感謝の言葉を述べようと、顔を上げてさわ子を見る。すると、さわ子は急に驚いたように周囲を見渡し始める。
「え……? な、何これ……っ」
「どうしたの、さわ子先輩?」
さわ子は何かを払いのけるような動きをする。しかし、周りには何もない。みるみる彼女の表情が曇り、不安げな声をあげる。
「や、やだ……! 何? い、いきなり周りに黒い影が……っ!」
そう言いながら、いまださわ子は「見えない何か」を追い払うように、手を振り回す。声は震え、目にはうっすらと涙がたまっている。
何が起こってるのかさっぱりわからない葛原は、さわ子に近寄ろうと立ち上がる。その時、ふと“学者”と呼ばれていた男性の言葉を思い出した。
「ぼくの、能力……“対象者に幻覚を見せる”能力だって、さっき……」
思い返して、そう呟く。
自分の思い通りに能力が使えるわけではない。もしかしたら、今まさに、さわ子に対して能力を発動し、幻覚を見せてしまっているのではないか。
「が、“学者”が……そう言ったの?」
怯えながらそう呟くさわ子に、葛原は頷く。
「そっか。じゃあ、これはくずこまくんが見せてる、幻……?」
さわ子は少しだけ不安そうにしながらも、追い払う素振りをやめる。そして葛原の方へ数歩歩み寄り、手を顔のあたりまで挙げる。
「く、くずこまくん。えっと……その……。歯ぁ、食いしばって、くださいっ!」
どういう意味、と聞こうとしたが、それはさわ子の容赦のないビンタによってかなわなかった。
ばしん、といい音を立てたビンタに、葛原は放心状態になる。普段のさわ子からは想像つかないその対応に、呆気にとられた。頬がじんじんと痛む。あまりの驚きに、瞬間時が止まったかのように身動きを忘れる。
「……よ、よかったあ。影、見えなくなったよ……」
そんな葛原とは対照的に、周りを見渡しながら、ほっとしたような表情でさわ子は笑顔になる。
「………………それは、何よりだよ」
「あ、ご、ごめんね! くずこまくんに制御ができないなら、こうするしかないなって思って……!」
「ううん、ぼくが……悪いから……うん……うん……」
半ば自分に言い聞かせるように、頬をさすりながら葛原は言う。いまだに呆気にとられているのか、なぜかさわ子の顔を見ることはできなかった。
「これからね」
さわ子は普段通りの小さくとも優しい声に戻る。
「ヤミビトのことも、あの……能力者協会のことも。いろいろと教えてあげる。ヤミビトだってことを隠して生活していくために、必要なことも。全部……」
葛原を安心させるかのように、葛原の手をきゅっと握りながら、諭すように、さわ子は目を閉じて優しくそう話した。
そして顔を上げ、にこりと笑顔をみせる。
「そうだなあ。まずは…………超能力を操れるようになることからはじめよっか」
「よ、よろしくお願いします」
まだ頬はじんじんと痛む。それが痛みなのかすらも、葛原はよくわからなくなっていた。さわ子の笑みにつられて笑いながらも、痛みでうまく笑えているか、自信はなかった。