第2話:新天地の静寂と、残された残響
退職願を出す瞬間に、ドラマチックな葛藤なんてものは必要ない。
翌朝、始業の三十分前。私は課長のデスクに、白い封筒を一点の曇りもなく差し出した。
「……高橋さん、これは?」
「退職願です。一ヶ月後の末日で。規定通り、残っている有給もすべて消化させていただきます。引き継ぎ資料は、今日中に叩き台を作っておきますので」
「いや、急すぎるだろう。今、繁忙期なのは分かってるよね? 君が抜けたら営業事務のラインが止まるんだよ」
「止まらないようにマニュアルを作るのが私の仕事です。それに、人員の補充と管理は会社の仕事ですよね。私の責任範囲外です」
課長が絶句するのを、私はサバサバとした無表情で見届けた。冷たいと言われようが、薄情だと言われようが構わない。私は自分の人生を、この沈みゆく泥舟と心中させるつもりは毛頭なかった。
デスクに戻ると、遠くの席で佐藤がこちらを見ていた。
何かを言いかけて、けれど周囲の喧騒に圧されて口を閉じる。私はあえて彼と目を合わせず、画面上の「引き継ぎ用フォルダ」の整理に没頭した。
一ヶ月。それは、あっという間だった。
私は淡々と、誰が読んでも迷わない完璧な手順書を作り上げた。取引先ごとの癖、見積もりの落とし穴、イレギュラー時の連絡先。誰が読んでも迷わない、現場の知恵を詰め込んだマニュアルは、私がいなくなった後の椅子に座る誰かへの、唯一の餞別だ。
最終日の定時。
花束も送別会も、すべて丁重に、けれど断固として断った。
荷物をまとめた紙袋を手にエレベーターホールへ向かおうとした時、背後から足音が追いかけてきた。
「……遥さん!」
振り返ると、肩で息をする佐藤が立っていた。手には小さな、地味な紙袋を握りしめている。
「これ、……お疲れ様でした。花束とか、困るかなと思って。入浴剤とか、実用的なものなんですけど」
「佐藤。……わざわざ、ありがとう。気を遣わなくてよかったのに」
「いえ。……あの、遥さんがいなくなると、本当に。……寂しくなります」
佐藤の瞳が、少しだけ揺れている。その真っ直ぐな視線に、私は一瞬だけ胸の奥を突かれたような感覚を覚えた。けれど、すぐにそれを「ただの感傷」と定義して、心の外へ放り出す。
「仕事なんだから、慣れるわよ。……お前も、あんまり無理しすぎるな。じゃあね」
それが、私が緑豊商事で発した最後の言葉だった。
それから二週間後。
私は新しい「戦場」に立っていた。
大手寄り食品商社、株式会社朝日フーズ。
オフィスは清潔で、空調の音すら上品に聞こえる。何より驚いたのは、デスクに置かれたデュアルモニターと、最新の受発注システムだった。
「高橋さん、ここの入力はプルダウンで選ぶだけだから。もし分からないことがあったら、チームのチャットに投げてね。誰かがすぐ拾うから」
「ありがとうございます、佐々木リーダー。承知しました」
転職先での呼び方は、当然ながら「高橋さん」だ。
前の職場の、あの騒がしいフロアで、特定の誰かだけが呼んでいた「遥さん」という響きは、もうここにはない。それが当たり前だし、むしろ今の私には、この適度な距離感のある呼び方の方が心地よく感じられた。
午前中の業務。
前職なら、営業マンの殴り書きのようなメモを解読し、電話で在庫を確認し、手打ちで数字を並べて三時間はかかっていた見積もり作業。
それが、ここではわずか十五分で終わった。
システムが自動で最適価格を算出し、在庫引当もワンクリック。営業側もタブレットで情報を共有しているため、無駄な確認電話すら鳴らない。
「……何これ、天国?」
思わず独り言が漏れる。
チーム制なので、一人の営業に執着されることもない。業務は適切に分散され、誰かが忙しければ自然とフォローが入る。
「高橋さん、その案件、私が承認回しておいたから。もう帰っていいわよ。お疲れ様」
時計を見ると、十八時二分。
定時を過ぎてわずか二分。周囲は当たり前のように帰り支度を始め、デスクを整えている。
ビルを出ると、まだ空には赤みが残っていた。
前職では、この時間はまだ戦いの最中だった。喉は渇き、目は充血し、鳴り止まない電話に殺意を覚えながらキーボードを叩いていた時間だ。
それが今は、夕焼けを眺めながら駅まで歩く余裕がある。
駅ビルのスーパーに入り、割引になっていない、少しだけ良い惣菜をカゴに入れる。
前の会社よりだいぶマシ。
いや、比較するのも失礼なレベルだ。
自分の決断が正しかったことを、細胞の一つ一つが肯定しているような全能感があった。割り切って正解。過去を切り捨てて正解。
帰宅し、静かな部屋で食事を済ませる。
ふと、テーブルに置いたスマホが震えた。
画面を見ると、見覚えのある名前からLINEが届いている。
『佐藤悠真:夜分にすみません。高橋さんからいただいたマニュアルの、十六ページの件で一点だけ確認させてください』
呼び方が「高橋さん」に変わっている。
当たり前だ。もう私は彼の先輩ではないし、外部の人間なのだから。
一瞬だけ、画面を指でなぞる。
脳裏に、あの最終日に見た、佐藤の少しだけ赤くなった目と、細くなった肩が浮かぶ。
……あいつ、ちゃんとご飯食べてるのかしら。
……いや。
私は首を横に振り、スマホを伏せた。
「もう、私の会社じゃないし」
今の私は、株式会社朝日フーズの高橋遥だ。
快適なシステム、協力的なチーム、そして残業のない日常。
あの泥臭い日々に、戻る理由なんて一ミリも存在しない。
私は贅沢な入浴剤を湯船に溶かし、香りに包まれながら目を閉じた。
耳の奥で、微かに「遥さん」と呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど。
それはきっと、ただの疲れが見せた幻聴だ。
そう割り切って、私は深い眠りに落ちていった。




