9
その日は予想していたよりも早くやってきた。
期末テストを一週間後に控えた日曜日の夕方頃だった。その日は珍しく佑里が来なかったので、僕は朝から志野ばあちゃんに勉強を教わっていた。佑里ほど解かりやすくはなかったけど、教わる身としては文句は言えない。唯一の欠点は、僕がイージーミスをして答えを間違えると、すぐに手が出ることだ。
「まーたこがんつまらんミスばして」
ポカッ。という感じで。
なにより後輩に勉強を教わっているという屈辱が最大の難点だ。
祐里お手製の参考書を見ただけで志野ばあちゃんは三年の範囲を即座に理解し、僕のなにが間違っているのか指摘する。さすがに定年過ぎて高校に入学してくるだけあって頭は柔軟だ。その上十代の女の子たちと話を合わせられるあたり要領もいい。今までは単に精神年齢が同じなんだろと馬鹿にしていたが、やっぱり六十六年も生きていると勉強のコツやら人との接し方なんて熟知しており、感心させられる。
ちょど午後の勉強を終わらせ、夕飯にしようと志野ばあちゃんが台所に立とうとした時だった。
トントン、と誰かが僕の部屋をノックした。
先に立っていた志野ばあちゃんが出ようとしたのを、僕が遮った。
「いいよ。僕が出る」
どうせこんな時間の訪問客はしつこいセールスと決まっている。年寄りが出るよりも男の僕が出た方が多少の防波堤になるだろう。
玄関のドアを開けると、そこには佑里が立っていたぎょっとした。
「どうしたんだ」
と言ったつもりだったのに、驚きのあまり言葉にならない。
「だれね?」
台所からばあちゃんがひょいと顔を覗かせて、僕と同じリアクションをする。
「どげんしたとね」
驚いたのは、そこに佇む佑里が明らかにいつもと違う雰囲気をかもし出していたからだ。日曜なのにセーラー服を着て、ストレートヘアもセットされている。かと思うと学生カバンは持ってなく、太ももに突き出した両手は拳を作って身体を硬直させていた。目も赤く腫らし、せっかくの美人が台無しになっている。
身体をプルプル震わせ、こわばった顔が弱りきった子犬のようだった。
「……孝幸」
僕とおばあちゃんの顔を見るなりほっとしたのか、佑里の顔は一瞬にして崩れた。
「ウヮァァー!」
と、まるで怪獣の鳴き真似のように泣き叫ぶ。
今の佑里を学校の奴らが見たらどんな風に思うだろう。ぼろアパートの玄関先で、兄貴と祖母の前で泣く彼女に学校で気丈に振舞う優等生の面影はなく、頼りない僕の妹がそこにいる。
「だ、大丈夫か」
尋ねても返事は返ってこない。泣くのに必死で、僕の質問なんてもともと聞こえてはいないのだろう。ただ、泣いている理由もわからないのではこっちも対処のしようがない。途方にくれ志野ばあちゃんと顔を見合わせた。さすがに、祐里のこんな姿を見るのは始めのことで、ばあちゃんせでさえ困り果てているようだ。
とにかく中に入らんね、とばあちゃんが部屋に入るように促し、座らせてお茶を進める。
こんな時、不覚にもばあちゃんが隣にいてくれたことに感謝してしまう。もしも僕一人だと情けなくうろたえるだけだっただろう。なんせ、妹の泣く姿なんてあの時以来だ。しかもこんな豪快な泣き顔を見るのは一生に一度だけだろうと思っていたのに。
ばあちゃんの用意したお茶が効いたのかはわからないが、とりあえず泣き止んだ佑里に、ばあちゃんが「どげんしたとね?」ともう一度訊いた。
佑里はそれでも口を閉ざしていたが、ふと顔を上げてずずっと鼻を啜ると、ゆっくり話し始めた。
「昨日ね、パパとママがケンカしてた、の。このところずっとだったんだけど、昨日のは特にひどくて夜中まで続いてた。私、怖くて自分の部屋にこもってケンカが聞こえないように耳を塞いでたんだけど、いつの間にか眠ってて、朝起きて一階に降りたらテーブルの上に離婚届が置いてあって……」
努めて冷静に説明してつもりだろうが、声が震えている。
「お袋……離婚、するのか?」
恐る恐る訊いてみる。
『離婚』という単語に反応し、顔が一瞬にして強張った。
「もう、離婚なんて、いやだよぅ」
(離婚、か)
僕はため息をついた。
子供は親の喧嘩に敏感なものだ。僕の場合、あまり『親』というものに執着心がなかったので離婚に抵抗はなかったけど、真面目な佑里にとっては一大事なのだろう。
三年前、両親が離婚する時に一番反対したのも佑里だった。今日のように大声を出して泣き崩れ、僕にしがみついて「イヤダイヤダ」と繰り返し叫んでいた。当時の佑里には拠り所が僕しかなかったのだ。両親には甘えることができず、学校では凛とした優等生を演じていたため、友達に相談なんて真似もできない。普段頼りない兄だけが、唯一の相談者だったのだが、所詮は僕だ。気のきいた言葉一つかけられず、ただしがみつく佑里に胸板を貸してあげるだけだった。
あの時と同じだ。
その後の祐里の心境は大体予測できる。離婚届のインパクトで頭が真っ白になり、本人たちに確認もせずに逃げるように学校に行く振りをして家を出たのだろう。確認しなかったのは両親の最終決断が訊くのが怖かったせいだろうか。それから頼る当てもなくどこかで何時間も泣いて、途方に暮れたようやく兄の存在を思い出した。もしくわ遠慮していたのかもしれない。自業自得とはいえ期末テストに向けて勉強を頑張っている兄の邪魔をしたくないという考えが働き、即座に頼ることができなかったのだ。
でもこれで納得できた。
ここ数日間感じていた違和感の正体はこれだったのだ。今にして考えれば、勉強を教えてもらった後、自宅に佑里を送った時に一度も僕を家に招こうとしなかったことも不自然だ。佑里のことだから一度くらい、
「ママに会ってく?」
と誘ってもよかったはずなのに。
家の不穏な空気を悟られたくなったのだろう。
僕自身、誘われても断っていただろうから、誘われないことに今の今まで不自然さを感じなかったのだ。
「お袋も困ったもんだよな……」
ケンカの原因を聞いたわけでもないのに、真っ先に浮かんだのはお袋が激高して怒鳴り散らす顔だ。
お袋の性格を考えると驚きもしない。短気で強気で負けず嫌い。売り言葉に買い言葉でとにかく喧嘩っ早い。怒った時には手は出さないけど、マシンガンのような説教は一度味わっただけでトラウマものだった。普段が人一倍優しいだけにその温度差が激しすぎて、一人暮らしを始めてからは一度も顔を合わせていない。
「そうやっとね。よかよか、泣きんしゃい。今夜は泊まってってよかけん」
志野ばあちゃんが諭すように佑里の背中をさする。
その言葉に甘えるように佑里は泣いた。
その夜、僕らは小さな部屋で川の字になって眠った。布団を二枚敷き、ばあちゃんと佑里が一枚の布団で、僕がもう一枚を一人で占領した。佑里は泣き疲れていたのか、志野ばあちゃんにがっしりしがみつくとすぐに寝息を立てた。とくに会話も無いまま僕も、志野ばあちゃんも続いて眠った。
日付の替わった真夜中、僕は佑里に静かに起こされた。
「……き、孝幸」
と小声で体を揺すられ、瞼を開く。
薄暗闇の中、視界がぼんやり佑里の姿を捉えた。
「どう……した?」
声がしゃがれている。
んん、と小さく咳払いし、枕元に手を伸ばして携帯電話を取る。折りたたみを開くと、液晶画面の明かりが薄暗闇の中に光を点した。
「三時ってお前」
志野ばあちゃんより太刀が悪いぞ。隣を見ると、ばあちゃんはまだ眠っている。
「ごめんね」
泣き腫らした顔に苦笑いってのは卑怯だ。
「別にいいけど」
としか言い返せない。
実際、昨日は佑里を落ち着かせるために八時頃には布団に入ったため、睡眠時間はたっぷり取ったことになる。佑里に至っては夕飯も食べず、風呂にも入ってない。真夜中に起きるのもいたし方の無いことだろう。
「ちょっと外で話せるかな」
申し訳なさ気に玄関を指差す佑里に、断るという選択肢はなかった。
「ちょっとまってな」
とりあえず寝起きの生理現象を済ませ、顔を洗ってから佑里と二人で外に出た。志野ばあちゃんを起こさないように気を使ったため、服装は寝巻きのままだ。寝巻きと言っても無地の白シャツと下は中学時代の緑ジャージ。佑里が学校の制服のまま来たので、僕がいつも使っている青と赤の縦縞が入ったパジャマを貸してやった。真夜中にそんな格好で警察に見つかりでもしたら補導されるのは間違いない。
財布を忘れたためお店に入ることもできず、近所の公園に向かった。
真夜中の公園は人気がなく、静かな分寂しい。街灯が明かりを点しているので怖いという感情はわかなかった。
「もう落ち着いたのか?」
錆びれかかったベンチに腰を下ろして、僕は訊いた。
「うん。昨日は突然押しかけてごめんね」
昨夜に比べれば多少明るい声だ。多分、お得意の空元気なのだろうが、ないよりはましだろう。
「で、その、決定事項……なのか」
気を使って『離婚』という単語をどうしても敬遠してしまう。
「わからないけど、置いてあった離婚届にはママの署名だけ書かれてた」
お袋のことだから脅しのつもりとは考えにくい。どうよ、あんたが折れなきゃ離婚するわよ、と駆け引きをするような人ではないのだ。署名までしているとなると、意思は九割方固まっているのだろう。
こうなると厄介で子供の気持ちなんて考える人ではない。考えよりも先に行動に移ってしまうタイプなのだ。ある意味で血の繋がりはないものの、志野ばあちゃんと近いものを感じる。
「原因は知ってるのか?」
どこまで尋ねていいものなのか判断に迷うが、言葉を選んでいる余裕もない。
立場的に僕は今回の件に関してほとんど無関係に近い。いや、本来ならお袋がバツ二になるのだから関係ないとは言い切れないが、まあ、あちらはあちらでこっちのことなんて気にも留めていないだろう。ただ、やはり興味だけはある。もともと仕事人間だったお袋が専業主婦が務まらないことは重々承知している。とはいえ、そんなお袋が仕事を辞めてまで尽くそうと思った相手と、別れると決心に踏み入った状況を知りたい。
「多分」と、佑里はたっぷり間を空けて「原因は私」
意外な答え、というわけではなかったので驚かなかった。薄々そんな気はしていた。
「私の進路のことでちょっと、ね」
そういえば三年になって一回目の進路面談がそろそろあることを思い出した。数週間前に出した進路希望の紙、あれが原因らしい。
「最初はね、私とママが喧嘩したの。私の目指したい大学をママに反対されてね」
やっぱりか。ただ、
「もう行きたい大学決まってるんだ」
むしろ、そのことに驚かされた。
佑里が呆れ顔になる。
「二年生の後半では大体決めとくもんだよ」
「へ、へえ。いや知ってたよ。僕も大体は決めてるし」
やばい。佑里の心配していたはずなのに焦っている自分がいる。進路のことなんてろくに考えていなかった。いや、留年だってありえるこの状況で、進路なんて考えられるわけもない。
「そ、それで」
明らかにうろたえているのを必死で隠しながら、続きを促した。
「お金とかの問題じゃなくてね、ママはママで、自分が卒業した大学に私を行かせたかったみたいなの。でも、それって変でしょ。ママが卒業したところだからって大学を選ぶやり方」
「まあ、そうだな」
肯定はしてみたものの、まだ行きたい大学も決まっていない僕がここで一般論を語っていいものなのか不安はある。
「それで大喧嘩になって、そしたらパパが私の味方をしてくれてね。気づいたらママとパパの喧嘩になっちゃってて」
「ふーん」
なるほど。離婚の流れは大体理解できた。大方僕が予想してた通りだっただけにちょっと拍子抜けしてしまほどに。まあ、結局の話一番悪いのはお袋という結論だ。子供の進路を勝手に決めたあげく、娘と喧嘩して、娘に味方した旦那と離婚。お袋はお袋で思うところがあるのかもしれないが、離婚なんて極論に達してしまっては、子供としては迷惑以外のなにものでもない。
お袋も相手が僕であれば悩まなかっただろう。僕の偏差値で行ける大学なんて選べるほどはない。
「それで、結局佑里の進路はどうなったんだ?」
離婚なんて結論に達した挙句、佑里の希望も叶えられないのでは踏んだりけったりもいいところではないか。
だけど、返事は返ってこなかった。
ふと横を見ると、佑里が再び泣き出していて、僕はぎょっとした。この話題はまずかっただろうか。せっかく一晩経って落ち着きを取り戻したというのに。僕は自分の軽率さにほとほと呆れた。
そのまま一言も喋らないまま、何分が経過しただろう。隣ではずずっと鼻を啜る音が聞こえる。
「私ね」とようやく口を開いた時には、空に少し赤みがかった雲が飛んでいた。
「新しいパパが好きよ」
「え」
突然の告白に、僕は言葉を失う。頭の中にはついこの前鑑賞した『義父と娘のイケナイ一夜』というアダルトDVDの題名が浮かんだ。
頭の中で色々な想像が膨らみ、思わず鼻血を出しそうになったところで、佑里が、
「父親としてよ」
と付け足した。
「当然だろ」
と言ってはみたが、もちろんわかってなどいなかった。ほっとすると同時に、恥ずかしさで耳が熱くなるのを感じる。
「いい人だし、本当の娘でもないのに私のことをよく考えてくれているし」
「うん」
血の繋がらない娘の味方してお袋と喧嘩するなんてよっぽど人がいいのだろう。
「ちょっと気弱そうな人だけど、そういうところ、本当のパパと似ているから」
「親父に? あんなのに似てるんだったたいしたことないな、その父親も」
僕が皮肉ると、佑里はくすっと笑った。
「またそういうこと言う」
そのリアクションにちょっとほっとする。泣いてはいるけれど、切り替えはできたらしい。昨日だったら僕のこんな冗談にも付き合ってはくれなかったはずだ。
「まあ」と僕は頭をポリポリかきながら、
「そんなに別れてほしくないんなら、もう一度お袋と話し合ってみろよ。自分がどうしてその大学に行きたいのかちゃんと説明してさ。その上でだめだったら家出でもして抵抗してみればいい。僕の部屋ならいつでも来ていいから」
兄として妹にしてやれることはそれくらいだった。
「うん」
「お袋がいくら反対したって、結局、大学に行くのは佑里なんだ。今から一つに絞ることもないだろ」
佑里は僕と違って大学を選べるんだから、と付け足そうとしたが、これ以上は自分が惨めになりそうで止めた。
「そうだね」
佑里は微笑んだ。
「孝幸と同じ大学もいいかな」
「はん。本当は信吾と同じところがいいくせに」
「な、違うわよ」
みるみるうちに赤面する。
「でも、まさか孝幸に慰められるとは、一生の不覚だ」
「お、やるか。こう見えてもお前のお兄ちゃんだぞ」
いつもの兄妹のノリに僕もちょっと気が落ち着いた。
佑里はクスクス笑うと、ふぅーと大きく息を吐いた。
「でも、私の方が先にオムツを卒業したんだよ」
「そうだっけ?」
「サンタクロースがいないって知ったのも私が先だったし、レストランでお子様ランチを注文しなくなったのだって妹である私だったんだから」
「よく覚えてるな」
「忘れないよ。だって、七歳のクリスマスになんとかマンの変身セットが欲しいですって大声で叫んでた孝幸が可愛いなぁ、って思ったのも覚えてるもん」
「……忘れていただけませんか」
いくら子供だからって恥ずかしすぎだろ、僕。
「次の年に百万円が欲しいって叫んだ時にはドン引きしたけど」
たった一年でどんだけ荒んでるんだ、僕。
「孝幸が羨ましかったんだよね」
「今の話に羨ましい要素がありましたか?」
「私がレストランでお子様ランチ注文しなくなったのって、周りの友達がみんな注文してないって知って、恥ずかしくてやめたんだ。大人ぶりたくて、ママと同じもの注文したりして。本当はお子様ランチ食べたいのに、我慢してた」
「つまり、僕は我慢ができない子供だったと?」
「ちがうちがう」
手を振って否定していたが、ぴたっとその手が止まる。
「ん、違わないか」
「おい」
「あはは、冗談だよ」
「お前なー」
「そのくせ恥ずかしいって我慢してたこと家に帰ってからすごく後悔するんだよね。孝幸がお子様ランチについてた玩具で遊んでるの見ていいなぁって嫉妬したりして。孝幸はすぐに気づいて私にその玩具貸してくれたけど」
「そうだったっけ」
本当によく覚えてるな。という僕も覚えてはいるけど。正直、恥ずかしいことなので佑里には忘れていて欲しいことだった。
「でも私が欲しかったのって女の子用の玩具だったんだよね。着せ替えのお人形さん」
「悪かったよ。今度からお子様ランチ頼んだ時は女の子用の玩具をもらってやるよ」
「うん。そうしてね」
「で、なんの話なんだよ、これ」
「だから、孝幸が羨ましいって話。最近、自分がおばあちゃんと同じ境遇だったらって想像してみることがあるんだ」
「……志野ばあちゃんと」
「うん。家にお金がなくて、学校に行きたくても行けないの。その代わり朝から晩まで働いて働いて、ふと周りの同い年の子を見ると楽しそうに学校に行ってんだよ」
子供の頃から、耳にたこができるくらい聞かされた話。
戦争も終わったばかりで、お金のある家とない家の差が激しくて、ばあちゃんは当然お金がない方の人間だった。中学を卒業すると同時に小さな工場に働きに出て、工場が休みの日は家の農作業を手伝っていたらしい。ばあちゃんの下には二人ほど幼い弟、妹がいたので、たとえお金があったとしても下の子の世話もあってとても学校に行ける状態じゃなかったらしいが。
「羨ましそうにその子達を見ながらおばあちゃんはどう思ってたのかなぁ。結婚して、子供を生んで、その子供も結婚して出て行って、旦那さんが亡くなって、ふと気づくと家に一人きり。そうして自分の人生を見つめ直した時に、学校に行ってなかったことを後悔して……」
(後悔するだろうか?)
志野ばあちゃんの子供の頃の生い立ちは裕福だったとは言えないだろう。でも、今現在で見ると、じいちゃんとの結婚生活はそこそこ恵まれていたはずだし、親父も――息子が言うのも照れくさいが――立派に育ったし、孫までいる。じいちゃんが亡くなって独り身なったとは言え、財産も残してくれて老後の心配はない。世間一般で見れば、いい人生だったと言えるのではないだろうか。そこに、高校に行けなかったというマイナスポイントを差し引いたとしても。
でも、ここでそのことを佑里と議論する気もなく、僕は黙っていた。
「還暦を迎えて、今ならお金がある状況で、いざ学校に行けるってなった時、孝幸ならどうする?」
「え」
唐突に質問されたので、僕は返答に困った。でも、そんなの決まってる。
「行くわけないだろ」
「……だよね」
たとえ高校に行けなかった事を悔やんで死ぬとしても、還暦を過ぎてまでその夢を成就させたいかと問われれば羞恥心が勝ってしまうだろう。
「私も一緒だよ。で、後々後悔するの。お子様ランチを頼まなかった時みたいに」
そう言った佑里の顔を見ると、まっすぐした目をしていた。さっきまで泣いていたのが嘘のように凛と構え、なにかを吹っ切ったような顔をしている。
(こいつ)
佑里がなにを考えているのかわかってしまった。双子というのも面倒な関係だ。気づかないでいいことに気づいてしまうし、気づかれたくないことに気づかれしまう。
「お前、折れる気だろ」
「え、なにが?」
とぼけたフリをしているが、僕の意図は伝わっているはずだ。僕はあえて下手な演技には触れず、
「お袋と一緒の大学に進もうとしてるんだろ」
自分の考えを口にした。
凛とした顔が一瞬にして怯んだ。
自分の行きたい大学を諦め、お袋が卒業した大学に進学。変わりに、離婚を撤回してもらおうという寸法だ。後悔することを覚悟で、ということか。
あまりの浅はかな考えに僕は呆れと同時に怒りを感じた。
「そんなんでお袋が離婚を止めると思うのか」
もう、その次元の話でないことがわからないのだろうか。佑里の進路問題なんてきっかけにすぎないのだ。三年間の結婚生活の中で積み重なった非積みが、佑里を介しての喧嘩で崩壊したに過ぎない。普段の佑里なら理解できることだろうが、今の彼女は普通の思考回路を持ち合わせていないのだろう。
「じゃあどうすればいいの」
半ば逆ギレのように問い詰めてくる。
覚悟の最終手段を抜けた兄貴に馬鹿にされたのだから当然か。
「さっき、離婚しないようになんでもしてみろって言ったのは孝幸でしょ」
「僕は話し合えって言ったんだ。一方的に折れてどうするんだよ」
「ママが私の言うこと聞くと思う?」
思わない。僕が佑里の立場なら進路を折れるより先に、心が折れるているだろう。お袋相手に口で論破しようなんて自殺行為もいいところだ。正論でかかっても、ヒステリックにわめき散らされてこちらの言い分なんて聞いてもらえるはずがない。
「思わないけど」
と呟いたきり、僕は一瞬黙った。
「佑里が前に僕を叱ったことあったよな」
「え、どれのこと」
どれ、というほど佑里に叱られた記憶はないはずだが。
「僕が信吾に志野ばあちゃんのこと相談しようとした時」
「あれは、叱ったって言うか……」
「あの時、『孝幸にとっておばあちゃんって汚点なの』って言われことがすごいショックだった」
「あー、ごめん」
「いや怒ってるとじゃなくて、あの時の僕にとっての志野ばあちゃんが、佑里にとってはお袋なんだなって思って」
「な、なんで」
「汚点というより重荷になってるんだ、お袋が」
「そんなこと……ないよ」
「佑里が折れて、希望してない大学に進んで離婚がなくなったとして、お前の親父さんががどう思うか考えたか?」
中学の頃からそうだけど、佑里はお袋びいきのところがある。
これは絶対佑里には言えないことだが、三年前、親父とお袋が離婚した原因も実は佑里の進路の問題だった。佑里が一人で決めた進路希望の紙をお袋が見つけ、勝手に書き直そうとしているところを親父に見つかって喧嘩になったらしい。そのことも今回と同じであくまできっかけには過ぎなかったのだが、佑里には言わないことを条件に僕は親父から聞かされていた。そうして、またこういうことがあった場合、兄貴である孝幸が佑里の味方になってやるんだぞ、と親父に頼み込まれたのだ。
「離婚がなくなればパパだって嬉しいはずだよ」
「なわけあるか。せっかくお前の味方したのに、自分の意見が通らなかったんだ。元の、佑里が望む両親に戻れるわけないだろ。優越感に浸れるのはお袋だけ。今後お前が就職する時、結婚する時もなにかにつけてお袋が横から口出しして、喧嘩になるのがオチに決まってる」
「そんなことは……」
――ない。とはさすがに言い切れなかったようだ。
ちょっと言い過ぎたかな、とへこんでしまった佑里を見て思ったが、ここで言っておかないと本当に望んでもない大学に進学しそうだったので仕方ない。親父の言うところの妹に味方にしてやれ、というのがこれで正しかったのかはわからない。でも、僕なりに考え、佑里が後悔しない方に導きたかったのだ。
佑里にお子様ランチを食べてもらうことが、兄として務めだと信じて。