8
放課後、担任に呼び出しを受けた時、なにを言われるのか大体予想はついていた。数日前に渡された中間テストの結果のことだ。赤点三つ。学年で下から二番目というこれまでで一番最悪の成績を残したためだろう。
結果後は志野ばあちゃんに絞られたし、妹の佑里からは呆れられ、信吾からは笑われた。この上先生の説教を受けるのだと思うと、職員室に向かう足取りは重い。
「なにしてるの?」
職員室に入るなり、安永先生はすぐさま切り出した。
「なにって」
なにもした覚えはない。むしろ、なにもしなかったことを怒られるわけで。
「なにがあったの?」
先生がニュアンスを変えた。
「なにがって、べつに……」
と僕は口ごもる。
「そんなわけないでしょ。今回のはあまりにも悪すぎるわ。ねえ四釜くん、私はね、あたなはやればできる生徒だと信じてるの」
僕は苦笑した。
やればできる。
何度その言葉を聞いたことだろう。まだ両親が離婚する前、試験の結果が出る度にお袋に怒られ、親父に諭され、佑里からの励ましの言葉。
『孝幸はやればできるんだよ』
そう言われる度、最初の頃は努力したのだ。それこそ信吾が野球を頑張るのと同じように、ない脳みそに数学の方程式を詰め込もうとしたり、英語のスペルを必死で覚えようとした。しかしだめだった。基礎工事の出来上がっていない地盤に家を建ててもすぐ倒れてしまうように、小学生の頃に基礎を怠った僕の脳みそでは、高校の問題なんて欠陥住宅を建てるようなものだ。
「そう言われましても」
「四釜君」
安永先生は僕の名前を呼んだ。白髪交じり髪が、志野ばあちゃんのことを思い出させる。
「去年のこともあるし、もうちょっと頑張らないといけないわよ」
優しい発言にわりに、口調は強い。
それぐらいやばいということらしいが、どうにも自覚がもてない。
「はぁ」と曖昧な返事を返すのがやっとだ。
そんあ僕は見て、先生は、
「なに?」
とさらに訊く。
「はい?」
質問の意図がわからずに訊き返す。
「なにが悩みでもあるんじゃないの?」
「悩み、ですか」
「ええ。それで勉強に身が入らなんじゃない」
いや別に、といいかけて口をつぐんだ。
今回の結果は単に本人の勉強不足(自覚あり)なのだが、こんな言われ方をすると言い訳しないと返って悪い気さえする。
ナヤミナヤミ、と呪文のように呟き、必死で悩みをひねり出すはめになった。恋をして、なんて言ったら余計に怒らせるだけだろうし、家のことが、なんても言えない。両親が離婚したことを言い訳にしたら、お袋にまでこの話が漏れてしまう心配がある。しかも離婚したのは三年も前で言い訳にすらならない。
「しいて言えば」
「うん」
「志野ばあ、じゃなくて、うちのばあちゃんのことかな」
「おばあちゃんって志野さんのことよね」
僕は頷いた。ばあちゃんが僕の部屋に来たせいで勉強する時間がなくなったんです、と口からデマカセで誤魔化そうとした。
「うまくいってないのね、同居」
同居のことは既に学校にも了承を得ている。まあ、もともとおちこぼれの僕が一人暮らしをしていることの方が異常だったので、学校の後輩とはいえ保護者がいることは学校としてもメリットの方が大きかったようだ。
「まあ」と嘘をつくことへの罪悪感を感じながら肯定する。
ばあちゃんとの生活は順調とはいかないまでもうまくいっていたし、ばあちゃんが原因で勉強する時間がない、なんてのは全くの嘘だったけど、この際説教の時間が短くなるのなら嘘も方便とたかをくくった。
のだが、それが過ちだった。
「そう。だったら志野さんの担任とも一度話をして、あなたの家を家庭訪問する必要があるわね」
「え」
僕は自分の耳を疑った。
「だってそうでしょ。家庭環境を見て、あなたの言うとおりなら志野さんにもこのことを伝える必要があるもの。お互いによくないわ」
「ち、違うんです!」
ここが職員室であることも忘れて僕は叫んだ。
(最悪の展開だ)
高校生にもなって家庭訪問なんて冗談じゃない。むしろそのことより志野ばあちゃんの責任にしたことをバレることの方が問題だ。マジで殺される。
「なにが違うの」
「あ……の」
先ほどの何倍も頭をフル回転させ、言い訳を考える。自業自得とは言え、家庭訪問だけは絶対に回避しなければならなかった。
「いや、あの、も、もう、その問題は解決しまして。今は結構いい雰囲気なんです」
声が震えているのを悟られないように、声のボリュームをひたすらに上げる。
「次の試験ではちゃんと結果を残せるはずです」
冷や汗が額から頬を垂れる。
先生は僕の顔をじっと見つめた。
「本当に?」
「は、はい」
「本当の本当ね。次の期末の結果いかんでは大学受験も危ういわよ」
「はい。心配をかけて申し訳ありません」
まだ納得していないようだったけど、一応先生は頷いた。
「だったら家庭訪問は延期するけど、次だめだったら本当にやるからね」
「分かりまセた」
緊張で口が渇き、言葉を咬んだ。
「分かりまセた?」
怪訝な表情を浮かべた先生に一礼して、僕は職員室を後にした。
戻ると教室には誰もいなかった。窓際の自分の机に腰を下ろし、二階の窓からグランドを見下ろす。野球部がユニホームを泥だらけにしながら練習している姿を見て、そういえばここ数日雨が降り続いたことを思い出した。
僕は無意識にため息をついた。
誰もいない教室では自分のため息さえうるさく聞こえる。
(さて、どうしよう?)
自問した。
信吾の練習が終わるのを待って一緒に帰ろうかと考えたけど、練習が終わるまでまどあと一時間近くもあった。それまで待っているほどの元気も残っていなかった。ただ、今日は一人で帰る気力もない。
そんな時だった。
「孝幸」
救いのように僕の名を呼ぶ女神の声が耳に届いた。振り返ると、教室のドアの前で佑里が立ってる。
「また信吾君待ってるの?」
教室に僕以外いないことを確認してから、中に入ってくる。
「残念ながら違うよ。職員室で説教されて、今教室に戻ってきたところだよ」
「あー『あれ』で」
「そう『あれ』で」
くすくすと口元を隠しながら笑う。あれ、というのはもちろん中間テストの結果のことだ。
「浮かない顔だね。追試受けろって?」
「いや。けど今から期末の勉強しなきゃいけなくなった。でないと、さらに悲惨なことになりそう」
「あはは、大変だ」
机から腰を下ろし、床に足をつけて立ち上がる。
「帰るの?」
と佑里がつまらなそうに言った。
ん、と口をあけない返事をしてカバンを右手に握る。
「佑里は残るんだろ。信吾と一緒に帰りたいだろうし」
冗談めかして言うと、佑里は耳の先っぽまで真っ赤にして、ばか、と小さく呟いた。
「いい、私も帰る」
「奥手だな。そんなことしてたらばあちゃんに信吾奪われるぞ」
「もう。そんなこと言うんだったら、勉強教えてあげないんだから」
「勉強、教えてあげよっか」
バスを待ちながら、佑里が言った。
「なんだよ」
と僕が思わず訊き返したのも無理はない。ついさっき言ったことと正反対の台詞をこともなげに言うなんて、佑里らしくなかった。さっきのあれが冗談だったとしてもだ。
佑里は、別に、と答えた後で、横に座っている僕の顔をじっと見つめた。無表情に近い顔をしている。
「いや?」
「いやじゃないよ。むしろお願いします」
「うむ、よかろう」
バスが来たので、僕らは後ろの長くて広い席に並んで座る。この時間帯は違う学校の制服を着た学生もちらほら乗っている。
「どこで勉強しようか」と僕。
「私の家――」
「却下」
「もう」
佑里が口を尖らせる。僕はお袋と、その旦那のいる家には行きたくはない。嫌いというより苦手なのだ。お袋の新しい旦那は戸籍上僕のなんになるのだろう。義父、遠い親戚、それともただの他人。そんな曖昧な関係で顔を合わせてもお互い気恥ずかしいだけだ。
「だったらどこにするの?」
うーん、と僕は考えてから、
「僕の部屋で」
「えー汚さそう」
「失礼なやつだな。志野ばあちゃんが来てからは綺麗だよ。ばあちゃんの美味い飯を食えるぞ」
「あ、そうか。孝幸の家で待ってればおばあちゃんと会えるんだ」
「あんなんでよかったら佑里の家に持ってかえって構わないけど」
「またそういうこと言う」
その日から期末試験へ向けての勉強を開始した。
祐里も要領がいいだけで双子の兄と脳のスペックに大きな違いはない。苦手分野はとことん苦手だし、得意分野でも並々ならぬ努力の結果が集結して今の彼女がある。だから、なぜ僕が解からないのか解かるらしい。僕専用の要点だけをまとめたノートを作ってくれ、それを参考書に、学校が終わってから家に帰って三時間、その間休憩を入れてもみっちり二時間以上は勉強に費やした。
勉強を終えた頃にちょうど部活を終えた志野ばあちゃんが帰宅し、そこから夕食を作るためセーラー服のまま台所に立つ。
「孝坊が勉強のお世話になった礼に、美味しいご飯ば食べさせてやるけんね」
「私も手伝っていい?」
「疲れたやろうけん、休んどってよかとよ」
「せっかくだし料理教えてほしいんだけど」
「お、よかばい。やっぱり女の子はよかね。孝坊はなんもせんでつまらんけん」
皮肉を言われているけど無視してゲームを開始する。
台所に立った二人の構図は祖母と孫なのだが、どちらもセーラー服なので後姿だけなら女子高生が仲良く料理を作っているようにも見える。一時間ほどで作った食事にしては豪勢なおかずが食卓に並んで、三人で遅めの夕飯を食べる。食卓に祐里が加わっただけで明るさは格段に増した。喋っているのはたいてい志野ばあちゃんと祐里の二人だったけど、祖母と二人で食事をするよりは幾分増しだ。
食事後は志野ばあちゃんが後片付けをしている間に、僕が佑里を自宅前まで送る。
生徒会の仕事が忙しいらしく、時間が合わないこともあったが、佑里は極力僕の部屋に訪れては勉強を教えてくれた。その熱心さが僕へのためなのか、志野ばあちゃん目的なのかは深く考えないようにして。
「私もおばあちゃんと一緒に住みたいな」
と言われた時の志野ばあちゃんの顔と言ったらなかった。顔面しわくちゃにほころばせ、気持ち悪いほどにニヤついていた。
しまいには僕をカヤの外に放り出し、ガールズトークに花を咲かせる時もあり、僕の方が「勉強しようよ」と注意したこともある。
佑里はそうして帰る時間になると名残惜しそうに指をくわえ、
「もうちょっといたかったなァ」
などとまさに志野ばあちゃんの喜びそうなツボを押さえた発言をする。なんでそんなことを恥ずかしげもなく言えるのか我が妹ながら感心してしまう。純粋に口をついたのか、計算されての発言なのか判断に迷う。
「また来んしゃいね」
と言ったばあちゃんの台詞を鵜呑みにしたとは思えないが、それから次第に佑里が僕の部屋に訪れる回数が増え始めた。今まで多くて週に二日程度だったのが、三日、四日と増えていき、場合によっては一週間毎日来た週もあった。
その頃から、僕は妙な違和感を感じるようになり始めた。
「なんか変じゃない」
いつものように佑里を自宅前まで送って帰ってくると、僕はどうしても違和感が拭えず志野ばあちゃんに相談した。
ばあちゃんは台所に立って後片付けをしていた。蛇口からほとばしる水の音を聞きながら、僕は畳に胡坐をかいて座る。
「なんがね」
「佑里がさ、ここんとこ変じゃないかな」
「どげんふうに?」
どげんふうに? と訊かれると困る。僕自身直感でそう感じただけで、佑里のどこに違和感を感じているのか自分でもわからない。見た目はまるっきり元気だったし、悩んでいる様子もとくに感じない。でも明らかにいつもの佑里とは違うのだ。これは、志野ばあちゃんが鈍感だからわからないのではなく、僕が双子特有のなにかを佑里から感じ取っているせいかもしれない。
とりあえず僕は気がついたことを話してみることにした。
「だってさ、佑里がこの部屋に来るのなんて今までほとんどなかったんだよ」
「そりゃあ」台所から水音が消えた。ふと目だけ台所に向けると、ばあちゃんは後片付けを終え、濡れた手をタオルで拭っていた。「あんたの部屋が汚かったけんやろうもん」
「……まあそれもあるだろうけど、それにしたって変だよ。ここに来る回数も多いし、土日なんて毎回だよ」
勉強に付き合わせている僕が言うのも変な話だが、こんなに僕の家に訪れいて佑里の交友関係が成り立っているのか心配になってくる。口下手な上に引っ込み思案で、佑里も決して友達が多い方ではない。両親が離婚してからというもの、輪をかけたように塞ぎがちになり、友達もめっきり減ったようだった。
それに、時折見せる寂しそうな表情が引っかかる。
「佑里ちゃんは大丈夫さ」
ばあちゃんが僕の横に座った。
「大体、あんたは人のこと心配しとる場合じゃなかろうもん」
「そうだけど」
期末テストはもう間近に迫っている。本当ならばあちゃんの言うとおり、妹のことを心配できる立場ではないのだが、僕にしてみれば母親の胎内にいた時から一緒にいる、言わば僕の分身だ。簡単に割り切れるものではない。
「まあそげん言うとやったら今度直接本人に訊いてみればよかたいね」
とばあちゃんは言うけれど、それができていれば苦労しない。双子と言っても僕らは二卵性なので全てが似ているというわけではない。まあそれでも、普通の兄妹よりは考えは似ているし、いろいろと好みも合うのだけれど、悩んでいることまでは以心伝心というわけにはいかない。悩んでいるのなら言ってもらわなきゃわからないし、こちらから悩んでいるのか、と訊くのも兄としては気恥ずかしいのだ。
仕方ない、あいつから相談に来るまで待つしかないか。
僕は足を伸ばして横になった。
「行儀の悪かね」
志野ばあちゃんがぴしゃりと僕の額を叩いた。