第9話:休日の境界線と、慣れない私服
金曜日の株式会社朝日フーズ。定時を告げるチャイムが鳴り響くのと同時に、私はデスクの電源を落とした。
「高橋さん、お疲れ様。今週も完璧な進捗管理だったわ。おかげで週末、心置きなく休めるわね」
「お疲れ様です、佐々木リーダー。当然の責務を果たしたまでです。月曜日に仕事を持ち越すのは、自分の時間をドブに捨てるのと同じですから」
私はサバサバとした口調で返し、周囲がようやく帰り支度を始める中、誰よりも早くオフィスを後にした。
仕事は仕事。プライベートはプライベート。
オンとオフの切り替えこそが、大人の女の嗜みだ。駅までの道を颯爽と歩きながら、私は週末の予定を脳内で組み立てた。明日は少し足を伸ばして、隣町の大きな公園にある静かなカフェで読書でもしよう。誰にも邪魔されない、自分だけの時間。それこそが、私の「平穏」を維持するための絶対条件だった。
土曜日。予報通りの快晴に、私はお気に入りのリネンシャツと細身のデニムを選んだ。
仕事用の「高橋さん」を脱ぎ捨て、一人の女性として自由を享受する。公園のベンチで風に吹かれながら、読みかけの小説に没頭する。
はずだった。
一息つこうとスマホを開いた瞬間、マナーモードの振動が掌を叩いた。
『佐藤悠真:お疲れ様です、遥さん。お休みの日にすみません。今、先日お話しした公園の近くまで来ているんですが……もしお暇でしたら、少しだけお会いできませんか?』
画面を見つめ、私は思わず天を仰いだ。
(……こいつ、私の休日まで侵食してくる気かしら。私はお前の週末の暇つぶし相手じゃないんだけど)
毒づきながらも、私の指はすでに現在地を送信していた。
(まあ、ちょうど休憩しようと思ってたしね。一服するくらいなら、わざわざ断る方がエネルギーの無駄だわ。効率の問題よ)
自分でも驚くほど苦しい言い訳を脳内で完結させ、私は本を閉じた。
十分後。待ち合わせ場所である広場の時計台の下に、一人の男が立っていた。
安物のスーツではなく、清潔感のあるネイビーのカーディガンに白いカットソー。
いつもより少しだけ幼く、それでいて年相応の男らしさが覗くその姿に、私の心臓が不快な音を立てた。
(……何よ。スーツより似合ってるじゃない。……まあ、悪くないわね、意外と)
一瞬だけ内面で起きた事故を、私はコンマ数秒で「日差しのせい」として処理した。
「お待たせ。あんた、休みの日まで私の顔見たいの? 物好きね」
「遥さん! すみません、突然。……あ。……あの、今日の遥さん、すごく素敵です。仕事の時も格好いいですけど、私服も……その、すごく似合ってます」
佐藤が顔を赤くしながら、直球すぎる言葉を投げてくる。
「……はいはい、お世辞はいいわよ。暇つぶしに付き合ってあげるから、さっさと歩きなさい」
私は動揺を悟られぬよう、サバサバとした足取りで歩き出した。
公園の遊歩道を、私たちは等間隔の距離を保って歩いた。
話題は、これまでの仕事の話ではなく、もっと他愛のないものへと移っていく。佐藤が意外にもカメラが趣味であることや、私が実は古い映画を観るのが好きだということ。
「へえ、カメラね。あんた、凝り性だものね。事務作業よりそっちの方が向いてるんじゃないの?」
「あはは、かもしれません。でも、遥さんとこうして歩いていると、仕事の疲れとか、将来への不安とか、全部消えていく気がします。……遥さん、不思議ですね」
「大げさなのよ。あんた、感受性が豊かすぎるの。仕事もプライベートも、もっと淡々と割り切りなさいよ」
私は前を見つめたまま答えた。だが、隣を歩く彼の肩が時折触れそうになるたびに、脳内では警告灯が激しく点滅していた。
広場は家族連れやカップルで賑わっていた。
不意に、走り回る子供を避けようとした際、佐藤が自然に私の肩を引き寄せた。
「遥さん、危ないですよ。こっちへ」
(……名前。……呼びすぎ。……もう、耳が慣れるどころか、これがないと落ち着かないじゃない)
一瞬だけ触れた彼の体温が、シャツ越しに伝わってくる。
今の職場では誰も呼ばない、私の本当の名前。
それを当たり前のように、慈しむように響かせる佐藤の声が、私のサバサバとした防壁を内側からじわじわと侵食していく。
私は慌てて距離を取り、少しだけ声を荒らげた。
「分かってるわよ、子供くらい自分で避けられるわよ! あんた、いちいち過保護なのよ」
「あ、すみません。つい、遥さんが怪我をしたら困ると思って……」
「……馬鹿じゃないの」
私は火照った頬を隠すように、足早に先へ進んだ。
夕暮れ時。公園の出口が見えてきた頃、私はいつものように幕を引こうとした。
「じゃあ、私はこっちだから。あんたも早く帰りなさいよ。明日からまた仕事なんだから、しっかり休みを『完遂』しなさい」
「はい。……あの、遥さん」
「……何よ。まだ何かあるの?」
「次は、僕のおすすめの映画、一緒に観ませんか? 遥さんが好きそうな、古いリバイバル上映をやってる映画館を見つけたんです」
一歩踏み込んだ誘い。
いつもの私なら、「気が向いたらね」と即座に切り捨てていただろう。あるいは「予定を確認してから」と事務的に濁したはずだ。
だが。
「……まあ、上映スケジュールくらいは送っておきなさいよ。検討してあげるから」
断らなかった。
自分でも信じられないほど緩やかな拒絶。
(……私、今、実質的にOKしたわよね? ……は? 何やってんの、私。サバサバ割り切るのが私の流儀じゃないの?)
佐藤が弾けたような笑顔で「ありがとうございます! すぐ送ります、遥さん!」と言って頭を下げる。その笑顔を直視できず、私は「じゃあね!」と背を向けて駅へと駆け込んだ。
帰り道の電車の中。
窓に映る自分の顔を直視するのが、これほど怖かったことはない。
(……ま、映画の内容に興味があるだけ。あいつの成長を見守るのも、元先輩としての務めの一部……)
自分に言い聞かせる言葉が、以前にも増して空々しく、虚しく響く。
完璧に作り上げたはずの新生活。
効率化され、感情を排した「高橋さん」としての日常。
それなのに、あの不器用な後輩に名前を呼ばれるたびに、私の「サバサバ」という鎧は、音を立てて崩れ落ちていく。
次に会うときは、絶対に線を引く。
そう心に誓いながらも、カバンの中で震えたLINEの通知を、私は誰よりも早く確認してしまっていた。




