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 五月中旬に突入した頃から、学校は高校総体一色に染まっていた。この時ばかりは志野ばあちゃんへの注目の目も冷め、お祭り気分へと変わる。

 運動部に属している誰もが自分を物語の主人公に置き換え、無理と知りつつインターハイ出場とか、全国制覇なんて目標を掲げている。練習の時間も大幅にアップし、運動部は汗水垂らして練習し、演奏学部は応援曲を放課後遅くまで鳴らしていた。

 生徒会や先生たちも会議の毎日で、佑里も慌ただしく教室と生徒会室を行ったり来たり廊下を走り回ってる模様だ。

 野球部は、夏の甲子園への切符をかけての地区予選がメインだったが、それでも他の部と同じように練習時間を増やし、志野ばあちゃんもすっかりマネージャー業に専念して帰りが遅くなった。

 なんの部にも属さず、生徒会でもない僕だけが定時に帰宅し、志野ばあちゃんの帰りを待つ役目だった。最初は久しぶりの一人だけの時間が嬉しくてゲームをしたり、エロDVD鑑賞をしたりして時間を潰していたが、一週間も過ぎるとそれらにも飽きて暇になっていた。

 変な話だ。今までならゲームに飽きるなんてなかったはずなのに。


 六月初旬、高校総体は無事に開会した。

 大会が始まり、各部活動がこの一年間の成果を披露する。うちの学校は中学校から体育推薦を確保するような名門校ではないので、結果は予想通りのものだったが、それでも応援する方の身としては熱が入った。なによりうちの学校は志野ばあちゃんのお陰でマスコミにいろいろと取り上げられいて、他の学校にも別の意味で注目を集めていたようだ。うちの制服を着た生徒が歩くと、別の学校の生徒がジロジロと見ているのがわかる。

「すげぇ、志野ちゃん効果だよ」

 うちの生徒がそう言って、ナンパに成功したと自慢するのが聞こえた。

 僕はどうせその効果もあと三、四ヶ月したら効力を失って捨てられるのがオチだ、と心の中で毒つく。が、一ヶ月だと予想していたのが最長四ヶ月まで伸びたのは、心のどこかで自分に保険をかけているからだ。このままばあちゃんが池上高校のマスコットとして三年間過ごし、卒業したら一躍テレビに出て有名人にでもなってしまうという無茶苦茶な展開になっても冷静を保てるように心の準備をしておく必要がある、と。

 まさか、と首を横に振ってはみるものの、志野ばあちゃんの態度を見ているとあながちない話ではないよう気もして怖い。

 大会が後半に差し掛かると、大半の部が応援側に回っている。うちの学校で生き残っているのは女子バスケットとテニスのダブルスだけだった。ほとんどが一回戦負けし、奇跡的に二回戦に進んだ部も運だけで三回戦に進むことはできなかったようだ。

 高校総体の間、僕は大会の行われている会場に行くと、出席を取り、適当に応援して家に帰るという生活を送っていた。自分の通う学校の選手がいない試合を見ても面白くはなかったし、それで許されていたのだ。ようは出席さえ取っておけば、応援しなくても欠席扱いにはされなかった。

 そのせいもあっていつにも増して僕は時間を持て余していた。十二時過ぎにはアパートの部屋に着き、志野ばあちゃんの作ってくれた弁当を食べても、たっぷり時間が余る。志野ばあちゃんは野球部の練習で、このところ帰りは七時過ぎなので、六時間近くも一人で過ごさなければいけないのだ。遊びに出掛けるにしても信吾は野球の練習だし、佑里は生徒会なのでどうしても高校総体の応援に最後までいなければならない。他にも数人親しい友人はいたが、三年に進級してからというもの色々あって交友関係がなくなっていた。

 大会五日目。

 出席を取って帰ってきた僕は昼のワイドショーを見ながら志野ばあちゃんお手製の弁当を食べ終えると、おもむろに立ち上がり、帰ってきて早々に着替えた学生服に再び袖を通す。制服はまだ汗が乾ききっておらず少し冷たい。

 学校に行ってみようと思ったのは、とくに目的があったわけではない。ただ、家の中でゲームをしているよりは有意義な時間を過ごせると考えたからだ。

 バスに乗って二十分程度で学校に着くと、グランドから威勢のよい声が響いてくる。その声に引き寄せられるままグラウンドに向かう。

 名門チームに比べると決して大きくはないグランドで、バッティングと守備の二手に別れて野球部が練習している。大袈裟に言うわけではなく、熱のこもった練習風景だ。運動が得意ではない僕には到底真似できるものではない。グランドの周りを見回すとちらほら他にも観客がいるため信吾に気づかれる心配はなさそうだが、一応気を使い木陰に隠れて見学する。

 小さなグランドに、部員数も多くはない。すぐに信吾を見つけることできた。守備練習でノックをしているのがそうだ。キャプテンらしく回りに指示を出しながら、金属バットを振っている。

 でもまあ、素人目線でも守備の下手さは一目瞭然。エラーしているとかではなく、たどたどしいというのだろうか。連携が取れてない。まるで昨日今日野球を始めたと言わんばかりの連中が揃っている。これで本番は大丈夫かと心配するよりも、このメンバーをまとめなければいけないキャプテンの気苦労の方が気にかかる。

 信吾もさすがに見切りをつけたのか、ノックするのを止めてユニホームの袖で汗を拭っている。

 と、汗を拭う信吾と目が合った。

 おっ、とお気に入りの玩具を見つけた子供のような笑みを浮かべ、すぐさま、ちょっと頼む、と守備についていた部員にバットを託して、僕の元に駆け寄ってきた。

「珍しいな。一人家で待ってるのが寂しかったか」

 にかっと白い歯を見せて笑う。

「ち、違うよ」

 ちょっとうろたえてしまったのは、当たらずとも遠からずだったからだ。そんな僕を見て、信吾は、キヒヒと下品に笑う。

「見学なら中に入ってこいよ」

「え、いいよ。邪魔になるだろ」

「別に構わないよ。今守備の練習してるのは一年の補欠連中なんだ。俺たち三年が卒業したらこの野球部を背負うのはあいつらだからな、今のうちにしごいてんの」

 なるほど、守備が下手だったのはそういう理由か。しかし、

「だったらなおさらちゃんと練習しろよ」

 既に信吾が離脱した野球部は練習せずにこっちを見ている有様だ。完全にキャプテンに依存しているのだろう。それくらい信吾がこのチームの柱になっているのは友人として誇らしく思う反面、こいつの不真面目な部分も知っている僕としてはちょっと心配になってしまう。

 キャプテンの自覚なんて僕が熱弁するまでもなく理解しているはずの信吾も、ちょっと気を抜くとすぐに練習を脱線する癖がある。

 案の定、

「そうだ。孝幸も練習に付き合えよ」

 と突拍子もない提案をした。

「はぁ?」

「どうせテレビゲームばっかりで体鈍ってるんだろ」

「やだよ。運動オンチなの知ってるだろ」

 信吾と知り合った頃、よく野球に誘われた。最初の頃こそ積極的に参加していたのだが、親父の遺伝子を忠実に受け継いだ僕は極度の運動オンチで、散々エラーした挙句、チームを負けに導いては迷惑をかけていた。結果、いつからか慎吾の誘いを断り、中学の部活にも入らず現在に至る。

「まあそう言うなよ。才能なんてどんな奴に秘められてるのかわからないものだぜ」

「お、おい」

 強引に手を引っ張られ、グランドに引き込まれる。部員と他の見学者の視線を痛いほど感じる。その視線が好意の目ではないことはわかっている。みんな僕が志野ばあちゃんの孫だということを知っているのだ。みんなに慕われている志野ばあちゃんと、落ちこぼれの自分を比較されているようで嫌な気分だ。

 志野ばあちゃんは、屋根のついたベンチに座っていた。ジャージ姿で左手にノート、右手にボールペンを握っている。マネージャーと言えば聞こえはいいが、一見すると生徒に馴染もうと無理に練習に参加している校長先生のようだ。

「あら孝坊、どげんしたとね」

 僕の顔を見るなりばあちゃんが驚いた顔をする。僕は「別に」と答えて隣に座った。

「なんね、独りで寂しかったとやろ」

 顔にでも出ているのか、信吾にしろ志野ばあちゃんにしろ僕の心情をズバッと言い当ててしまう。強がって、

「なわけないじゃん」と主張するが、嘘であることすら見抜いているようで、ばあちゃんにも、あはは、と笑われた。

「なあ、孝幸」

 ベンチに座ったばかりの僕に、信吾がバッドとグローブを突き出した。

「どっちにする?」

「いやいや、やらないよ」

 手を振って拒否するものの、状況を飲み込んだばあちゃんまで、

「やってみらんね。楽しかば」とはやしたてる。

「やんないって」

 つっけんどんに言って、頬杖をついて練習風景を眺める。

 球拾いくらいになら手伝ってもいいが、そこまで切羽詰った状況でもないだろう。部員数十八人。マネージャは志野ばあちゃん一人。顧問は誰だったかな、思い出せないが練習に顔を出していないところを見ると、あまり熱心に取り組んではいないようだ。その辺は信吾のほうが詳しいせいで顧問としての威厳が保てないせいもあるのかもしれないが。

「なあなあ、どっちにするんだよ」

 そんな顧問の仕事を奪った張本人は、お遊びモードに突入してしまっている。

「やらないって。つーか練習しろよ」

「練習よりも遊びたいんだよ、俺は!」

「おお、ぶっちゃけたな」

「孝坊、信吾君と一緒に遊んでやらんね」

「いやいや、練習中ですが?」

 その間も練習は中断したままで、まるで僕が練習を妨げているみたいだ。こんなことになるんだったら学校になんて来るんじゃなかったな、と後悔しても時既に遅し、だ。

「先輩、指導お願いします」

 痺れを切らした部員の一人が助け舟を出してくれた。

「ほら、早くいってやれよ」

 ちゃっかり助け舟に乗るかたちで、信吾を促す。

 が、お遊びモードの信吾もなかなか手ごわく、

「よし、今から悪い方の見本を見せてやるからな」

 と僕の腕をがっしり掴んだ。

 やめろよ、と手を振りほどこうとした僕の言葉を遮り、

「追試の時に助けてやったよな。あの時の借りもまだ返してもらってないんだけどなぁ」

「汚っ!」

 あの時の借りをこんなことに使うのかよ。けど、いかんせん反論できない。確かにあの時の借りはまだ返していないし、恩は感じている。

 その言葉を承諾と認識したのだろう。

「きしし。恩は売っとくもんだな」

 信吾の顔はいつになく悪人の顔をしていた。

「使い方が間違ってると思うけどな」

「いいけん、はやせんね」

 と志野ばあちゃんに背中を叩かれ、悪い見本を野球部員に見せることになった。

 のろのろと重たい腰を上げる、あの時の恩がこれぐらいで済むのならラッキーだと諦めるしかなかった。

「で、どっちにする」

 ニヤニヤ笑いが妙に腹立たしい。

 僕はため息をつきながら信吾の両手にある野球道具をじっと見比べた。正直、どっちも自信はない。信吾の誘いを頑なに拒んでいたのだって、ただ単に人前で羞恥プレイすることが嫌なのではなく、あまりにもお粗末なプレイをしてドン引きされることが怖かった。せっかく無様な状態を見せるのなら、せめて笑ってもらいたいというのが本音だ。

 返答に困っている僕を見て、信吾がバットとグローブを見比べてから、

「やっぱりバッティングだよな」

 とバットを突き出した。

 くそ、もうどうにでもしてくれ、と学ランを脱ぎ、カッターシャツを袖捲くりする。

「格好よかよ。孝坊」

「うん、ちょっと黙っててくれる」

 やるからには集中したい。

 こっちこっち、とバッティング練習をしている中に連れて行かれ、やってみろ、と説明もないまま促される。

「みんな見てろ。打てる選手のプレイを参考にするのも大事だが、下手な奴のプレイを見て自分を見つめなおすのも大事だからな」

 こういうとこだけキャプテン面されてもな。しかも、自分が楽しみたいだけなのに理由がもっともらしいことがさらに腹立つ。

 キャプテンの一言でみんなの注目が一気に集まった。

 うちの学校にピッチングマシーンなどという高価なものがあるはずもなく、数メートル先には信吾と同じユニホームを着た男子が立っている。去年の秋予選でも投げていたので顔は覚えているが、確か僕らの一学年下で二年生のはずだった。でも僕よりも身長がずっと高い。わざわざ帽子を脱いで一礼する辺り、生真面目な感じが伺える。僕も倣って会釈し、バッターボックスに立つ。

「頑張らんばよ」

 後ろからしっかり付き添っていた志野ばあちゃんが声援を送ってくるが、答えている余裕はない。金属バットを持たされた瞬間から、僕の心臓はバクンバクンと脈打ち、呼吸も少し荒くなっている。もともと人前でなにかをすることが苦手なせいもあるが、金属バットの重さがさらに緊張を増徴していた。

(バットをまともに振るのなんて何年ぶりだろう)

 野球なんて小学校以来ろくにやってない。漫画に影響された空手もすぐに挫折したし、スポーツに関しては才能がないと早急に諦めてしまった。もし、下手なりに続いていたらここにいるみんなが仲間だったのか思うとちょっと損した気分になる。

 一度、その場で振ってみる。重心が移動すると同時にバランスを崩してよろける。

 信吾の指摘するように、ゲームに明け暮れた僕の身体は、齢十八にして衰え始めているようだ。

「な、足腰が出来上がってないとバットに持っていかれるだろ。あれだと理想のフォームにならないんだよ」

 僕を図に、後輩たちに解説が始まっている。解説している時の信吾はすっかり野球部キャプテンの顔をしていて、自分でもちょっとは役に立てていることが腹立たしいが、嬉しくもある。

 こんなことさっさと終わらせたい一心で、見様見真似で構えてみる。

 実際、野球には興味があった。子供の頃から信吾に洗脳されただけのことあり、野球のテレビ中継はたまに見るし、ゲームの野球ソフトは何度かプレイしたことがある。ルールは人並みには把握しているつもりだし、面白いとは思う。けど、それはプレイヤーとしてではなく、あくまで観戦のみの意見だ。

「おお、神主打法か!」

 信吾が感心したように声を上げたが、カンヌシダホウがどういう意味なのか当然わからない。後で、僕のバットを持った構えがそう呼ぶのだと教えてもらった。だけど、その構えをしたのは当然ながら偶然だ。

「準備はいいか?」

 促され、首を縦に振って応える。

「よーし、工藤投げてくれ」

 信吾がピッチャーに合図を送る。今度はピッチャーが大きく頷いた。それからゆっくりした動作で両手をかざし、左足を上げる。恐らく百七十センチ強はある身長から、さらに真上に振り上げた右手からバネでも弾くように白球が振り下ろされた。

 次の瞬間、ズドン! という激しい音に続いて、背中にシュルシュルと摩擦音が響いた。

「え?」

 驚いて振り返った時には、金網の真下にボールがてんてんと転がっていた。

(もう投げたの)

「おーい、バットを振らなきゃあたるわけないだろ」

 金網越しに信吾が鼻の頭をかきながら呆れた口調で言う。

「知ってるよ」

 僕は耳を真っ赤にして深呼吸した。

 後ろから、

「ちゃんとせんね」

 と志野ばあちゃんの声。

「そがん球、私でも打てたば」

(嘘つけよ……嘘、だよな)

 こんな球をばあちゃんが打てるはずがない。

 真っ白な線が目の前を通り過ぎていくのを確認している間には真横を横切ってしまい、バットを振るタイミングなんてなかった。

「ほんと、ほんと、そんなのうちのマネージャーでもかするくらいはしたぞ」

 続けるように信吾が言った。

「……まじで」

 思わず口に出た言葉とともに、冷や汗が額を流れる。

 あの球をばあちゃんが打った? いやそれ以前にバットを振っている姿が想像することすら困難なのに。

「孝幸君ってぇ、そんな球もぉ打てないんですかぁ」

 トドメに、誰の真似をしているのかわからない女口調で小ばかにすると、その場にいた全員がクスクス笑い出す。

「お前なぁー」

 だけど、信吾のその言葉が僕のやる気に火を付けた。

(前に飛ばなくてもいい。とにかく当ててやる)

 信吾の言葉以上に、志野ばあちゃんに負けることだけは許されない。恐らく、今後の学園生活において僕が勉強で志野ばあちゃんに勝つことはありえないだろう。すっかり優等生組みに名を連ね、友人の数も先生達の信頼も絶対的に負けている。唯一、勝てそうなのが運動だけなのに、それすら負けを認めてしまえば僕のないに等しいプライドが埃へと変わってしまう。ライバルが自分の祖母だというのも情けない話だが、僕はめったに見せない本気モードになっていた。

 バットをしっかと握り締め、ピッチャーをキッと睨む。長く持っていた柄の部分を短く持ち直す。昔テレビで短く持った方が飛距離は出ないがボールに当たりやすくなるとプロのOB選手が言っていたのを思い出した。飛距離なんてどうでもいい。意地でも当ててやる。人生の四分の三を過ぎた年寄りが打てる球じゃないか。僕に打てないはずがない。そうやってたっぷり自己暗示をかけて自分に自信をもたせる。

「行きますよー」

 合図が送られる。

 僕は大きく頷く。

 ピッチャーが先ほどとまったく同じ動作でボールを放った。

 ボールをしっかりと見て、いっぱいに溜め込んでから左足で大地を踏みしめた。体をひねり、その勢いでバッドを回す。かきーん、という鈍い金属音と同時に、両手に手ごたえを感じた。

「当たった!」

 見上げると、当たったボールはフワフワと上空を舞い、グラウンドの数十メートル先にポトリと落ちた。五十メートル、六十メートルは飛んだだろうか。しっかりと前に飛んでくれた。

「お、打ったよ」

「二球しか見てないのに」

 打てたことが余程意外だったらしく、練習もそっちのけで余興を楽しんでいた面々から疎らな拍手が送られる。でも、そんな賞賛には気にも留めず、勝ち誇った顔で僕は志野ばあちゃんの方に振り返った。どうだ! と言わんばかりの顔を見せると、ばあちゃんよりも先に信吾が反応した。

 強張った表情で下唇をギュッと噛み締めていたかと思うと、耐え切れずプッと吹き出した。

 満面のドヤ顔から、眉がピクッと反応する。

「なんだよー」

 ムッとして訊いた。

 確かに僕の打球は前に飛んだものの実際には内野フライもいいところだった。だけど、僕にとって大事なのはヒットかアウトではなく、ばあちゃんに勝ったことだ。志野ばあちゃんが当てることしかできなかったボールを、僕は前に飛ばしたのだ。それだけで孫として、男としての最低限のプライドは保てたはずなのに、信吾はいつもの小ばかにした表情で笑っている。

「なにが可笑しいんだよ」

 ともう一度追求すると、信吾はほころぶ口を手で隠しながら、もう片方の手で謝るポーズを作った。

「いや、悪い悪い。孝坊があんまり可愛いからさ」

「孝坊って言うな!」

 頬を膨らませ、めいいっぱい怒りをアピールしたが、怖さよりも幼さが強調されたようで、収まりかけていた笑いが再び復活して、ついには大声で笑い出した。

「いいかげんに説明しろよ」

 ついさっきまで工藤という後輩の球を打てて気分がよかったのに、今はもうすっかり冷めてしまった。信吾が僕を笑うのは、たいていからかっている時なのをこれまでの経験で嫌というほど味わっている。

 たっぷり笑った後で、目じりの水滴を手で拭いながらようやく一息ついた。

「いやぁ面白かったぁ」

「だからなにが」

 僕はしつこく訊いた。

「あのさ」

 と、ようやく信吾が口を開いた時には、先程まで余興を楽しんでいた部員も、もう練習に戻っていた。その場にいるのは僕と、信吾と志野ばあちゃんの三人だけだ。

「嘘なんだ」

 少しも悪ぶれた顔もしないで言った。

「は?」

「だから、さっきうちのマネージャー、って言うか志野ちゃんが工藤のボールを当てることできるって言ったろ。あれ、嘘」

「ハァ!」

 驚いてばあちゃんの方を向くと、苦笑いを漏らし、

「バットば持つこともできんかったとよ」

「……お前らなぁ」

「それなのに孝幸がムキになるからさ」

 くそ、またこれだ。まんまとしてやられたわけだ。

(ったく、こいつは)

 殴ってやろうかと思ったけど、やめた。からかう相手に怒りを覚えるより先に、こんな手口に引っかかった自分に呆れ果てる。嘘だと疑っていたはずなのに、最後にはまんまと騙される。自分のことながらあまりのお人好しぶりに将来が心配だ。

「まあよかったじゃん。工藤はうちのエースだぜ。それを一回振っただけで当てるんだからたいしたもんだ。ちゃん練習すれば地区予選までにはレギュラー狙えるんじゃないか。な、一緒に甲子園目指そうぜ」

 結局、行き着くところはそこだ。

「アホ」

 反論する気にもなれず、呟くように言うと、バットを信吾に渡してベンチに戻った。

 信吾もそれ以上要求するわけでもなく練習に戻り、さっき僕が必死で当てた工藤君の球を軽々打っている。

 僕は、自分の手のひらを見つめた。まだ打った時の感触が残っている。金属で硬球を叩いた時の振動がそのまま手の震えに繋がっていた。ボールが上がったことを考えると芯に当てたというよりかすったに近いかもしれない。

「やってみたらよかたいね」

 不意に、志野ばあちゃんが言った。

「やってみたらって、野球を?」

「それ以外になんがあっとね。信吾君も言うとったたいね。いつも家でごろごろしとるよりは外で野球に打ち込んでみるのもよかよ」

「……」

 僕はなにも言わなかった。信吾が僕を評価し、野球部に誘われたのは素直に嬉しい。だけど、信吾の言葉をそのまま鵜呑みにするほど僕も馬鹿ではない。

 小学生の頃から一日も休まず練習に励み、それでも毎年一回戦で敗退している姿を間近で見てきているのだ。野球がそんな簡単なものではないことくらいは知っているつもりだ。さっき一回当たったのだって百パーセント奇跡だし、これから先、何百回バットを振ったところで工藤君の球を僕が前に飛ばすこことはないだろう。

「今度こそは初戦は勝ってほしいな」

 練習を見つめながら、ポツリと呟く。

 素人目ながら、エースである工藤君の放るボールも、四番を担う信吾のバッティングも悪くない気がする。これなら、と思わず期待してしまう。

 それなのに、

「野球はやっぱり九人でするもんやけんね」

 僕のひとり言に付き合うように、ばあちゃんが言った。

「どういうこと?」

「信吾君は凄かと思うとよ。けどね……」

「他がだめってこと?」

 ばあちゃんはうんともいやとも言わなかった。

 だけど、今までがずっとそうだったのを僕は知っている。中学時代から、信吾だけが一人で頑張り、他の八人が足を引っ張って負けるという試合を何度も見てきた。毎日汗だくになりながら練習しているのに、信吾の努力が報われたことは一度としてない。実力はあると思う。野球に詳しいわけではないけれど、練習を見ていればわかる。他の部員よりも信吾の動きはぐんを抜いて鮮やかだった。名門校ではなくて、もう少し野球に力を入れている学校に通っていれば、今頃注目の選手になっていたはずだ。

「まあ、勝負は時と運やけんね」

 その言葉が僕へのフォローのつもりだったのか、それとも自分に言い聞かせるためだったのか。多分、野球部員全員が自分にそう言い聞かせているのだろう。弱小池上高校が勝つシナリオ。甲子園出場なんて大それた夢ではなく、一つでも二つでもいいからこのチームで長く野球を続けたいという願いのために。

「でもばあちゃんって野球に詳しいんだね」

 意外だと言わんばかりに僕は言った。読書好きは有名だったけど、野球が好きだなんて初耳だ。家でも野球中継なんて見ないし、話題にも出さない。だから野球部のマネージャーになったと聞かされた時はまたなんの冗談だと自分の耳を疑った。

 志野ばあちゃんはにこっと微笑んだ。

「じいさんが大学生の頃やっとったけんね。信吾君みたいにうまくはなかったけど、まだそがん野球ばやいよる人もおらんかったけん、試合には出とったってね。その度にお弁当携えて応援に行ったもんさ」

「じいちゃんが」

 それこそ意外だった。僕の中でじいちゃんがスポーツをしているイメージがまるで想像できない。

 練習風景を眺めながら、気づくと空はすっかり赤く染まっていた。

「ぼちぼと切り上げるか」

 信吾と一声で部員がぞろぞろ後片付けを開始する。

 僕も、ちょっとくらいは手伝った方がいいかなとベンチから立ち上がり、信吾に指示を仰ごうと彼の元へと向かう。

「なんか手伝うことあるか」

 ふと見ると、信吾は体中から吹き出した汗に砂が密着して泥だらになっている。

「おお悪いな」

「うわっ、汗臭っ!」

「あはは、運動部なんてこんなもんだよ。夏になったらさらにだぞ」

「ないわー。運動部に入らなくて正解だった」

 ちょっと茶化した言い方をしたのは照れ隠しもあった。今さらこの中に僕が入る余地なんてない。ここにいるのは放課後ユニホームが汚れるまで練習してきた奴ばかりなのだ。上手下手の問題ではない。今までゲーム三昧だった僕が友人のコネで簡単に入部していいものではないのだ。

「臭いでだめとか乙女かよ」

 今度こそ信吾の努力が報われてほしいと、切に願った。

 信吾が三年間かけて育てた立派なチームが、歓喜する姿みたい、と。

 翌日、高校総体は無事閉幕した。

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