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ジンクスがある。
朝目覚めた瞬間、小鳥のさえずりが聞こえたらいいことがある。
気分の問題だからこの占いは正確ではないけれど、それでも少しでも気分よく出ると思えばひとつの手だ。
今日は十日振りに小鳥のさえずりをBGMに目を覚ました。
ボロアパートの二階、窓ガラスを隔てた先に一本の木があり、そこに小鳥が止まっているのだろう。チュンチュンと、耳障りでない程度の音で気分よく目を覚ました僕は、うーんと背を伸ばしてからテレビをつけた。朝のワイドショーが人気俳優の結婚を報じている。
四角の箱から発せられる情報を見るともなく眺めながら、僕ははっきりしない頭が覚醒されるまで待つ。合間にファーと欠伸をしたり、窓越しに空を見つめたりするのだが、どの行動にも深い意味はない。
そうしてたっぷり二十分ばかり使って意識を取り戻していくと、仕上げに洗面所に顔を洗いに向かった。
水道の蛇口をひねる。ほとばしる水に手を突っ込み、水を掬って顔に当てる。生ぬるい水に、僕の意識はようやく本来のそれを取り戻した。
一DK。それがお城の広さだ。
もちろん、お城などと呼べる代物ではないが、初めて手に入れた一人の空間に、ボロでも住み心地はいい。
「ふぅー」
顔を洗い終わったのとほぼ同時に、テーブルで充電していた携帯電話が高らかに着信音を鳴らした。部屋中にアニメソングが鳴り響き、僕は慣れた手つきで届いたばかりのメールに目を通す。
『おはよう孝幸。起きてるよね。今日から学校だぞ、忘れ物しないでよ』
お決まりの文章が並んでいる、あいつらしく絵文字が一切入ってないまじめな文章である。僕は一応最後まで文章に目を通した後『あいよ』と短い返事を送った。これで朝の桜木佑里との挨拶は決まった。
あいつのことだ。
もっと長い文章を送ってよ、とか、お礼ぐらい言ってよね、と文句を言ってくるに違いない。
佑里は今時の高校生には珍しく、携帯電話を持ち始めてまだ二ヶ月だった。不器用な彼女はようやく操作に慣れたばかりで、現在メールにはまっている最中なのだ。なにかあるたびにメールを送りつけてきて、正直うんざりしている。
それでも細かい作業が嫌いな僕は、なんと言われようと必要最低限の文章しか送らないため、ケンカになるというわけだ。
メールを送信しました、という文章を確認してから携帯電話を畳み、学校へ行く準備を開始する。歯を磨き、制服に着替える。何日前に洗ったのか覚えてないくしゃくしゃのハンカチと、女性の裸の絵が描かれたチラシの入ったティッシュをポケットにしまい、空っぽのカバンを持って外に出た。しっかり鍵を閉め、腕時計で時間を確認する。いつもより五分ばかり家を出るのが遅れた。
(このままだとやばいな)
僕は学校までバス通学していて、一つバスを遅らせると、次のバスが来るまでに十五分待たなければいけない。万一、遅刻でもしたら佑里になんて言われるかわかったものではない。私がわざわざメールで知らせてあげたのに遅刻する、普通? とか嫌味を言われるに決まっている。
僕はアパートの階段を下りる速度をいつもより速めて、佑里と待ち合わせの場所であるバス停に急いで向かう。
少し息を弾ませながらバス停に着くと、ベンチに座るセーラー服姿の女性が一人で本を読んでいるのが見える。ストレートに伸びた黒髪に、細身の体型。前から確認するまでもなく美形な顔立ちをしているとわかる。他にバス停に人はなく、いつもの待ち合わせ場所にいる彼女は、まだこちらに気づいていない。本には買った時に取り付けられたカバーがはめられているのでなんの本かはわからないが、大きさからして文庫本のようだ。恐らく彼女の好きな恋愛小説の類だろう。
「よお」
息を整えてから、後ろから声をかける。
「おはよう」
彼女の瞳が僕を捕らえるのと同時に、先に挨拶した。振り返り、怒ろうとしていた佑里は先に僕に声をかけられたことで、怒るのが先か、挨拶が先かに戸惑っているようだ。でかかった言葉が行き場を失い、
「オファヘヤ」
という意味不明の呪文になった。
僕が思わずプッと吹くと、佑里はそのご自慢の大きな瞳でキッと睨んだ。それでも怖いと思わないのは、本気で怒っているのではないとわかっているからだ。こいつが本気で怒りでもしたら、到底太刀打ちできない。泣きながら叩いてくるので質が悪い。旗から見たら高校生のカップルが別れ話をしていると思われても仕方がない。
でも、僕らはこうして一緒に仲良く登校しているけど、付き合ってもいないし、友達という間柄でもない。苗字は違うけれど、僕らは歴とした双子の兄妹だった。
三年前まで僕らは両親のいる一つ屋根の下に暮らしていた。
両親が三年前に離婚し、僕らは別々に引き取られた。離婚の原因は親父の浮気だとか、借金というたいそうなものではなく、単純に性格の不一致だったらしい。佑里の反対も空しく離婚は成立し、僕が親父に、佑里がお袋と新しい父親の元に引き取られたというわけだ。僕の場合は、中学を卒業するまで親父と一緒に暮らしていたのだが、高校へ進学するとともにじいちゃんの建てたボロアパートに一人で住んでいるので、実質一人暮らしだった。
「遅刻だよ、孝幸」
佑里が気を取り直して、怒った口調で言った。
双子とは言え、僕らはあまり似ていない。佑里は成績優秀で、運動もそこそこできる。周りの人望も厚く、顔も僕とは違って可愛いし、先生たちにも好印象。いわゆる優等生というやつで、落ちこぼれの僕は双子の兄妹でこうも出来が違うものかと、子どの頃はよく神様を呪ったものだ。それでも、佑里自身に嫌悪感や嫉妬しなかったのは、ひとえに彼女の性格がよかったからだ。
「ごめんごめん」
「まったく、これじゃあなんで私がメールで知らせてあげてるのかわからないじゃない」
「いや、ほんとごめん。昨日、つーか今朝方までゲームしててさ、三時間ぐらいしか寝てないんだよ」
それは嘘ではなかった。昨日の夜にゲームを始め、気づいたら日付を通り越して四時を回っていた。慌てて布団に潜ったのだが、三時間程度の睡眠では寝た気もしない。
「まぁた、そんなんで一日もつの?」
呆れた口調。
「大丈夫、授業中に寝るから」
「残念」
今度は嬉しそうな口調だ。
「なにが?」と僕は訊いた。
「今日は始業式だもん。校長先生の話を聞きながら立って寝られるなら、どうぞ」
「うっ」
昨日まで学校は春休みで、今日から新学期だった。半ドンだから少しは楽だろうと思っていたのに、体育館で立ったまま校長の長話を聞かされるのかと思うだけで気が滅入る。
「サボろうかな」
「だめだよ。あ、ほら、バスが来た」
佑里の言うとおり、真っ赤なバスがこちらに向かって速度を落としている。
「今日から孝幸も三年なんだからしっかりしてよね」
「へーい」
気の抜けた返事をしながら、僕らは到着したバスに乗り込んだ。
今日六度目の豪快な欠伸をして、両目をこすった。体育館の中は、四月だというのにまだ少し肌寒い。しかも、立ったままはげ頭の校長先生の話を永遠聞かされるのだから欠伸も出るというものだ。始業式もようやく終わりにさしかかろうとしていた。が、生徒の限界はとっくの昔に頂点に達しようとしている。後もう少しで短気な生徒が叫びだすだろうな、と思った手前でようやく校長が話をまとめにかかった。
「……ということで」
体育館にいる全員からほっと息が漏れるのが聞こえてきそうだ。
始業式が終わり、二年生からクラスごとに体育館を後にする。
体育館を出ると、整列していた列が乱れ各々グループができる。僕は前の方に友人の姿を見つけると、駆け足で彼の横に並んだ。
「よう、信吾」
「おう」
彼は、小学生時代からの友人だ。野球部らしく短髪に整った顔立ち。キャプテンを務めるだけあって逞しい身体をしている。横に並んで歩くと大人と子供だ。しかも、一部の女子からファンクラブができているほどの男前で、いやでも自分の地味さに気づかされてしまう。
それでも僕にとっては数少ない貴重な親友で、なんのとりえもないぼくの自慢は、じいちゃんが少しばかりお金持ちだったことと、信吾が親友であるということくらいだ。
「今日も一段と長かったな」
「まったく」
くたびれた顔で頷く。
「結局、あのはげジジイがなに言っているのかわからなかったし」
「はは。俺は最初から聞いてなかったよ、寝てた」
「立ったままでか?」
「意外と寝られるものだぜ」
「うっそだぁ」
僕は疑った顔で信吾を見た。
「いやいや本当だって」
真顔で言うので、本当か冗談か判別できない。
「一度挑戦してみろよ。案外できるから」
「えー」
「ひどいわ孝幸君。私の言うことが信じられないの」
ふざけて女の子口調を真似る信吾に、僕はうーん、とどちらとも取れる返事を返す。
もちろん、信吾の言うことなんて八割方信じていない。こいつは僕をからかうことを生きがいにしているような奴だ。実際、こいつを信じて何度馬鹿を見てきたことか。それな
のに完全に疑いきれないとこが僕の悪い癖だと自覚はしている。
「なんだった明日試してみろよ」
「明日? 明日ってなんだっけ?」
きょとんとした眼で訊き返す。
「なにって入学式があるだろ。明日も今日と同じように校長のありがたーい話が聞ける」
「あ、そうか。入学式か」
すっかり忘れていた。春休み前とは違って今日から僕らは三年生で、明日からは新入生がやってくるんだ。
「本当に忘れてたのか? 忘れられるものなのか?」
「いや。ん……まあ」
「相変わらずだよなお前。そんなことだと今度は卒業でつまずくことになるぞ」
呆れぎみに言った信吾の言葉はもっともだと思う。
今年の二月末、当時の三年生がほとんど学校に来なくなり、ようやく平和な学園生活が始まろうとしていた矢先、僕は担任に呼び出され追試を言い渡された。しごく当然の結果だと思う。
高校に入学してからというもの、僕の成績はひどいものだった。下から数えてトップテン入りを毎回のように続け、留年やら退学した生徒を除けば現段階ではトップスリーの問題児に入っているだろう。結果、追試で合格点を取らないと留年も覚悟しておけよ、と担任に脅され、必死に勉強した。あの時の苦労といったらなかった。信吾と妹の佑里に協力してもらい、朝から晩まで勉強付けの毎日。頭の構造が周りの人間より悪く出来ている僕は、信吾や佑里にしてみれば簡単な数式を理解するまでに軽く三日費やすほどだった。
なんとか合格点は取れたものの、追試の結果もぎりぎりで、心の底からほっとしている。だから、浮かれて入学式のことを忘れていても仕方のないことだった、と自分に言い聞かせる。
まあ、と信吾が口を開いた。
「今年は受験も控えてるし、勉強嫌いの孝幸でも、嫌でも勉強しなきゃいけないか」
「うっ」
思わず耳を塞ぐ。
「なんだよ」
「聞きたくない。ようやく勉強から開放されてゲーム三昧の毎日が戻ったのに」
「お前ねぇ」
信吾の言うとおり、三年に上がったからには大学受験が控えている。進学しようと決めているわけではないけど、取りあえずはまだ進路のことを考える余裕はない。
「なーに、また俺がみっちり仕込んでやるからよ」
「うわ。やだな」
「なんだよ。嫌なら構わないぜ。来年また高校生やるか?」
こう言われるとなにも言い返せない。
「お願いします。助けてください信吾様」
と頭を下げる僕に、
「うむ」
と、信吾の一言は心強かった。