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学校が午前中までに終わり、時間を持て余した僕は何年振りかにアパートとは正反対の図書館に寄った。
さすがに信吾ばかりに頼るわけにもいかず、今からでも少し勉強しておこうかとやる気を出しては見たものの、シンと静まり返った図書館の空気に、思わず萎縮してしまう。
清潔に保たれた本から放つ匂い。図書館の外からは車のエンジン音がやけにうるさく聞こえる。椅子に座って本を読む人々が、まるで心を持たないロボットにさえ見えた。隅に陣取った漫画のコーナーで戯れる小学生の集団に親近感が沸いてしまう。
こんなことなら信吾か佑里を待って一緒にくればよかったと後悔した。とはいえ、野球部の練習に行った信吾は少なくとも練習終了までの四時間近く待たなければいけないし、佑里は僕と同じで帰宅部だけど、二年の後半から生徒会の書記に任命され、今日は緊急会議とかで呼び出しを受けていたので誘えなかった。
仕方なく一人で来たのだが、今まで勉強してこなかったせいか、なにから手を付ければいいのかわからない有様だ。
とにかく参考書だよな、と棚を探しにいく。
受験コーナーと書かれた一角は、一階の漫画コーナーの隣にあった。小学生たちの横に並び、参考書と向かい合う。
『幼稚園から受験対策』
『子供をエリートにするためには』
『受験に合格する二十四の法則』
『大学受験なんてこれ一冊!』
『大学受験入門書』
わけもわからず大学受験入門書という本を手にとってみる。ぺらぺらとページを捲ると、小さな風が僕の喉仏に靡いた。
(うわっ。意味わかんねー)
額を冷や汗が流れていく。
暗号のような数式に、呪文のような古典。英語なんてそれが英語であるとわかる以外、最初からつまずいた。なにが解からないのか解からない、というのはまさにこのことを言うのだろう。僕の頭は、参考書を読む以前の問題なのだ。基礎が出来ていないのに、応用問題なんて解けるはずもない。
手に持っていた参考書を本棚に戻し、代わりにページが薄い本を手にとってみるが、結果は同じだった。
大学に行くためにはこれを理解しなきゃいけないのか、と考えるだけで気が滅入る。
(いっそのこと大学行かないで働こうかな)
と本気で考え始めたころ、
「ありゃ、孝坊」
しゃがれ声が受験コーナーに響き渡った。
「うわっ!」
思わず悲鳴を上げる。
『孝坊』という久しぶりの呼び名に、聞きなれた声。孝坊とは言うまでもないが僕のこと――孝幸+坊やの略称――である。しかも、僕のことを『孝坊』と呼ぶのは二人だけだった。一人は一昨年亡くなったじいちゃんだ。つまり。実質今では一人だけということになる。
声のした方を恐る恐る振り返ると、案の定そこには初老のおばあちゃんが立っていた。白髪の頭に、身長は僕より十センチ近く低く――僕が百六十センチなので、百五十センチくらい――その分横の幅が僕の1.5倍はある。
「し、志野ばあちゃん」
僕の声は露骨に怯えていた。
「こげんとこでなんばしよっとね」
ニカッと笑うと、自前の歯が白く輝いていた。独特な長崎弁が妙に懐かしく、嫌気がさす。
このおばあちゃんは親父のお袋で、つまり僕にとっては祖母だ。祖父祖母で生きているのは志野ばあちゃんだけだった。僕が住まわせてもらっているあのボロアパートも、実際には一昨年の夏にじいちゃんが亡くなり、じいちゃんが所有していたもの――趣味で集めていた骨董品や、幾つかの店――の名義はほとんどが志野ばあちゃんのものになっている。
ピンと伸びた背筋や、六十六歳という年齢にしては周りのお年寄りに比べると皺は少なく、むちゃくちゃ元気なばあちゃんなのだ。そして、僕がこの世で最も苦手としている相手でもあった。天敵といっても過言ではない。
「やー、奇遇やね。元気にしとったね。相変わらず遊んでばっかりおるとやろ。勉強もせんばいけんよ。そうそう、佑里ちゃんは元気にしとっとね」
あまりの声の大きさに周りを見回すと、案の定図書館の職員がこちらを向いて睨んでいる。
仕方なく僕が頭を下げるはめになった。
「久しぶりたい」
志野ばあちゃんは少しもボリュームを下げずに、僕の肩をパンパン叩いた。平べったくて皺の刻まれた手でも、これがなかなか痛い。
正月に会ったばかりなので久しぶりというほどでもない。長崎弁を喋ってはいるが、今住んでいるのは僕の住む町からバスで数分の近所なのだ。僕にしてみればこのまま一生会わなくていいくらいだった。
「まさか志野ばあちゃんとこんな場所で会うとは思ってもなかった」
自分でもわかるほどに声が震えていた。志野ばあちゃんには物心付く前から怒られてばかりいて、怖いイメージがしっかりと根付いている。
「なんば言いよっとね。私はたまに来よるとよ。大きな図書館の方がいっぱい本のあるけんね」
「ああ、そっか」
志野ばあちゃんの読書好きは親族中でも有名だった。ばあちゃんの家にはジャンルを問わず数千冊の本が積まれている。奥にある古い本のうちの何冊かは現在書店にも置いてないものらしく、オークションに出せば一冊でサラリーマンの月給を超えるんじゃないかと親戚の誰かが騒いでいた。
「まあよかたい」
志野ばあちゃんの手には既に分厚い本が三冊握られていた。
「せっかく会ったとやけん、どこかでお茶でも飲んで行こうたいね」
「え?」
返事も待たず、ばあちゃんはさっさと僕の手を引いて図書館を出た。
喫茶店《富み》は、図書館の目と鼻の先にある小ぢんまりとしたお店だった。平日の午後ということもあってお客は学生服を身にまとった女子高生や、買い物帰り風の主婦しかいない。奥の席についた僕らは、フルーツパフェを注文した。
僕が食べたかったわけではない。むしろ、ばあちゃんと二人でパフェなんてを食べているのをクラスメートに見られるのが恥ずかしく遠慮したかったのだが、
「子供は遠慮せんでよか」
と強制的に注文させられたのだ。
ただ、僕を口実に自分がパフェを食べたかったのだとわかったのは、まもなくしてからだった。
「お待たせいたしました」
おばあちゃんとパフェ、という絵的に不思議な構図が出来上がり、にんまりする志野ばあちゃんのパフェを食べる姿は豪快だった。とても、六十六歳の年寄りが食す姿には見えない。細長いスプーンを底までかき回し、柄の部分についたクリームまで人差し指に移してペロッと嘗めるのだ。孫という立場でなければ尊敬すらしていたかもしれない。だけど、これが自分の祖母の姿だと思うと、恥ずかしくて仕方なかった。女子高生がこちらを見てくすくす笑っているのが聞こえ、なぜか僕が気分を害した。
「ばあちゃん止めなよ。はしたない」
小声で注意したが、志野ばあちゃんが僕の言うことなんて聞くはずもない。
眉間に皺を寄せ、
「なんがはしたなかね。残した方がよっぽど行儀のわるかたいね」
と、逆に怒られる始末だ。
志野ばあちゃんは大体こんな人間だった。おしとやかとは無縁で、豪快な笑い声、六十六歳という年齢を感じさせない風貌。この人は殺しても死なない、とここ最近では本気で思っている。
おかわりした二杯目のパフェを一生懸命口に運びながら、志野ばあちゃんの口から地区のゲートボール大会で優勝したとか、ボーリングのスコアをまた一つ上げたという話を聞かされても、ちっとも僕は驚かなかった。
だって、この人はそういう人だから。
僕がようやく一杯目のパフェを食べ終えた頃には、ばあちゃんは三杯目のパフェを食べ終えていた。
「おかわりせんとね」
と言われたけど、これ以上甘いものは胃袋が受け付けないと断った。甘いものは好きな方だし、食欲も旺盛な方だけど、さっきの志野ばあちゃんの食べっぷりを見たらそれだけでお腹いっぱいになってしまった。
志野ばあちゃんはそれでもまだ満足していないらしく。お母さんと一つのパフェを分けて食べている子供を羨ましそうに見つめている。僕も無意識のうちに、その母子に視線を向けていた。
「よかね、幸せそうで」
志野ばあちゃんが笑みを浮かべて言った。
「そうだね」と僕。
「羨ましかやろ。孝坊も母さんに甘えたかっちゃなかとね」
「ありえないよ」
佑里ならともかく、と付け加える。
「佑里ちゃんはどげんしとるね? 元気にしとっとね?」
「どげんって、普通だよ。怪我もしてないし、病気もしてない」
唯一、と言いかけてやめた。思わず、両親が離婚した時のことを思い出したのだ。
あの時の佑里は僕の胸元でシャツがずぶ濡れになるほど泣いてさすがに心配した。とはいえ、もう三年も前の話だ。佑里も今は見違えるほど元気だし、あの時のことをわざわざ志野ばあちゃんに報告する必要もないだろう。
「そいで、孝坊はなんしにきたと?」
「は?」
話題が突然変わるので答える方は疲れる。
「勉強だよ」
短く答える。
「べんきょう……」
訝しむ顔。
あまりに予想通りのリアクションに少しムッとした。
「だよ。こう見えて一応今年は受験生なんだよ。信じられないかもしれないけど」
「うん。信じられん」
悪びれて言ってないのがわかるから余計に腹が立つ。
「どこば受けるとね?」
「N大に決まってるじゃん」
地元で一番偏差値の低い大学名を告げる。
「ふーん。そこで勉強したかことがあるとね?」
「はは、んなわけないじゃん。行ける大学がそこってだけ」
「教科書ば見せてみんね」
「持ってきてないよ」
カバンの中は朝と同様空っぽだ。
「勉強は楽しかね?」
なんでばあちゃんはこんなに学校のことばかり聞くんだろうと首を傾げる。今までばあちゃんが僕や佑里の学校にここまで興味を示したことはない。
「学校かぁ」
ばあちゃんはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
「楽しかとやろうね」
なぜそんなことを言い出したのかわからない。ただ、志野ばあちゃんが僕と同じ年の頃、生活が貧しくて高校に行くこともできなかった、という話しをずっと前に聞かされたことを思い出した。
「まあね」
勉強は嫌いだったけど、学校は嫌いではない。信吾という親友はいるし、一生に一度の学園生活をそれなりにエンジョイはしているつもりだ。
僕と志野ばあちゃんはそれから二十分ばかり喫茶店にいたけど、一方的にばあちゃんが話して、僕はずっと相槌を打つばかりだった。
別れ際、またね、と言った志野ばあちゃんの言葉が、なぜだか僕の耳に残った。
――またね。
それが、入学式前日の出来事だった。