第10話:本音の残響と、揺らぐ防壁
月曜日の朝、株式会社朝日フーズのオフィスに差し込む光は、残酷なまでに澄み渡っていた。
私はいつもより三十分早くデスクにつき、端末を起動させる。画面に並ぶタスクリストを、まるで見えない敵をなぎ倒すかのような勢いで整理していく。
「高橋さん、おはよう。……って、もうその案件終わらせたの? 相変わらずキレッキレね」
隣の席の同僚が、コーヒー片手に目を丸くしている。
「おはようございます。停滞は損失ですから。午前中に定型業務を片付けて、午後は新規プロジェクトのフロー構築に充てます」
私はサバサバとした口調で返し、視線をモニターに固定した。
自分でも分かっている。今の私は、わざと自分を追い込んでいる。余計なことを考える隙間を、一分一秒たりとも脳内に残したくないのだ。
先週末、公園で佐藤と過ごした時間。私服姿のあいつに「素敵です」なんて直球を投げられ、あろうことか映画の約束までしてしまった自分。
(……正気じゃないわね。仕事とプライベートを切り分けるのが私の流儀でしょ。あいつとの交流なんて、本来なら『残務処理』の範疇を超えていいはずがないのに)
キーボードを叩く音が、静かなフロアに硬く響く。
私は「高橋さん」だ。効率を愛し、無駄を嫌い、感情に振り回されない完璧な事務屋。その鎧を、一ミリの隙もなく着こなしているはずだった。
だが、お昼休憩。屋上のベンチで一人、サラダを口に運んでいた私のスマホが、無慈悲に震えた。
『佐藤悠真:お疲れ様です、遥さん。昨日は本当にありがとうございました。遥さんに会えると、自分の弱さも『割り切って』前に進める気がします。……遥さんの言葉は、僕にとって魔法みたいです』
サラダを噛む手が止まった。
(……は? 魔法? あんた、ポエムでも書いてるつもり? 事務屋の正論を魔法なんて呼ぶんじゃないわよ)
心の中で毒づきながらも、私の視線は「遥さん」という三文字に釘付けになっていた。
今の職場で呼ばれる「高橋さん」という響きは、私のプロフェッショナルな部分を肯定してくれる。けれど、佐藤が呼ぶ「遥さん」という響きは、もっと深い、自分でも忘れていた内側の柔らかい部分に、土足で踏み込んでくるような暴力的なまでの真っ直ぐさを持っていた。
午後の業務も、私は機械のように完璧にこなした。
だが、終業間際。私は自分でも理解しがたい行動を取っていた。
『高橋遥:今日、例のマニュアルの補足資料を整理したから。緑豊商事の近くの公園に寄りなさい。ついでに渡してあげるわ』
送信ボタンを押してから、私は自分のこめかみを押さえた。
(……ついでって何よ。私の帰り道と正反対じゃない。……まあ、あいつが変なミスをして、私の経歴に泥を塗られたくないだけ。そう、これはアフターフォローの徹底。ただのプロ意識よ)
自分への言い訳を完璧に整え、私は朝日フーズを後にした。
日没後の公園。ベンチに腰を下ろしていると、遠くから走ってくる佐藤の姿が見えた。
「はぁ、はぁ……っ。遥さん! すみません、お待たせして!」
「……走らなくていいって言ったでしょ。見苦しいわよ。ほら、これ。追加のチェックリスト。目を通しなさい」
私は用意していた封筒を無造作に突き出した。
「ありがとうございます……。わざわざ、ここまで……」
「ついでよ。言ったでしょ」
私はサバサバと返し、隣のベンチに座るよう促した。佐藤は恐縮しながら腰を下ろし、大事そうに封筒を抱えた。
「……遥さんにこうして心配されるの、なんか落ち着きます。……遥さんは、僕にとって本当に特別な先輩なんです」
(は? 特別? ……大げさなのよ。あんたの脳内はどうなってるの)
表面上は「は? 何言ってるの、あんた」と鼻で笑ってみせた。けれど、隣から伝わってくる彼の真剣な体温に、私の防壁がじわじわと熱を帯びる。
「特別な先輩って何よ。私はただの元同僚。あんたを甘やかすつもりなんて一ミリもないわよ」
「分かってます。遥さんは厳しいです。でも、その厳しさが、今の僕には何よりも救いなんです。遥さんが辞めてから、自分のダメな部分ばかり見て、立ち止まってました。でも、遥さんに会えるようになってから、少しずつ……自分が好きになれた気がします」
佐藤が、控えめに、けれど逃げ場のないほど真っ直ぐな瞳で私を見つめる。
「遥さんに認められたい。遥さんの隣で、恥ずかしくない自分になりたい。……そう思うだけで、世界が違って見えるんです。……遥さん」
(……やめて。そのトーンで名前を呼ぶのは。……耳が、もう、おかしくなりそうじゃない)
静かな夜の公園。佐藤の声だけが、やけにクリアに響く。
私は必死に、いつもの「サバサバとした私」を召喚しようとした。感情を排し、この状況をロジカルに分析し、適当な正論で切り捨てて帰る。それが私の必勝パターンだ。
なのに。
喉の奥が熱くて、適切な言葉が出てこない。
耳元が火照り、視界がわずかに揺れる。
「……あっそ。自分磨きは勝手にやりなさいよ。私はお前の育成ゲームをやってるわけじゃないんだから」
私は逃げるように立ち上がった。
「あ、遥さん! 行っちゃうんですか?」
「当たり前でしょ! 明日も早いんだから。……じゃあね!」
私は振り返らずに、早足で駅へと向かった。背後から「おやすみなさい、遥さん!」という声が聞こえたが、私はそれに応える余裕すらなかった。
地下鉄の車内。
私は窓に映る自分の顔を見て、戦慄した。
そこには、仕事ができるサバサバとした女ではなく、耳まで真っ赤にして、視線を泳がせている一人の狼狽した女がいた。
(……何よ、これ。何やってんのよ、私。あんな子供みたいな真っ直ぐな言葉に、なんでこんなにかき乱されてるの)
「次行こう」と心の中で唱えても、佐藤のあの瞳が、あの「遥さん」という震える声が、網膜の裏に焼き付いて離れない。
割り切ったはずの過去。
合理化された新しい日常。
それらが、たった一人の後輩が放つ、不器用な本音によって粉々に砕かれていく。
私の「サバサバ」という鎧は、もう防御機能を失っていた。
それを認めるのは、これまでの自分を否定するようで、恐ろしい。
けれど、胸の奥で暴れるこの「割り切れない熱」を、私はもう、酒のせいにも仕事の疲れのせいにもできずにいた。
家路を急ぐ私の足取りは、いつものようにスマートではなく、どこか心もとなく揺れていた。




