第6話:定時後のドリンクバーと、解けない三文字
月曜日の株式会社朝日フーズは、驚くほど整然とした静寂に包まれていた。
かつての緑豊商事であれば、月曜の朝は地獄の釜の蓋が開いたような騒ぎだった。週末に溜まったFAXの見積依頼が山をなし、営業マンたちは血走った目で「これ、午前中な!」と叫びながら外回りへ消えていく。
だが、ここでは違う。
受発注システムは週末分を自動で仕分けし、私のモニターには優先順位が整理されたタスクリストが並んでいる。
「高橋さん、おはよう。今週も無理のない範囲で進めてね」
「おはようございます、佐々木リーダー。進捗は予定通りです。午前中にA社の発注処理を終えて、午後は来月の棚卸の準備に入ります」
私はサバサバとした口調で報告を済ませ、迷いなくキーボードを叩き始めた。
転職して二ヶ月。私はすでに、この「高橋さん」という記号を完璧に乗りこなしている。淀みのない仕事の流れ。一人の負担に頼らないチーム体制。これこそが私の正解であり、平穏な日常の守り神だった。
金曜日の夜、あの路地裏で佐藤に会ったこと。
それについては、土日の間に「ただの偶然」として脳内のシュレッダーにかけた。
久しぶりに名前で呼ばれた時に感じた、あの説明のつかない鼓動の乱れも、「アルコールによる血管拡張のせい」と結論づけて処理済みだ。割り切り。次行こう。それが私のスタンスなのだから。
午後十五時。ルーティンの合間に一杯のコーヒーを飲もうと立ち上がった時、スマホが震えた。
『佐藤悠真:お疲れ様です。先日は突然すみませんでした。お礼と言ってはなんですが、今日、もしお時間あれば何かご飯おごらせてください。……無理なら、後日でも大丈夫です』
画面を見つめたまま、私は数秒だけ思考を止めた。
お礼なんていいのに。そもそも、あれはただの偶然の遭遇だ。
だが、脳裏に浮かんだのは、街灯の下で見た佐藤の、あの薄汚れた靴と、光を失った瞳だった。
あいつ、あの後ちゃんと寝たのかしら。
(……まあ、一回くらいならいいか。あいつの顔色を確認するのも、元先輩としての義務みたいなものだしね)
私は自分を納得させるための「理由」を瞬時に組み立て、サバサバとした指つきで返信を打った。
『今日なら定時で上がれるわよ。駅前のファミレスでいい? おごりなら、一番高いハンバーグ食べるからね』
送信ボタンを押してから、私は再び「高橋さん」の顔に戻り、午後の業務へと没頭した。
十八時三分。
私はすでに、駅前のファミリーレストランの、奥まったボックス席に座っていた。
注文したのは、ドリンクバー。
佐藤を待つ間、私はスマホで経済ニュースを読み流していた。感情を動かさない、事実の羅列。それが今の私には心地よかった。
「……すみません、遥さん! お待たせしました!」
店内に響いたその声に、私は視線を上げた。
息を切らせて駆け寄ってきた佐藤は、金曜日よりは少しだけマシな顔をしていたが、それでもスーツの肩が落ちているのは変わらない。
そして、呼吸を整えた彼が、当たり前のように私の名前を呼ぶ。
(……何回呼ぶのよ。……まあ、呼び慣れてるだけよね。他意はないわ、あいつには)
一瞬、喉の奥がキュッとなるような感覚を覚えたが、私はそれをアイスコーヒーで強引に流し込んだ。
「お疲れ。座りなさいよ。おごりなんだから、ゆっくりメニュー選んでいいわよ」
「ありがとうございます……。本当に、来ていただけて嬉しいです」
佐藤は対面の席に座り、ようやく安堵したように肩の力を抜いた。
注文を済ませ、料理が届くまでの間、佐藤はぽつりぽつりと今の職場の状況を話し始めた。
「……やっぱり、新規開拓を一人でやるのは限界があるのかもしれません。事務の引き継ぎも、僕の伝え方が悪いのか、なかなかスムーズにいかなくて。見積もりのミスが続いて、先方から怒鳴られることもしばしばで……」
佐藤の話を聞きながら、私はドリンクバーのメロンソーダをストローでかき混ぜた。
かつての私なら、その「ミス」の内容を細かく分析し、解決策を提示していただろう。だが、今の私は外部の人間だ。
「佐藤、あんたね。そんなに気にすることないわよ。割り切っちゃいなさいよ」
「……え?」
「佐藤、あんたね。そのミスを全部自分のせいだと思ってたら、いくら命があっても足りないわよ。事務が回らないのは会社の体制の問題。あんたが泥を被るんじゃなくて、会社に改善を求めなさい。そうやって線を引かないと、いいように使い潰されるだけよ。」
私のサバサバとした助言に、佐藤は驚いたように目を丸くし、それからふっと小さく笑った。
「……遥さんにそう言われると、なんだかすごく楽になります。僕、ずっと自分が無能だからだと思って、夜中に一人で残業しながら自分を責めてたんです」
「ばかじゃないの。無能なのは、有能な事務を使い潰したあの会社の方よ。次行こう、次」
自分で言っておいて、少しだけ言葉が尖りすぎたかと思ったが、佐藤の表情はむしろ明るくなっていた。
「やっぱり、遥さんはすごいです。僕にとって、遥さんはずっと……目標なんです」
まっすぐな視線。そして、会話の端々に挟まれる、私の名前。
「遥さんは、今の会社ではなんて呼ばれてるんですか?」
「……高橋さんよ。普通でしょ、それが」
「そうですか。……僕は、遥さんって呼ぶのが一番しっくりきます。初めて会った時から、遥さんは遥さんだったので」
(……何その理由。……まあ、らしいけど)
内心で軽く悶える自分を、私は必死に冷遇した。
ときめいているのではない。これは、かつて面倒を見ていた後輩からの、純粋な敬愛に対する脳のバグだ。
「遥さん」と呼ばれるたびに、朝日フーズで完璧に構築した「高橋さん」という鎧に、目に見えないひびが入っていくような気がした。
「……あ、あの、遥さん」
「何よ」
「これからも、たまにこうしてご飯、お付き合いいただけますか。仕事の話じゃなくて、もっと……その、遥さんの今の話とかも、聞きたいんです」
ドリンクバーの氷が、カランと音を立てて溶けた。
私は窓の外、夜の駅前を行き交う人々を眺めた。
深入りは無用だ。割り切ったはずの過去。けれど、目の前で一生懸命に言葉を紡ぐ佐藤の様子を、今の私は「効率が悪い」と切り捨てることができなかった。
「……まあ、暇ならいいよ。私もたまには、ここのハンバーグ食べたくなるし」
「! はい! ありがとうございます、遥さん!」
パッと顔を輝かせる彼を見て、私は「放っておけないな……」と、無意識に心の中で呟いていた。
一時間ほどで、「明日も早いし、あんたも早く帰りなさい」とサクッと切り上げる。
レジで佐藤がぎこちなく会計を済ませるのを、私は少し離れた場所で眺めていた。
「じゃあ、お疲れ」
「はい、お疲れ様です、遥さん! また、LINEします!」
駅の改札へと向かう佐藤の背中を見送り、私は一人、逆方向のホームへと歩き出した。
夜風が頬を叩く。
(……ま、先輩としてのアドバイスだしね。おごりのお礼に話を聞いてやっただけ。割り切って、次行こう)
自分に言い聞かせ、私はいつもの凛とした足取りで階段を上る。
だが、電車を待つホームで、ふとスマホをチェックしてしまった自分に気づいて、私は苦々しく眉を寄せた。
まだ届いてもいない通知を待つなんて、サバサバした私の流儀じゃない。
私は強引に思考をシャットアウトし、明日やるべきタスクを脳内でリストアップし始めた。
それなのに。
メロンソーダの甘ったるい後味と、「遥さん」という名前の響きだけが、いつまでも喉の奥にこびりついて離れなかった。




