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三年生になってから、約一ヶ月が経過した。僕は去年までと同じように授業を受け、昼食を食べ、午後の授業は先生の説明をBGMに居眠りした。放課後は家に直行するか、佑里が暇な時は途中まで一緒に帰ったり、野球部の応援をした後、信吾を誘って寄り道して帰ったりもした。
この一ヶ月は、今までとなんら変わらない学園生活のはずだった。
それなのに、僕の周りはやけに騒がしかった。この一ヶ月、必ずどこかで志野ばあちゃんの名前を耳にしたからだ。
最初はみんな戸惑っていたのに、一週間もしないうちにばあちゃんはみんなの中に溶け込んだ。学校側や、みんなが気を使ったわけではない。ばあちゃんからみんなに溶け込んでいったのだ。それは恐ろしく違和感を感じさせなかった。見た目のギャップはどうしようもなかったものの、内面に関して、志野ばあちゃんは誰が見ても高校生になりきっていた。どのカフェのケーキが美味しいだとか、カラオケに行けば流行りのアイドルグループの歌を振り付けつきで歌えたし、人気のドラマやら漫画を欠かさず見ては教室で感想を発表していたらしい。たまにクラスメートの女子生徒を家に呼んでは僕を喜ばせてくれたこともある。そうして、風変わりなその生徒をみんなが仲間と認め、晴れてばあちゃんは池上高校の一員となった、
見た目の面白さが手伝ったのは言うまでもない。同い年の集まりの中に、先生でもないのに年寄りがいるのだから、平凡な高校生活に、ある意味で新鮮さを生んだのも頷ける。
でも、僕は四釜志野の名前を耳にするたびに気が気でなくなった。志野ちゃん(志野ばあちゃんはみんなにそう呼ばているらしい)が小テストで百点取ったとか、歴史の授業で先生よりも詳しく説明したとか、体育の授業が行われては千メートルを何分何秒で走っただとかが伝言ゲームのように一年から三年生まで広まっていく。その中には伝言ゲーム特有の付け足しや排除が行われたりで、三年に噂が広がるまでにはデタラメもいいところの話が仕上がっていることが多かった。
はたから見ていたらアトラクションにあるマスコットキャラクター扱いだった。休み時間になるたび志野ばあちゃんの話題で持ちきりになり、見かけると幸せになれる、というジンクスまでついには作られていた。
僕はこの現象を徹底的に無視することにした。ばあちゃんのすることにいちいち構っていたら、たちまち胃潰瘍になって入院ものである。
誰かが志野ばあちゃんの話にきても、もう聞いたよ、と言ったり、別に興味ないから、と絶対耳に入れなかった。そうすることで、みんなの関心を志野ばあちゃんから逸らそうと試みた。
しかし、どうせ一ヶ月もすればみんな飽きるだろうと踏んでいた僕の考えはものの見事に外れた。ばあちゃんの学園生活をTVニュースなんかで何回も取り上げるため、どうしても注目が集まってしまう。一番僕が驚いたのは、放課後に学校関係者以外の人が校門で待ち伏せているのを見た時だ。
(たかがばあちゃんだぞ、わざわざ見にくるなよ)
まるでアイドルそのものだった。
それに付け加えてばあちゃん本人が適度にネタを提供することもみんなの興味がなくらない理由の一つだった。本人自身にネタを提供しているという自覚はないのだろうが、まさかの野球部マネージャに立候補したり、五月最初の中間テストで学年一位を取ったりと、例を上げたらキリがない。退屈な学園生活に志野ばあちゃんの行動は斬新らしく、それがみんなの心を惹きつけていた。
そうしてその頃には僕が志野ばあちゃんの孫であることがバレていた。いつだれが発見したのかは不明だが、一年生からどうやら彼女の孫がいるらしい、という噂が広まり、二年生、三年生と噂が広まる頃には僕の名前が特定されていた。噂を広めた犯人がばあちゃん本人である可能性は否定できないが、証拠がない以上文句も言えない。そして、事実である以上、否定することもできなかった。
「ああ、そうだよ」
クラスメート男女合わせて十四、五に囲まれたため、仕方なく認めた。
「なんだよ、だったら教えてくれよ」と言ったのはたいして親しくもない男子だ。
「えー、そうだんなぁ。羨ましー」
と驚いた女子も、クラスメートということ以外関係の奴だった。
「てっきりみんな知ってるものだと思ってたから」
僕はしたたかに言い切り、その他の質問は一切受けなかった。一緒に住んでいるのかとか、家ではどんな感じとか、なんで高校生になったのとか聞かれたけど、全部、さあね、で押し切った。
そうして学校が終わってようやく質問攻めから開放されたかと思うと、家に帰れば志野ばあちゃんが待っている。
一緒に暮らすようになってからというもの、一人暮らしをしていた時とは比べものならないほど部屋が綺麗で清潔に保たれていた。これは志野ばあちゃんのお陰といわざる得ない。他にも、食事はたいていコンビニのお弁当かファーストフードで済ませていたのに、約三年振り手料理というものを口にした。元来和食党の僕にとってはありがたい話だ。毎日洗われる洋服類。水アカが溜まっていたお風呂の変わりよう、隅に並べられた雑誌の山が本棚に収まり、部屋が広く感じる。ここは本当に今ままで住んでいたあのぼろアパートかと疑いたくなるほど綺麗に模様替えされた。
僕が心配していた――部屋が漬物臭くなるのではないかとか、エロ本等が捨てられるのではないかとか――問題は空想に終わった。志野ばあちゃんは部屋で漬物を漬けなかったし、エロ本は捨てずに取っておいてくれた。ばあちゃんいわく、僕の年の健全な男はみんなエロ本を読んでいるらしい。それが正論か、偏見かは考えないことにした。秘蔵のエログッズが捨てられなかっただけで感謝だ。
結果的に志野ばあちゃんとの同居は予想に反してうまくいっていた。
結果的に、だけど。
信吾いわく、野球のピッチャーは結果がよければ全てがよいと言うわけではないらしい。監督によっては結果に至るまでの過程を重視をする人だっている。つまりはそういうことだ。僕は過程を重視する。いくら部屋が綺麗になろうが、毎日美味しい手料理が食べられようが、志野ばあちゃんとの生活は苦痛でしかなかった。一人暮らしをそこそこ気に入っていたし、今まで年に二回会う程度の付き合いしかなかったばあちゃんとどんな風に接すればよいのか考えただけでやりづらい。住み慣れたはずの部屋が友達の家に泊まりにいった時みたいに居心地が悪かった。
一方的に志野ばあちゃんが喋る以外が、ほとんど僕は無口だった。もともと自分から率先して話を切り出す方ではないし、六十過ぎの年寄りと共通した話題なんて多くない。たいてい共通の知り合いである佑里のことか、信吾の話題ばかりだったが、もともと僕の親友であった信吾の名前が志野ばあちゃんの口から発せられるたび、僕は嫉妬に近いものを感じた。
そして、もっとも苦痛なのは朝だ。
心地よく眠っている身体を揺さぶられ、強引に起こされる。もう少し寝させてよ、と主張しようものなら、
「早う起きんね!」
と朝っぱら怒鳴られて目を覚ますことになる。最悪なのは目を開けた瞬間。しわくちゃの顔が目の前に現れる。エイリアンでも襲ってきたのかと驚いて悲鳴をあげると、静かにせんね、と頭を叩かれる。
時計を見るとまだ六時だった。
「なんなんだよこんな時間に」
シャツの上から腹をかきながら、僕は愚痴るように言った。
「散歩たいね、散歩」
「散歩? 勝手に行ってきてよ。僕は夜中の三時まで起きてたんだから寝かせてよ」
と言っても聞いていてもらえる相手ではない。
仕方なく朝っぱらからばあちゃんの散歩に付き合わされる。場所はアパートの周りをぐるりと周るだけなので、時間にして三十分程度だけど、僕にとってはその三十分がいかに貴重なものか。散歩をするくらいなら眠ってたい。
そうして睡眠不足の僕は学校に着くと一時限目から居眠りをして先生に怒られることになる。
「そんなの孝幸が夜遅くまで起きてるから悪いんじゃん」
愚痴をこぼした僕に、そう言ったのは佑里だ。
久しぶりに生徒会の呼び出しがなく、一緒に帰った日のことだ。
「しょうがないだろ。志野ばあちゃんと同居するようになってからは、ばあちゃんが寝てからしかゲームできないんだから」
「ならゲームしなければいいだけのことでしょ」
佑里にしては強い口調だったので驚いた。
「大体、孝幸は遊びすぎなんだよ。受験のこととか考えてる? 去年までとは違うんだからね。私や信吾君だって自分の勉強があるし、お兄ちゃんに付きっきりで勉強教えてあげられないよ」
『お兄ちゃん』という響きに無意識に顔を顰めた。佑里は計算して『お兄ちゃん』という呼び名を活用する。そう呼ぶことで僕を自覚させているつもりなのだ。
それにね――、僕が無言で歩く中、妹の非難は続いた。
彼女にしては妙に突っかかるなと思っていると、どうやら志野ばあちゃんを僕に取られた嫉妬が原因だったようだ。
「私だっておばあちゃんと一緒に暮らしたいのに、ずるい」
と頬を膨らませて言われた。
だったら引き取ってくれよ、と言いたくなる。一緒に暮らしてないからこの辛さがわからないのだ、と。
悩んだあげく、佑里の提案通りゲームをやめて早く寝ることにした。背に腹はかえられない。
夜、小さな部屋に布団を敷き、左の布団に横になる。しかし、時刻は夜の九時だ。小学生でもあるまいし、こんな時間から眠れるほど僕は器用じゃない。電気を消した真っ暗闇の中で僕の二つの目だけがパッチリと開いていた。目を瞑って眠ろうと努力はしたのだが、眠れない。何度も寝返りを打ち、その度に毛布から埃が舞っている。
「ねえ、ばあちゃん」
耐え切れず、隣で眠るばあちゃんに声をかけた。もちろん、ばあちゃんが起きているのを確認してから。志野ばあちゃんは寝る時は鼻息を鳴らしているので、その音で起きているのか寝ているのかがわかる。一ヶ月も一緒に住んでいれば、それぐらいの癖は見抜けるようになっていた。
「ん」
寝返りを打ち、僕の方を向く。暗闇にばあちゃんの顔が浮かぶ。小さな遊園地のお化け屋敷よりも怖いくて悲鳴をあげそうになる。僕は慌てて天井を見つめた。
「なんね?」
「なんでいまさら高校に通おうって思ったのさ」
いろいろあって今までうやむやになっていたけど、ずっとそのことが気になっていた。なんでいまさら高校生なんだろう、と。年寄りの暇潰しにしては時間の使い方が贅沢だし、道楽にしてもちょっと極端じゃないか。
「さあねぇ」
ばあちゃんはたっぷり間を空けて、おっとりした口調で話し始める。
「そりゃあこん年で数式なんて学んでも使い道はなかろうし、英単語一つ覚えたとこで役にはたたんやろうけどね。そいでも……」
「そいでも……?」
天井を見つめたままオウム返しする。
「学生っていうのば、一度はえんじょいしてみたかったとよ」
「はぁ」
僕には、ばあちゃんが言った意味がよくわからなかった。
「学校に行くなんて、孝坊にとっては苦痛かもしれんけど。行かんかったらそれはそいで恋しくなるとよ。私はほら、現役の時に行けんかった人間やけん。孝坊が私の年ぐらいなればわかるやろけどね」
さっぱり理解できない。
「ほら、早う寝んしゃい」
「うん」
言われるがまま、僕は再び瞼を閉じた。