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サバサバしたアラサー女子が、元後輩にだけ悶える理由  作者: 寝不足魔王


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3/11

第3話:システムの中の余白と、届く深夜の通知

 株式会社朝日フーズの朝は、清々しいほどの静寂から始まる。

 かつての緑豊商事のように、始業前から怒鳴り声のような電話対応に追われることはない。私はデスクに座り、お気に入りのタンブラーに入れたコーヒーを一口啜ってから、デュアルモニターの電源を入れた。

 画面に並ぶのは、整理整頓されたタスク管理ツールと、リアルタイムで更新される在庫状況。

「高橋さん、おはよう。昨日の極東水産へのイレギュラー対応、助かったわ。システムへのフィードバックも完璧」

「おはようございます、佐々木リーダー。いえ、ツールが使いやすいので、入力もスムーズでした」

「ふふ、謙遜しちゃって。あなたが入ってから、事務チームのミス率が目に見えて減ったのよ。本当に、高橋さんが来てくれて正解だったわ」


 転職して一ヶ月。私はすでに、この合理的な組織の歯車として完璧に機能していた。

 ここでは『根性』で乗り切るなんて理不尽は通用しない。誰もが無理なく動けるように業務が組み立てられ……

 周囲から「高橋さん」と呼ばれるたびに、私は自分の選択が正しかったことを再確認する。この清潔なオフィス、適切な業務量、そして何より、自分を消耗させない人間関係。

 これこそが、私が求めていた「大人の仕事」の在り方だ。


 昼休み、チームの同僚たちと連れ立って、オフィス街のテラス席があるイタリアンへ向かった。

「ここのパスタ、生麺で美味しいのよ。高橋さん、週末は何してるの?」

「……そうですね。溜まっていた本を読んだり、少し遠出をして買い物をしたり。前の会社では土曜も半分潰れていたので、まだこの自由さに慣れなくて」

「ええっ、そんなブラックだったの? 信じられない。高橋さんみたいな優秀な人をそんな風に使うなんて、その会社、見る目がないわね」

 同僚たちの屈託のない笑い声を聞きながら、私はフォークを動かす。

 ふと、一年前の自分を思い出す。

 デスクでカップ麺の湯気を浴びながら、片手でキーボードを叩き、もう片方の手で佐藤が持ってきた支離滅裂な見積依頼を修正していた。

『遥さん、すみません……これ、先方がどうしても今日中にって……』

 申し訳なさそうに頭を下げる、あの少し頼りない後輩の姿。

「……あいつ、ちゃんと昼、食べてるのかしら」

「え? 高橋さん、何か言った?」

「……いえ、なんでもありません。このパスタ、本当に美味しいですね」

 私は思考を遮断し、濃厚なクリームソースの味に集中した。

 終わったことだ。今の私には関係のない、遠い世界の出来事なのだから。


 だが、その「遠い世界」は、夜になると不意にポケットの中で震え出す。

 金曜日の深夜、一時過ぎ。

 ベッドに入り、ようやく意識が微睡みに沈もうとした瞬間、スマホのバイブレーションが枕元で鳴った。

 画面を確認しなくても、誰からかは分かっている。この時間に連絡を寄越すのは、彼しかいない。


『佐藤悠真:夜分に本当にすみません。マニュアルの三十二ページ、大和調味料の納品ルールの件ですが、以前遥さんが仰っていた「隠れたルール」が見当たらなくて……。もしお時間あれば、ヒントだけでもいただけないでしょうか』


 私は溜息をつき、スマホをサイドテーブルに置こうとした。

 だが、指が止まる。

 文面に、焦りが滲んでいる。誤字はないが、句読点の打ち方がどこか不安定だ。

 ……また、一人で抱え込んでいる。

 緑豊商事の新規開拓営業は、事務方のサポートがあって初めて成り立つ無理なスキームだ。私が抜けた穴を埋める後任は、確か中途入社の慣れない女性だったはず。


 私は上体を起こし、最短の言葉を選んでフリック入力した。

『その件は、マニュアルに書いた通り。現場の担当者に直接聞くのが一番早い。あと、後任の担当者に相談しなさい』

 送信ボタンを押してから、私は自分に言い聞かせる。

 冷たいのではない。今の私は別の会社の人間。ここで線を引くのが、お互いのため。


 すぐに既読がついた。

『すみません、そうですよね。夜分に失礼しました。月曜日、自分で確認してみます。ありがとうございました、遥さん』

 ……また、「遥さん」か。

 今の職場では誰も呼ばない、その名前。

 静かな部屋に、その三文字が残響のように漂っている気がして、私は少しだけ耳を塞ぎたくなった。


 翌週の金曜日。

 朝日フーズでは、私の歓迎会を兼ねた二度目の飲み会が開催されることになった。

「高橋さん、今日は遠慮しないで飲んでね。リーダーが経費で落としてくれるから!」

「ほどほどに付き合いますよ。あまり飲みすぎると、明日の予定に響くので」

 サバサバとした返事を返しつつ、私は指定された店を確認する。

 場所は、オフィス街から少し離れた、落ち着いた佇まいの居酒屋。

 地図を見て、私はわずかに眉を寄せた。

 ……緑豊商事のエリアから、地下鉄で二駅。決して近くはないが、仕事帰りに営業マンが流れてくるには、絶妙に「あり得る」距離感だ。


 私は鏡の前で髪を整え、仕事用の「高橋さん」の仮面をしっかりと装着した。

 快適な新生活。完璧なキャリアアップ。

 それを揺るがすものなんて、何一つ存在しないはずだった。

 

 夜の街へと踏み出す私の足取りは、どこまでも軽やかで、けれど心の一角には、自分でも気づかないほどの小さな違和感が、棘のように刺さったままだった。


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