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 正直なところ、僕は安堵していた。

 行きつけのラーメン屋《にく麺》でラーメンを啜る信吾と向かい合って、僕はことの事情を打ち明けた。

 打ち明ける時の不安の原因は、佑里には悪いがやっぱり恥ずかしい思いも手伝ってのものだ。実のところ信吾がどんなリアクションをするのか気になるところだったが、彼はつとめて冷静に状況を飲み込んだ。

「嘘じゃないよな」

 からかわれていることを想定したようだがすぐに「ないな」とぼそりと呟く。まあ、僕や佑里が誰かをからかうタイプじゃないことは信吾が一番知っている。この中で人をからかうのを専売特許にしているのは信吾だけだ。主にからかう相手は僕なのだけど。

「そっか」

 そう言うと、何事もなかったようにとんこつベースのスープを一気に飲み干し、それきりだった。その後は、野球部の監督の不満や、今年のペナンとレースの予想なんかを信吾がひとしきり話し終えると、満足したのか、

「じゃあ帰るか」と立ち上がる。

「お、おう」

 意を決して打ち明けた方の身としては拍子抜けするほどあっさりしていた。

 結局、佑里の「友達でしょ」という言葉通りというわけだ。案の定佑里を見ると「ほらね」と言わんばかりの顔で見つめている。

 途中まで一緒に帰った後、それぞれ解散して、今僕はアパートの階段を上っていた。思わず口元から笑みがこぼれる。自分がなぜあれほど怒り悩んでいたのか、不意におかしくなって笑ってしまう。まだ恥ずかしさ自体拭えない部分はあるし、志野ばあちゃんが僕らに黙っていたことへのもやもやした気持ちはあるが、数時間前のそれに比べれば随分浅い気がする。素直に打ち明けてよかった。あのままだったら今頃『退学届け』か『遺書』のどちらを書くかで悩んでいたところだ。

 足取りも軽やかに胸ポケットから鍵を取りながら、自分の部屋の前に到着した。自宅に着いたと思った瞬間、どっと疲れが押し寄せる。今日一日だけでいろいろありすぎた。こういう時一人暮らしの寂しさを痛感する。ドアを開けても「お帰り」を言ってくれる相手もいなければ、お風呂が沸いているわけでもない。暖かい飯が用意されているわけでもなく、右手に握ったお弁当の入ったコンビニの袋が寂しさを強調していた。今夜は夕飯後に友達から借りた秘蔵のDVDでも見ながら今日の疲れを癒すしかあるまい、と決め込んで鍵穴に鍵を差し込んだ。

 金属音の重なり合う音。

 次の瞬間、手元に違和感を覚えた。

「あれ?」

 なにかがいつもと違う。そしてすぐに気づいた。

(鍵が開いてる)

 鍵穴が家を出た時と左右逆になっている。思い違いでもなければ、閉め忘れなどでもない。それに関しては自信があった。炊事・掃除・その他もろもろ家事関係はからっきしだけど、戸締りや用心に関しては親父も公認してくれているほどの慎重派だ。だからこそ、高校生で一人暮らしなんて我侭を許していもらっているのだ。

(泥棒、だよな)

 真っ先に頭をよぎった単語に身震いする。

「いやいやまさか」

 こんな廃墟のようなアパートに泥棒なんて間抜けにもほどがあるだろ。実際親父が今月分の生活費を入れてくれるまであと二日もある。現在の全財産は財布の中にある千五十円と、部屋にある金目のものと言ったら趣味のゲームソフト数本に、夕食後に鑑賞しようと思っていた秘蔵のエロDVDくらいだが、それだって売ってもたいした額にはならないはずだ。とはいえ、鍵が開いていた理由を他に探しても思い浮かばない。

 恐る恐るドアに耳を当ててみる。鉄の冷たさが直に皮膚に伝わる。

 物音らしい物音はしない。

(よし!)

 ここで考えていても始まらない。僕は意を決してドアを開けることにした。

 なんとなく恐怖心はなかった。警察に通報しようと考えなかったのは、どうせもう中にはいないだろうし、いたとしても素人だろうと油断もあったからだ。プロの泥棒はお金のある家を見抜けるという。それでなくても僕の住むアパートは見るからにぼろくて、誰が見たってお金がないのは明らかだ。そんな間抜けな泥棒相手なら、小学生の頃に少しだけ習っていた空手程度でも通用するはずだと強気になっていた。

 ドアを回しながら深呼吸する。

(襲ってきたら返り討ちにしてやる)

 すっかりその気になった僕は、刑事物の映画でドアを蹴破って敵のアジトに乗り込むシーンを頭に描きながら、ドアを勢いよく開けた。

 キィーと鉄の軋む音ともに扉が開く。

 だけど、中にいたのは泥棒でも間抜けでもなかった。

「やっと帰ってきたば。遅かったたいね」

 そいつは、六畳の部屋の中央に正座して座っていた。窓から西日が差し込み、光が反射して顔を確認することはできない。だけど、そのしゃがれ声と、ひどくなまった方言には聞き覚えがある。

「志野ばあちゃん?」

 手で光を遮りながら、僕は中の人影を疑問形で呼ぶ。

「なんね」

 と人影が答えた瞬間、泥棒でなかったことにほっとするとともに、それ以上に緊張して言葉を失う。

 その人影が志野ばあちゃんであること既に明白だったが、なぜここにばあちゃんがいるのかという疑問と、どうやって? という謎が浮かんでこの現実を受け入れられない。まだ間抜けな泥棒がいてくれた方がどれだけ楽だっただろう。

 長い沈黙だったはずだ。

「ぼーっ、とつったとらんで入らんね」

「え、ああ。うん」

 志野ばあちゃんの言葉で我に返った僕は、言われるまま玄関で靴を脱いで部屋に上がった。

「おじゃま、します」

 と思わず言ってしまってから、ここが自分の部屋だと気づく。

「なんば言いよるとね。ここはあんたの部屋やろうもん」

「……だよね」

 言われるまでもなく、ここは僕の部屋だ。僕が主――実際には親父に家賃を払ってもらっているし、名義も違うけど――だし、この部屋にあるものは全部僕のものだ。鍵だってさっきポケットに閉まったものと佑里に渡した合鍵、それに一階に住んでいる管理人さんが持っているスペア以外はこの世に存在しないはずなのに。

「鍵は管理人さんに開けてもらったとよ。一応私が持ち主やけんね。孫が帰ってくる前に部屋を掃除しときたかって言ったらすぐに開けてくれらしたば」

 まるで僕の考えを見透かしたように、説明してきた。

「ふーん。で、なんでいるのさ」

 僕は冷静を装って返した。ここで慌てた態度をとったらばあちゃんに鼻で笑われそうな気がしたのだ。カバンを置き、電球の紐を引っ張って部屋に明かりを点してから、冷蔵庫からパックの牛乳を取り出してラッパ飲みする。

「あー汚なかね。ちゃんとコップに入れて飲まんね」

「うるさいな。ばあちゃんこそ質問に答えてよ」

 牛乳を冷蔵庫に戻し、学ランを脱いでハンガーにかける。家に帰るといつも行う一連の作業だ。いつもならこのあと、シャツとズボンを脱ぎ捨てて家着に着替えるのだが、まさかばあちゃんの前でパンツ一枚になるわけにもいかない。仕方なく長袖を捲り、半袖にしてから腰を下ろした。

「んで、なんでここにいるの?」

 ふと天井を見ると、弱々しい蛍光灯の光が六畳の部屋を照らしていた。カーテンの引かれていない窓は暗闇に変わり、気づくと時刻は七時を回っている。いつもならとっくの昔に帰宅して、夕飯とお風呂を済ませ、テレビを見ているかゲームに興じている時間だ。

「今日からこん部屋に世話になるけんね」

 天井を見つめていた僕は、不意にばあちゃんが言った台詞を聞き逃しそうになり、慌てて前を向いて「え」と訊き返す。

 西日がなくなったのでようやくばあちゃんの顔がはっきりと認識できる。

「わたしん家からじゃ学校に通うのに遠かやろ。こっちの方が便利やけんさ」

「……」

 僕は無言でばあちゃんを睨んだ。意図して睨んだわけではない(と思う)。勝手にそうなってしまっただけだ。だけど、無意識だろうが意図的だろうが結果は同じだ。さすがに鈍感なばあちゃんでも察してくれたらしい。

「なんね? ばあちゃんと一緒に住むとは嫌とね?」

(嫌だ)

 なにが嫌って、全部が嫌なのだ。もしかしたら部屋が漬物臭くなるんではないのかとか、ばあちゃんが家にいると友達も呼べなくなるし、もっとも心配すべきは『あれ』だ。僕も健全な十代の男子であり、それは一人になっていろいろやるべきことがあるのだ。第一、この部屋にはエロ本やエロDVDが無造作に置かれていて、僕の全てが露になっている。祖母と二人で暮らすにはあまりにも下品な部屋だった。

 僕が露骨に嫌な顔をしていたのか、ばあちゃんは、

「そげん嫌とね。あんたの父ちゃんにはちゃんと許可ばもらっとるば」

 あんたの父ちゃんときたものだ。それはつまり自分の息子ではないか。そりゃあ親父が反対する理由はないはずだ。息子に一人暮らしさせているよりは、祖母と一緒に暮らしていると説明した方が世間体もいい。万一問題が起きても保護者として出て行く必要もなくなるのだから。

「それってばあちゃんが学校に行くことも含めて説明してるの?」

親父は志野ばあちゃんが学校に行くことまで許したのだろうか。高校生の息子に一人暮らしをさせるようなゆるい父親なので承諾しないとも言い切れない。それでも自分の親がいい年して高校入学、などと馬鹿な夢見ていることに文句一つ言わず了解するような情けない親父でいてほしくない。と微かな期待を抱いて言ったのだが、その期待ももろくも崩れ去った。

「なんか笑いよったけどね。冗談と思っとるとやろうか。反対しても私があん子のいうこと素直にきくわけなかけんね。それがわかっとって反対できんかったとかもね」

「親父ィー!」

 情けないほどにもほどがある。

 まあそんなあほらしい話を電話でされて信用しろというのも無理な話か。僕だって実際にばあちゃんのセーラー服姿を見ていなかったらなんの冗談だと笑い飛ばしていただろう。そして、ばあちゃんが僕の言うことも素直に聞くわけない。

 かんべんしてくれよぉ、と心の中で叫び、ため息をついた。同じ学校に通うのだけでも嫌なのに、これから毎日志野ばあちゃんと毎日顔を合わせなければいけないなんて拷問に等しい。朝起きるとあの顔があり、セーラー服を着たばあちゃんを誰よりも早く、長く見なければいけないなんて。

「部屋が一つしかないんだよ。着替えはどうするんだよ。まさかここで着替えるなんて言わないでよね」

 志野ばあちゃんは目をきょとんとさせた。まさにそのつもりだけど、という目だ。志野ばあちゃんの着替えシーン、考えだけでもぞっとする。

「なんか変ね? 身内やけん気にすることもな」

「待ってよ」僕は言葉を遮った。

「常識で考えてよ。ばあちゃんが気にならなくても僕は嫌なんだ」

 言いながら徐々に口調が強くなる。今日一日溜め込んだストレスを一気に吐き出すように僕はまくし立てる。

「大体、僕はばあちゃんが学校に行くことも反対だ。せめて一言説明があってよかったんじゃない。迷惑がかかるのは僕ら」

「そげんこと」

 今度はばあちゃんが僕の言葉を遮る。そして、まるで僕の熱弁なんてなかったかのようにさっぱりした口調で、

「そげんこと知らんよ」

 と言い放った。

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