第1話『覚醒』 ①
「ヤミビトって知ってる?」
どこか不安そうで、怯えたような声が、一年A組の教室内に響く。
壁にかかっている時計は五時を示しており、窓からは午後の穏やかな太陽の光が差し込む静かな教室。放課後のこの時間帯は、生徒の大半は部活に勤しんだり帰宅したりと、用事がなければ誰も教室にいないはずの時間。しかしそんな時間になっても、何人かの生徒は意味もなく教室に居座っていたりする。
そしてそうした意味もなく残っている生徒が数人のみ滞在する静かな教室で、ひとりの女子生徒は声を震わせながらそう発言したのだった。
「呪いにかかることと引き換えに、超能力を手に入れた人のことでしょ?」
「ヤミビトになると、体に変な痣ができるんだって!」
「火を扱えたり、瞬間移動したりするらしい」
「一般人がいきなりヤミビトになっちゃうってほんとかな?」
「誰でもなる可能性があるんだってさ。この間テレビで見た」
「遺伝子の病気って噂を聞いたけど……」
「ウイルスって噂も聞いたよ」
先に発言した女子生徒の言葉が合図になったかのように、教室に残っている数名の生徒は次々と「ヤミビト」について話し始める。
「超能力使えるとか、怖いよね。能力を使った犯罪とか、最近増えてるし……」
その言葉を最後に教室はまたしんと静まり返った。その場にいる者は、皆恐れや不安を抱いているような表情を浮かべている。
「……ヤミビトって、はっきり言って化け物だよね……」
寸刻の静けさの後、ぽつりと誰かが呟いた。その発言に対して、異論を述べる者は、誰一人としていなかった。
生徒たちの表情はいまだ曇っている。怯えと不安が混じったような、苦しい表情。発言こそしないが、その面持ちから、ヤミビトに対する恐怖を表しているかのようだった。
重々しい空気が流れる、静まり返った教室。時計の秒針がひたすらに時を刻む音だけが、やけに騒々しく響いていた。
しかしその沈黙は、誰かの遠慮なく椅子を引く音によって破られた。
「そろそろ行こうかなー」
そう言いながら椅子を引いて立ち上がり、男子生徒は通学に使用しているスクールバックの紐を肩にかける。
小柄で低身長という、一見女子生徒に見えなくもない容姿をしたその男子生徒は、暖かな小暑の季節にふさわしくない、見るからに暑苦しそうなマフラーを巻いていた。他の生徒と比較して変わっているのは彼の服装のみではなく、表情もまたそうだった。教室に残っている数名の生徒たちは皆、不安げで恐れているかのような顔をしているのに対し、その男子生徒だけはまったく違う、すがすがしいほど晴れやかな表情をしていた。
重苦しい沈黙を簡単に破ったのは彼、葛原こまちだった。
「なんかぼくの机ずれてない? 教室掃除の人、ちゃんと整列させてほしいなあ。……これ、直してから行った方がいいよね?」
声変わりしているような、していないような。どちらともいえない不思議なやわらかい声を発しながら、葛原は能天気に自らの机を整え始めた。
―――この重々しい雰囲気を、全く気にせずに。
「くずこまはどう思う?」
そうした彼の行動を見ながら、ひとりの男子生徒は葛原に声をかけた。
くずこま、というのは葛原のあだ名であり、クラスメイトや親しい者は皆、葛原のことをそう呼んでいた。
教室内の生徒たちも葛原に注目する。
葛原は机をガタガタと音をたてて動かしながら、声をかけてきた男子生徒へ顔を向ける。
「え?」
そしてまるで話の流れをつかめていないかのように、ぽかんとした表情でそう呟いた。
「話聞いてなかったのかよ。ヤミビトのことだよ。お前だって知ってるだろ?」
あきれたように、男子生徒は問う。
「あー……超能力の人たちのこと? 別に、ぼくは何とも思わないけどなあ」
机を整え終わった葛原は、特におびえた様子もなく、さらりとそう答える。その言い方はまるで他人事で、自分には関係ないとでも言っているかのようであり、声色からもヤミビトに対する関心の低さが感じられるほどだった。
「えー、嘘! 怖くない? 最近の犯罪者はヤミビトが多かったりするじゃん! 今日の朝のニュースとか見てない? 暴行犯の犯人がヤミビトってやつ……!」
葛原の発言に、ありえないとでも言うかのように、ヤミビトの話題を振った女子生徒が身を乗り出して反応した。
「うーん……。ヤミビト全員悪い人ってわけじゃないし。いい人もいるんじゃないかなーって、ぼくは思うし。みんな気にしすぎじゃない?」
「くずこまが気にしなさすぎ! ……まあ、いい人もいる……とは思う、けど……」
葛原の言葉に、女子生徒は納得する部分もあったらしく、少し言葉に詰まる。
「それにまず、ぼく、ヤミビトと会ったことないしね。なんか遠い存在って気がして、気にならないんだよねー……。それよりも、スーパーの限定セールの方が気になるよ!」
そう言うと、葛原はスクールバックのポケットからチラシを取り出し、それを見せる。チラシには「激安土日限定特価セール」と書かれてあり、目玉商品には丁寧に赤ペンで丸印がつけられていた。
男子高校生が所持するには少し珍しいものだが、彼のことを少なからず知っているクラスメイトは、葛原がそれを持っていることに対して違和感をもつ者はいない。
「くずこまはそうかもしれないけどさあ……でも……」
葛原の発言のすべてを納得したわけではないらしい女子生徒は、小さな声でそう呟く。
彼女が考えをすべて言い終える前に、葛原は思い出したかのように「あ!」と声を上げた。時計の時刻を確認し、困ったように眉を八の字にする。
「そろそろぼく行くよ。部活顔出さないと怒られちゃうんだ」
取り出したチラシをポケットにしまいながら、焦り気味に葛原は言う。
いつもは間延びしたような口調の彼だが、今は焦っているためか、やや早口になっている。
「そうか。頑張れよ、弱小演劇部!」
男子生徒は手を振って葛原にそう言った。
「弱小は余計だよ」
困ったように笑いながら、葛原もそれに応えるように、男子生徒へ手を振る。鞄の紐をかけなおしながら教室を出て、演劇部の部室へと足早に歩きだした。
ヤミビト。呪いにかかることと引き換えに、超能力を得た人のことを、世間一般では総称してそう呼んでいる。なぜヤミビトがうまれるのか、原因はわかっていない。何をしたわけでもないのに、いきなり超能力が使えるようになるのだという。そしていつの間にか、今までなかった花に×印がついたような痣が、体のどこかに現れる。超能力を使うにつれ、身体、または精神に何かしらの異常が現れてくるようで、それを「呪いにかかる」と表現しているらしい。それが、「呪いにかかることと引き換えに、超能力が使えるようになる」と説明される由来だと、葛原はテレビ番組か何かで耳にしたことがあった。
火を扱える者、電気を扱える者、重力を操作できる者。
そうした能力をもつヤミビトが確認されるようになったのは近年のことで、いつから現れたのか、正確なことはわかっていない。いつの間にかヤミビトは存在していて、ヤミビトが目立つ話題が増えてきたというのが、最近になってからの話なのだった。
ヤミビトの増加に伴って、一般人にはない特殊な能力によって起こる事件も増加した。能力の恐ろしさや事件が相まって、人々からは恐れられ、ヤミビトは世間から恐怖の対象としてみられるようになった。ヤミビトと普通の人間の区別は、はっきりとはわからない。体のどこかにある痣を見つけない限り、誰がヤミビトかはわからないため、それがまたヤミビトへの恐怖を引き立てるのだった。しかし、世間の冷たい視線を浴びながらも、そうしたヤミビトをかくまう保護団体も誕生しているらしい。ニュース番組でよく見かけるだけで、葛原も詳しいことは知らないのだった。
最近ではテレビでヤミビトのことが放送されない日はないくらい、その存在は注目を浴びている。そのため、特にヤミビトに興味がなくても、テレビを見ていればある程度の情報は得ることができる。
世間一般では非常に関心の高まっている話題であるにもかかわらず、葛原こまちにとっては近所のスーパーの限定セールよりも興味のないことだった。朝にテレビでニュースを見ることはあっても、話の半分は聞き流して聞いている。いや、半分も頭に入っていないのかもしれない。それに比べ、葛原はセールの内容ならば詳細に思い出せるのだった。今回の土日限定特価セールでは野菜が特に安かった。ティッシュペーパーも安かったし、思い返してみるとペットボトル飲料もお得な値段だった。この機会に飲み物の補充もできそうだ。
セールの内容は覚えているのに、今朝ニュースで見た事件は覚えていない。事件に対する関心がほとほと自分には足りていないと、葛原は苦笑いをする。
そんなことを思いながら、葛原はふと窓の外に視線を向けた。夕方であるにもかかわらず、暖かな日差しが降り注ぎ、気持ちのいい晴れ模様―――では、あるのだが。
「……雨?」
ぽつりぽつりと、小さな雫が空から零れていた。
雲はあるが、雨雲と呼ぶほどのものではなく、雨はざあざあと降る気配もない。ただ音もなく、空から零れ落ちているそれは、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
「……まるで、宝石みたい」
そう声が出てしまうほど、それは美しかった。
太陽の光が届いている、暖かくて心地のよい天気なのに、小さくて静かな雨が降っている。そんな不思議な空模様が、そこにはあった。
はっと気がついて、葛原は窓の外から視線を外し、眺めることをやめた。今は部室へ急がなければならないのだ。
小走りで部室に向かって走る。談笑する声が、部室に近づくにつれどんどん大きくなっていく。部室の中の様子が目に浮かぶようで、少し笑みがこぼれた。
遅刻したこと、怒っていなければいいけれど。