第5話:深夜二十二時、再会の最短距離
数歩の距離まで近づくと、街灯の下、佐藤の顔がより鮮明に浮かび上がった。
一ヶ月前に会社を去った時よりも、頬のラインは病的に鋭くなり、目の下に落ちた影が驚くほど深い。私が声をかけたことで、彼は弾かれたように背筋を伸ばしたが、その瞳には隠しきれない困惑と、それ以上の安堵が混じり合っていた。
「……遥さん?」
その響きが鼓膜を直接叩いた瞬間、私の思考回路に微かなノイズが走った。
転職してからというもの、新しい職場で耳にするのは「高橋さん」という、私の機能を指し示す記号ばかりだ。そんな平穏な日常に、何の予兆もなく放り込まれた私の名前。
それは、効率化された朝日フーズの日常には存在しない、泥臭い「緑豊商事」時代の私の欠片だった。
(……は? 何今の。……まあ、久しぶりだしな。耳が慣れてないだけだわ)
脳内で火花が散るような感覚を、私はコンマ数秒で「酒のせい」というフォルダへ放り込んだ。サバサバと、何事もなかったかのように表情を固定し、彼との距離を完全に詰める。
「やっぱり、佐藤ね。奇遇じゃない。接待帰り? 相変わらず遅くまでやってるわね」
努めて冷静に、大人の余裕を持って言葉を投げる。だが、至近距離で彼と向き合った瞬間、私の営業事務としての冷徹な観察眼が、ある事実を即座に弾き出した。
「……あんた、顔色悪いわよ。ちゃんと寝てるの?」
「……すみません。そんなに酷い顔、してますか」
佐藤は力なく、自嘲気味に笑った。その笑い方すら、以前より力強さが失われている。
彼が持っている鞄の角が擦り切れていることや、磨き上げられていたはずの靴が心なしか曇っていることに、私は瞬時に気づいてしまう。
「酷いなんてもんじゃないわよ。事務のサポート、上手くいってないんじゃない? 引き継ぎ資料、あれだけ細かく作ったのに。あの手順通りにやれば、少なくとも営業が深夜まで残るような事態にはならないはずでしょ」
私の指摘に、佐藤は力なく視線を落とした。街灯に照らされた彼の首筋は、以前より一回り細くなったように見える。
「……バレてますね。遥さんがいなくなってから、書類の不備とかスケジュールの調整ミスが増えて。後任の方も一生懸命なんですけど、前のようにはいかなくて……。僕の要領が悪いのもあるんですけど、確認作業だけで一日の大半が終わってしまうんです。新規の提案書を作る時間が、どうしても深夜になってしまって」
佐藤の声は低く、誠実な重みを伴って響く。彼は嘘をつけない男だ。私が去った後の「穴」が、今も彼をじわじわと削り続けていることが、その佇まいから痛いほど伝わってきた。
私がいた頃なら、ここで彼の手元にある書類を奪い取って、その場で赤ペンを入れていただろう。「貸しなさい、十分で終わらせるから」と。
だが、今の私にその権利も義務もない。私はもう、彼を守るための防壁ではないのだ。その事実を再確認するたびに、私は自分の「正解」を噛み締める反面、言いようのない砂を噛むような感覚を覚える。
本来なら、ここで「頑張れ」と無責任に励ますか、あるいは見て見ぬふりをして立ち去るべきなのだろう。けれど、私は私の流儀で、彼に現実を突きつけた。
「あのね、佐藤。仕事なんだから、どっかで割り切らなきゃ身が持たないわよ。お前一人が背負い込んだところで、会社が明日から急にホワイトになるわけじゃないんだから。事務が回らないなら、それを上に報告するのも仕事のうち。……あんた、真面目すぎるのよ。もう少し、自分のキャパシティを冷静に見積もりなさい。一人で抱え込むのは責任感じゃなくて、ただの独りよがりよ」
「……遥さんらしいですね。その言葉、久しぶりに聞いた気がします。なんだか、少しだけ目が覚めました」
佐藤は少しだけ、凍りついていた目元を和らげた。その表情の変化に、私の胸の奥がわずかに騒ぐ。自分でも意外なほど、彼の安堵したような顔に毒気を抜かれている。
夜の冷気が、酒の回った体に心地よく染みる。
周囲の繁華街の喧騒が、なぜかここだけは遠くに感じられた。
佐藤は何かを言いかけ、けれど言葉を選んでいるのか、視線を地面に落としたまま沈黙している。その沈黙が、今の私には少しだけ重かった。
「褒めてないわよ。……さて、私はこっちだから。あんたも寄り道してないで、早く帰って寝なさいよ」
「あ、あの、遥さん」
背を向けようとした私を、佐藤の声が鋭く引き止めた。
「……何? まだ何かあるの?」
「あの、またLINE、送ってもいいですか。……今度は、マニュアルの質問じゃなくて、その……業務以外のことも。遥さんと、またこうしてお話ししたいんです。……ダメ、ですか?」
控えめで、けれど拒絶を恐れるような、真っ直ぐな視線。以前の彼なら、こんな風に食い下がることはなかったはずだ。その変化が、私の「割り切り」をわずかに揺さぶる。
私は一瞬だけ間を置いてから、いつものように肩をすくめて、関心がないふりをした。
「まあ、暇ならいいよ。返信は遅くなるかもしれないけど、それで文句言わないならね」
「ありがとうございます。……じゃあ、本当におやすみなさい、遥さん」
その呼び声を背中に受けながら、私は一度も振り返らずに駅の階段を下りた。
地下鉄のホームに滑り込んできた電車の窓に、自分の顔が映る。
無表情。いつも通りの、感情を排した仕事ができる女の顔だ。
だが、窓に映る自分の耳が、微かに赤くなっているような気がして、私は強引に視線を逸らした。車内の冷房が当たっているはずなのに、首筋のあたりが妙に熱い。
座席に深く腰を下ろした瞬間、耳の奥に残った「遥さん」という名前の響きが、再び静かに浮上してきた。
(……ま、久しぶりだしな。酒のせいで感傷的になってるだけ。次行こう)
私は目を閉じ、いつもの潔さで思考を完全にシャットアウトしようとした。
けれど、鞄の中で微かに震えたスマホの通知を、私はすぐには確認できなかった。
快適な新生活、完璧なキャリアアップ。
その「正解」の中に、説明のつかない熱が紛れ込んでしまったことに、私はまだ、必死に気づかない振りを続けていた。
佐藤のやつれた顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「遥さん」
再びその声が聞こえた気がして、私は慌ててイヤホンを耳に押し込んだ。
割り切ったはずの過去が、今になって追いついてきたような、そんな妙な焦燥感だけが、電車の揺れと共に心に沈殿していった。




