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最初から不思議には思っていた。
うちの学校にわざわざテレビ局や新聞記者が取材にくるなんてありえないことだった。誰かが絵のコンクールで賞を取ったという話しを聞いたこともないし、野球部が甲子園で活躍したわけでもない。そんな池上高校の入学式風景を撮りに全国ネットのテレビ局が取材なんて裏があって当然なのだ。
たくさんの本格的なカメラが背中から僕らを撮影し、先生や入学生の保護者を含む体育館にいた全員が緊張と興奮に包まれている。
入学式が始まって、まだ五分も経っていないだろう。
それは、あまりに奇妙な光景だった。
女子のひそひそ話しや、男子のあからさまな笑い声が聞こえるたび、僕は恥ずかしくて体が熱くなっていくのを感じる。壇上を目立たせるために少し体育館を暗くしているおかげで目立たないが、恐らく僕の顔は真っ赤に染まっているはずだ。今すぐにでもここから逃げ出したい衝動をどうにか抑えてパイプ椅子に座っている。
と言ってもカメラのレンズが映しているのは僕ではないし、女子のひそひそ話しの内容も、男子の笑い声の原因も決して四釜孝幸に向けられたものではない。にもかかわらず、みんなの視線がある一点に向けられているのがわかるだけで、まるで自分に向けられた視線のような気分になって居たたまれなくなる。
(そうか、そういうことかよ)
僕の感情を満たしているものは、羞恥心と怒りだった。
奥歯をかみ締めながら、昨日志野ばあちゃんが別れ際に言っていた台詞を思い出す。
――またね。
僕は、あの時の言葉をてっきりお盆に僕が行くのを楽しみに待っているよ、という意味で捉えたのだが、どうやら大間違いだったようだ。
またね、はお盆の里帰りより前にやってきて、僕のことを大いに困らせてくれた。
「くくっ」
隣に座っている信吾が腕組みをして、我慢しきれずに笑い出した。
「なんだよ、あのばあさん」
まったくだ。
僕も信吾とは別の意味で「なんだよあのばあさん」だったが、まさかそれが自分の祖母だとは口にできない。
僕が『それ』を知ったのは入学式が始まってすぐ、新入生が入場した時だった。
まだ中学生の気分が抜け切れてない初々しい学生が列を作って行進していく中に、一人異様な物体が紛れ込んでいたのだ。自分の祖母に対して異様という単語も失礼極まりないのだが、異様という言葉でしか表現できないのも事実だ。
今日も朝方までゲームに没頭していた僕は、眠気に襲われてうとうとしていたのだが、突然のざわめきに驚いて顔を上げると、新入生に混じった志野ばあちゃんを見つけた。
一瞬、自分の目を疑った。
あまりの驚きに椅子から立ち上がろうとして、寸でのところで理性が働きかける。
高校一年生の行進の群れに一人、六十過ぎのばあさんが紛れ込んでいたら誰だって驚くはずだ。しかもみんなと同じセーラー服を着て、何食わぬ顔で行進している。それが自分の祖母ならなおさら驚いて当然である。
(え、なんで志野ばあちゃんがセーラー服を着てるんだ?)
いや、そんなことより、
(なんで志野ばあちゃんがここにいるんだ)
見間違いかと思ったが、見れば見るほどそれは志野ばあちゃんそのもので、あの人が志野ばあちゃんでないとしたら、あの人はとても志野ばあちゃんに似ている人ということになる。
なにがなにやらわからないまま式が始まり、なんの説明もないまま式は進行していった。
どういうことだよ?
僕は頭を抱えて考え込んだ。あまりに突然の出来事に思考回路はものの見事にショートしている。冷静に考えようとしても笑い声やらひそひそ話しが聞こえるたびに集中力が途切れて考えがまとまらない。
(夢?)
ようやく達した結論はあまりに幼稚なものだった。これが万一夢だとしたら生まれてきてから今までで一番の悪夢だ。試しに太ももを思いっきりつねってみると、叫びたくなるほど痛かった。
信吾は僕の気も知らずに大口を上げて笑い、
「なんかのドッキリかな」と結論告げる。
ほんとこれがドッキリだったらどれほど救われるだろう。それならテレビが取材に来ていることの説明もつくし、なにより冗談で済まされることの幸せをこれほどまでに感じることはないだろう。でも、その可能性は夢と同じくらいありえないことだ。
僕の唯一の救いといったら、まだ周りの生徒が僕とあの珍入生の関係に気づいていないことだった。もしも気づいていたら信吾は大口を開けて笑わなかっただろうし、他の生徒は僕のことを遠慮会釈なくジロジロ見ていたはずだ。
しかし、気づかれるのも時間の問題だとすぐに気づいた。志野ばあちゃんが名前を呼ばれでもしたら、苗字が一緒の僕に必ず意識が来るはずだ。『四釜』なんて珍しい苗字の人間、そうそういるはずがないのだから。とりあえず、この学校では卒業生も合わせて同じ苗字の奴には出会ってことがない。その点では佑里は得をしている。
(そうだ、佑里!)
僕ははたと顔を上げた。佑里はこのことを知っていたのだろうか。もし知らなかったとしたら恐らく僕と同じように居心地を悪くしているに違いない。慌てて佑里の姿を探す。彼女はD組だからA組からは少し離れた位置に座っているが、双子特有の力が働き直感的に見つけてしまう。
佑里は自分の席に姿勢良く座り、騒然とした中(式は強引に進行されていた)で喋り続ける禿げ頭の校長の話を真面目に聞いている。ここからでは遠くてさすがに表情までは確認できないけど、遠目で見る限り僕のようには動揺していないようだ。まだ気づいていないのだろうかとも思っただが、これだけのざわめきの中で気づいていないとなると、どれほど鈍感なのかと逆に不安になる。
「……ということで」
気づくと、式も終わりに差しかかろうしていた。
「この三年間を楽しみ、そして大切にしてください。池上高校のご入学おめでとう!」
校長先生の声がはるか遠くに聞こえた。
入学式が終わると、僕と佑里は放送で職員室に呼び出された。
「なんか仕出かしたか」
「いや、でも理由はわかってる」
予想はしていた。このことへのなんらかの説明がなければ納得できない。
職員室に行くと先に佑里が来ていて、僕を見つけるなり手招きした。
「孝幸、こっちよ」
呼ばれるまま近づいていく。佑里の周りには生徒指導の体育教師と、問題の志野ばあちゃんが立っている。
志野ばあちゃんは昨日と変わりなく、セーラー服を着ていることを除けば不自然なところはない。それでもこの不思議な格好には馴染めないが。
「志野ばあちゃんどういうことだよ」
視線を志野ばあちゃんから逸らしたまま詰め寄る。正直、直視する勇気はない。
「冗談のつもりでも笑えないよ」と自分でも驚くほど鼻息が荒くなっている。
実際、僕は怒っていた。
恥ずかしさと怒りで頭に血が上り、冷静な判断ができない。そのくせ自己分析はしっかりとできている。
「聞いてないのか?」
まず先陣を切って口を開いたのは、いつもはジャージ姿の体育教師だった。今日は入学式ということもあって着慣れないスーツを着込んでいる。
「どういうことですか?」と僕。
質問に答えたのは佑里だった。
「あのね」彼女は一瞬すごく言い辛そうな口ごもり、それから「孝幸、怒らないで最後まで聞いてね」と言った。
怒らないで聞いてね、ということは僕が怒るようなことを今から言うつもりなのだろうか。僕は覚悟を決めて深呼吸する。そうして心を落ち着かせてから、佑里の方を向いて一つ頷いた。
「ん」
佑里はクスッと笑って頷く。
「あのね、今日からおばあちゃんもこの学校に通うんだって。学生として」
「ハァ!」
一瞬、目の前が真っ暗になり、気が遠のきそうなった。足に力が入らず、倒れそうになり慌てて力を入れる。まるで、医者から重病を告げられた患者の気分だ。
ふと横を見ると、志野ばあちゃんが満面の笑みを浮かべている。
「え? ちょ、え、ちょっと待ってよ」
僕は左手で頭を押さえた。
(学生としてこの学校に通う? 志野ばあちゃんが。そんなことできるのか)
「え、どういうことさ」
「だから、そういうことたいね」
「いや、だから」
頭がこんがらがっている僕に対して、志野ばあちゃんが無遠慮に僕の肩をおもいっきり叩いた。
「よろしくね、先輩!」
通った声が職員室中に響き、先生たちの間からどっと笑いが漏れる。その場にいた全員の視線がこちらに向き、恥ずかしさで赤面した。
「志野ばあちゃんが、僕の後輩」
一方で納得しない僕の頭も、徐々にだがこの状況の意味を理解していた。飲み込みが早いと言われるかもしれないが、なにせ相手は志野ばあちゃんだ。こういうありえない事があり得てしまう相手なのだ。
「佑里は知ってたのか?」
チャイムが鳴り、教室へと向かう足を止めることなく佑里に尋ねる。
志野ばあちゃんは一年の教室に案内され、僕らとは別々の方向に歩いて行ったので、今は佑里と二人きりだ。
佑里は少しの間黙り、僕の方を上目遣いで見つめながらコクリと頷く。
「昨日の放課後、私、生徒会に呼び出されたでしょ。あれってこの話しだったの。この学校に明日からおばあちゃんが入学してくるから、テレビ局とか来るけど普通にしてればいいからって。その後で私だけマツモト先生に呼び出されて教えてもらったの」
「なんて?」
「『そのおばあさんってのは四釜志野って言うんだけど知ってるよな?』って。驚いちゃったわ。だってまさかおばあちゃんが入学してくるなんて思わないじゃない」
「よくわからないんだけどさ、本当にこの学校に通うの? 冗談とかじゃなくて」
「そうみたいよ。ちゃんと受験も受けたって言ってたから、マツモト先生。さすがに学校側もどうしようか迷ったみたいだけどね。成績も受験生の中でダントツだったらしいし、面接の印象も悪くないし、志望動機もちゃんとしてる。落とす理由が見つからなかったんだって」
「動機って?」
「さあ、そこまでは……」
と、佑里は首を横に振る。
お互いの教室はもうすぐだ。
僕は最後に一つだけ質問した。
「昨日のうちに知ってたんなら、どうして教えてくれなかったんだよ」
佑里は苦笑した。
「だって私もびっくりしててそんな余裕なかったもの。それに、おばあちゃんが入学してくるなんて電話で伝えても、どうせ孝幸は信じなかったでしょ」
「うーん」
僕は項垂れる。確かにその通りかもしれない。実際、説明を受けた今でも半信半疑なのだ。まだ頭の片隅でこれはドッキリではないのかと疑がっている自分がいる。
「それじゃあね」
教室の前で別れ、僕は自分の教室に入る。
まだ担任が来ていないのをいいことに教室の中は騒然としていた。話題の中心が志野ばあちゃんであることは言うまでもない。僕もあの変な入学生が赤の他人なら嬉々としてこの話題に参戦するところだが、それが自分の父親を生んでくれた母親である以上、僕は無関心を決め込むつもりで自分の椅子に座った。
「孝幸」
そうとも知らず、他のクラスメートと談笑してた信吾が近寄ってきた。
「よお、呼び出しはどうだった」
「どうだったって別に」
「ふーん。でさ、あのバアさんなんだったろうな」
早速意見を求めてくる。
僕は信吾をジロッと睨んで、
「だから新入生だろ」と簡潔に告げた。
「……やっぱりそうなんのかな」
教室では推理ショーが行われていたらしく、各々自分が考えた予想を発表していたようだ。孫の変わりに入学式に参加したんだろという真っ当な意見から、黒の組織が作ったおばあちゃんになる薬を飲まされただの、魔法で老婆にされ動くお城に住んでるだの、どこかで聞いたような非現実的なものまで、親切丁寧にことの流れを説明してくれた。僕はアホらしいと鼻で笑い、クラス中に聞こえるような大声で正解を伝える。
「ニュースでたまに見るだろ。八十過ぎのばあさんが大学生になったとか、資格取るために勉強したりするの。あれと一緒だよ」
「なるほど。でも、まさかうちの学校に来るなんてな」
僕だってまさかそれが自分の祖母だなんて思ってもいなかった。
まあ、みんなの頭の中にも大体の予想はできていることだったのだろう。一瞬みんな静まり返り、
「やべぇ、それちょー楽しそうじゃん」
という信吾の一言でどっと教室が沸いた。
「お前なぁ……」
僕の気も知らないで。
(つっても知るわけないか)
そこまで考えたところで、じっと信吾を見つめた。大口をあけて無邪気に笑う口から八重歯が光って見えた。普段、野球部キャプテンとしての勇ましい顔とは程遠い、無警戒な表情を僕の前でだけこいつはよくする。それだけ僕のことを信用しているのだと思うと嬉しい反面、同時にこちらも同じくらい信頼を預けなければいけない。
(こいつにだけには、先に話しておくか)
僕と志野ばあちゃんの関係を一年間隠し通せるものでないことは承知しているが、誰にも知られたくないのも確かだ。当然自分の口から打ち明けるつもりはなかった。ただ、親友である信吾にだけは打ち明けておくべき必要性を感じた。
それは、秘密がばれて騒ぎ立てられた時にいろいろフォローしてくれるかもしれないという打算的な考えと同時に、親友に秘密を持つことの罪悪感を覚えたからだ。
「なあ、放課後時間あるか?」
僕は意を決して訊いた。
「お、遊ぶか」
「ちょっと相談があって……」
「……」
僕の真剣な顔を察したのか、信吾は少し考えてから、
「部活が終わってからなら」と答えた。
「わかった。終わるまで待ってるよ」
珍入生について、学校側からの説明は各々クラスごとに分かれてから、担任の口から伝えられた。
僕らの新担任は安永先生という女性で、見た目だけなら志野ばあちゃんに負けないぐらいの年寄り―志野ばあちゃんも実年齢にしては少し若く見えるため――で、一年生の頃から知っているけど、口ぶりから怖い先生に思われがちだけど、結構優しい先生だ。
「気づいた人もいると思うけど――」
と安永先生は口を開いた。
「入学式、ちょっと変な生徒がいたのに」
言ってから僕に気づいたのか先生はしまったという顔をしたが「変な」と言われても仕方がないことなので苦笑いで返す。
「あれっしょ、ババァがいたの。セーラー服着てて気持ちわりぃ」
と言ったのは二年の時も同じクラスで、ひょうきんものだった男子だ。これにはさすがにこめかみがピクピク反応した。ババァ、きもちわりぃ。
その男子の一言でクラスが笑いに包まれ、僕は居心地を悪くした。事情を知っている安永先生だけが一応気を使って、
「笑わない」
と注意してくれたが、効果はあまりなかった。
コホン、と咳払いして先生は続けた。
先ほど、僕と佑里が職員室に呼び出されたのはこのためだった。志野ばあちゃんと僕らの関係を秘密にしておくか、それとも打ち明けるかについての確認だ。普段であれば、親族関係をわざわざ学校が隠すか、と尋ねることはないのだろうが、事情が事情なだけに配慮してくれたらしい。当然僕はきっぱりと前者を選んだ。冗談じゃない。どうせ、いずれバレることなのにわざわざ打ち明ける必要なんてない、と。
「お願いします、秘密にしてください」
と僕は頼み込んだ。
そのこともあって、先生は言葉を選んで話しているようだった。
「まあ簡単に言うとね、そのおばあさんもこれからこの池上高校の生徒なの」
「げぇ、なにそれ」
「あ、それ知ってる。芸能人とかでも、中卒だった大人が高校に入学したりするとかあるじゃん。それと一緒でしょ」
「そんなところかな。今日かられっきとしたうちの生徒だし、みんなと同じ立場の学生だから。普通に接すればいいわ。私たちも特別扱いする気はないから。最初は慣れないかもしれないけどね」
学校側からの説明は、どのクラスでも大体そんな感じだったようだ。
特別扱いしない、が聞いて呆れる。周りの若い生徒達に混じって体育の授業も受けさせるつもだろうか。同じように扱って万が一倒れたりしたら学校はちゃんと責任取ってくれるのか、と言ってやりたい。別に志野ばあちゃんのことを心配しているわけじゃなく、倒れた時に世話をするのは僕と親父の仕事になるのに。
「じゃあ俺たちの後輩になるんだよね?」
不意に、クラスの誰かが言った。
「そうなるわね」
「うっそーん。年上のばあちゃんが俺たちの後輩かよ。意味わかんねー」
年上のばあちゃんが後輩。その上僕は、彼女の孫なのだ。祖母が学校の後輩。最悪だ。僕はこれからの学園生活を悲観して、大きく息をついた。