第1話:割り切りの美学と、繰り返される名前
都心から少し離れた、築三十年ほどのオフィスビル。その三階に位置する株式会社緑豊商事の営業部フロアには、常にどこか湿り気を帯びたような、それでいて殺気立った空気が停滞している。
特にこの時期、お中元とお歳暮の狭間にある繁忙期ともなれば、電話のベルは鳴り止まず、複合機は絶え間なく吐き出される伝票で悲鳴を上げていた。
「高橋さん、これ! 極東水産の修正分、至急でお願い!」
「はい、承知しました。納期回答、本日中でいいですね?」
「高橋さん、こっちの見積もりも! 大和調味料へのサンプル送付の手配も頼むよ!」
「了解。配送業者に確認取ります」
私、高橋遥、二十九歳。役職は営業事務。
飛んでくる指示を淡々と捌きながら、私は一度も眉をひそめることなくキーボードを叩き続ける。私の仕事は、営業マンたちが外で振り回してきた「仕事の種」を、目に見える形に整えて書類という名の土に埋めることだ。
彼らがどれだけ焦っていようが、どれだけ無茶な要求をしてこようが、私には関係ない。仕事は仕事。感情を挟む余地なんて、この机の上のどこにもありはしなかった。
手元の電話が鳴る。受話器を肩で支えながら、視線は画面上の在庫表を走らせた。
「はい、営業事務の高橋です。……ええ、その件でしたら先ほど出荷指示をかけました。伝票番号は……少々お待ちください。今、チャットで送ります」
喋りながら左手でマウスを操作し、右手で別の案件の見積もりを打ち込む。
隣の席の事務員が「そんなに一度にやってミスしない?」と呆れたように見てくるが、私は答えずにエンターキーを叩いた。ミスをしないために、感情を殺して機械になっているのだ。それだけが、この戦場のようなフロアで私を守る唯一の盾だった。
「……あ、あの。遥さん」
背後から、控えめすぎる声がかけられた。
振り返らなくてもわかる。新規開拓営業チームの佐藤悠真だ。入社三年目、二十七歳。このフロアで唯一、嵐のような喧騒の中で「静止画」のように見える男。
「佐藤か。何。今、極東水産の修正やってるから、手短に」
「すみません、お忙しいところに……。これ、新規の取引先への見積もりなんですけど、急ぎでお願いできればと思いまして」
差し出されたクリアファイルを受け取り、中身を素早く確認する。新規開拓。この会社で最も過酷で、最も報われない部署。大人しくて押しが弱い佐藤が、なぜこの職種に配属されたのかは、入社当時からの七不思議の一つだった。
「これ、項目の数が多いわね。……先方の締め切りは?」
「十四時までには、と言われていまして。……もし無理なら、僕が自分でやりますので」
「いい。お前がやったら入力ミスして、結局私が直すことになるでしょ。外回りに行ってきな。十四時までにはメールで送っとく」
「……ありがとうございます。本当に、助かります、遥さん」
佐藤は申し訳なさそうに、けれど少しだけホッとしたような顔で頭を下げた。
私は、彼の呼び方に特別な感情なんて持っていない。
ただ、今の「助かります」という言葉と、名前の響きが、耳の奥にほんの少しだけ残る。
……まあ、気のせいだ。仕事に戻ろう。
昼休み。十五分でコンビニのサンドイッチを胃に流し込み、私はスマホを開いた。
画面に映し出されているのは、大手転職エージェントのマイページだ。
今の会社に大きな不満があるわけではない。給料は並だし、人間関係も「仕事だと割り切れば」耐えられないほどじゃない。
だけど、ふと思うのだ。
このまま、誰かの無茶振りに「了解です」と返し続け、数字にもならない事務作業で一日を終える。それをあと三十年も続けるのか?
午後のフロアは、午前中よりもさらに熱を帯びていた。
別の営業マンから、本来なら営業がやるべき領収書の整理まで押し付けられそうになる。
「高橋さんなら早いからさ、ついでにこれもお願いできないかな?」
「それは私の業務範囲外ですが、今のタスクが終わってからで良ければ、明日以降に対応します。それでいいですね?」
嫌な顔をせず、けれどきっちりと線を引く。それが私のやり方だ。
相手は少し不満そうだったが、私の事務的な正論に押し黙る。
一度、「いいですよ」と言ってしまえば、そこから際限なく「便利屋」としての役割が膨れ上がっていく。この会社は、優しい人間から順に食いつぶされる構造になっているのだ。だから私は、サッパリとした、けれど決して崩さない壁を周囲に張り巡らせていた。
定時を過ぎ、窓の外が完全な夜に飲み込まれても、フロアの電気は消えない。
二十時を回った頃、ようやく最後の伝票を打ち終えた。
ふと視線を上げると、遠くのデスクで佐藤が一人、パソコンの画面を凝視していた。
肩が落ち、キーボードを叩く指先にも、朝のような鋭さはない。
「……佐藤。まだいたの」
帰り際、彼のデスクの横を通るときに声をかける。
佐藤は弾かれたように顔を上げ、焦点の合わない目で私を見た。
「あ、遥さん。お疲れ様です……。あの見積もり、ありがとうございました。おかげで商談が進みそうです」
「そう。よかったわね。……でも、そんな時間までやってたらキリがないわよ。適当なところで切り上げなさいよ」
「……はい。そうですね。ただ、新規開拓の一人担当になってから、自分のペースが掴めなくて。要領が悪くてすみません」
佐藤は力なく笑った。
その様子に、どこか危ういものを感じなくもなかったが、深入りするつもりはない。
本来なら、ここで「何か手伝おうか?」とか、もっと踏み込んだ言葉をかけるべきなのかもしれない。
だけど、私は淡々と「割り切って」いる。
「そう。仕事なんだから、自分で折り合いつけるしかないわね。……じゃ、お先に」
「……はい。お疲れ様です、遥さん」
背中にかけられた声を振り切るようにして、オフィスを後にした。
夜の冷たい空気が、火照った頭を冷やしてくれる。
最寄り駅までの道すがら、私は立ち止まって夜空を見上げた。月も星も見えない、濁った都会の空。
佐藤のあの、すり減ったような背中。
そして、私のこの、何も感じなくなっていく心。
この会社にいたら、いつか私も、あんな風に感情の枯れ果てた目をするようになる。あるいは、完全に心が機械になってしまうか。
どっちも、ごめんだわ。
私はスマホを取り出し、転職エージェントから届いていた一通のスカウトメールを開いた。
『株式会社朝日フーズ:営業事務チーム・リーダー候補募集』
大手寄り。システム化。チーム制。
条件は今よりずっといい。何より、ここではないどこかへ行ける。
「……よし、次行こう」
迷いはなかった。
私は迷いのない足取りで駅の階段を下りていく。
明日、出社したら一番に退職願を出そう。
佐藤のことや、今抱えている案件のこと。一瞬だけ頭をよぎったけれど、すぐに「まあ、いいか。私の人生だし」と割り切った。
高橋遥、二十九歳。
私は、私を消耗させるこの場所を、今日、捨てることに決めた。




