第8話:挽肉の呪縛と、少しだけ軽い足取り
週明けの月曜日。株式会社朝日フーズのオフィスは、相変わらず無駄のない静寂に包まれている。
私のデスクには、週末の間にシステムが自動仕分けした発注データが、整然と処理を待っていた。
「高橋さん、おはよう。今週も頼むわね。例のプロジェクト、君の進捗管理のおかげで他部署との連携が劇的にスムーズになったって評判よ」
「おはようございます、佐々木リーダー。当然の処置をしたまでです。情報が滞るのは、組織としての体温が下がっている証拠ですから」
私はサバサバとした口調で返し、迷いなくマルチモニターに向き直った。
仕事に私情を持ち込まない。感情の起伏を業務に混ぜない。
「高橋さん」と呼ばれるこの場所で、私は完璧な事務屋としての矜持を保ち続けている。それが私の正解であり、自分を守るための絶対的な防壁だった。
だが、その防壁をやすやすと飛び越えてくる通知が、お昼休みにスマホを震わせた。
『佐藤悠真:お疲れ様です、遥さん。先日はありがとうございました。遥さんに言われた通り、事務の不備を正直に上司に相談しました。少しだけ業務の見直しが入ることになって、抱えていた雑務が減りました。……自分を守るための『割り切り』、少しだけ分かった気がします』
画面を眺めながら、私は小さく鼻を鳴らした。
(……まあ、あいつが潰れずに済むなら、私の残していったマニュアルが無駄にならなくていいわね。私の仕事の『完遂』としては、これでようやく合格点ってところかしら)
そう自分を納得させ、私は『乙。浮かれて入力ミスしないこと。次行こう』とだけ返した。
深入りはしない。あくまで元先輩としての、残務処理の一環。そう自分に言い聞かせるのが、今の私の流儀だった。
そんな私の「予防措置」を嘲笑うかのように、週の後半、佐藤から再び連絡が届いた。
『佐藤悠真:あの、ハンバーグのお礼の続き……ではないですが、駅の反対側に少し評判の良いカフェを見つけたんです。もしよければ、またお話しできませんか?』
ハンバーグのお礼の続き。
「あんた、お礼の無限ループでも狙ってるの?」
独り言をこぼしながらも、私の指はすでに承諾の返信を打っていた。
(……まあ、ハンバーグよりは胃に優しそうね。あいつのその後の経過観察も、元教育係としての落とし前みたいなものよ。今回で最後にするわよ)
自分でも呆れるほど強引な論理を積み上げ、私はその再会を「最終メンテナンス」として定義し直し、定時ちょうどに朝日フーズを後にした。
指定されたカフェは、駅前の喧騒から少し離れた、落ち着いた佇まいの店だった。
店内に入ると、窓際の席に座っていた佐藤が、私を見つけてパッと顔を輝かせた。
「遥さん! お疲れ様です。お忙しいのに、ありがとうございます」
「はいはい、その犬みたいな勢いはいいから座りなさいよ。それで、カフェなんてあんたらしくないじゃない」
私はドリンクを注文し、サバサバと対面の席に腰を下ろした。
佐藤は少し照れくさそうに笑い、それから今日あったという「小さな成功」を話し始めた。
「……遥さんに言われた通り、自分のペースを守ることに徹したんです。無理な納期は『現状の事務体制ではミスが出る』とはっきり伝えて。そうしたら、逆にお客さんから『誠実だね』って信頼してもらえて、小さな契約が取れたんです」
「……そう。当然の帰結ね。お前が無理をして自爆したところで、誰も責任なんて取ってくれないわよ。自分のキャパシティを正しく見積もるのは、プロとしての基本よ」
私の迷いのない言葉に、佐藤は何度も頷いた。
その瞳には、前回のファミレスで見た時のような澱んだ疲れはなく、少しずつ自信を取り戻しているような光が宿っている。
「やっぱり、遥さんの言うことは、いつも正解に繋がっています。……遥さん、本当にありがとうございます」
「正解に繋げたのはお前の行動でしょ。私はただの一般論を言っただけよ」
突き放すように言ったつもりだったが、佐藤は「それでも、僕にとっては遥さんの言葉がすべてなんです」と、真っ直ぐに私を見つめてくる。
(……だから、名前を呼びすぎだって。……耳が馬鹿になるわ、本当に)
会話の端々に挟まれる、私の名前。
今の職場で「高橋さん」という記号として扱われ、完璧に自律しているはずの私の内側に、その三文字が容赦なく踏み込んでくる。
遥さん。遥さん。
その響きに触れるたび、私のサバサバとした鎧が、内側からじわじわと熱で溶かされていくような感覚。
(……こいつ、前よりいい顔するようになったじゃない。……まあ、いいことだけど。私の教育が正しかったことの証明だしね)
内心で激しく悶える自分を、私は必死に冷遇した。
これは恋だの愛だのといった、割り切れない感情ではない。ただの「仕事の結果」に対する満足感だ。そうに決まっている。
「……遥さん。また、こうしてお会いしてもいいですか? 遥さんに会うと、なんだか背筋が伸びるんです」
「あんたの姿勢矯正のために私の時間を割けってこと? 図々しいわね」
「あはは、すみません。でも、本当なんです。遥さんに会えるのが、僕の……一週間の目標なんです」
控えめながら、直球すぎる言葉。
私は最後のアイスティーを飲み干し、氷をカランと鳴らした。
「……まあ、暇ならいいよ。返信は遅くなるかもしれないけど。お互い、次行こう、次」
私は立ち上がり、サバサバとした足取りでレジへ向かった。
会計を済ませ、店を出る。
駅の改札前で、佐藤は深々と頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。遥さんの教え、これからも守ります」
「教えなんて大げさなのよ。私はただの事務屋の正論を言っただけ。……ほら、早く帰りなさいよ。明日も早いんでしょ」
「はい! おやすみなさい、遥さん!」
一人になった帰り道。
夜風が頬を叩き、私は大きく息を吐き出した。
(……ま、あいつの教育を最後までやり切ったと思えば、これで本当の『退職』完了ね。未練も何もない。完璧だわ)
自分に言い聞かせ、私はいつもの凛とした足取りで駅へと向かう。
だが、次回の約束を、特に理由もなく断らなかった自分に、私は少しだけ溜息をついた。
割り切ったはずの過去。けれど、あの成長した姿と、耳に残る三文字の響き。
私の「サバサバ」という鎧は、もう自分でも気づかないほどに、脆く、薄くなっているような気がして。
それを認めるのが怖くて、私はわざと大きな足音を立てて、夜の街を闊歩した。
次こそは、ちゃんと線を引く。
そう決めたはずなのに、スマホのロック画面に映る自分の顔が、どこか柔らかく綻んでいるように見えて、私は慌てて視線を逸らした。




