第5話 宿なし、魔物、ドワーフ馬車
「急がば回れ」という格言がある。だが、この過酷な巡礼路において、その言葉は甘い毒薬でしかなかった。
魔物の巣窟を恐れ、平坦な旧街道を選んだのが運の尽きだ。道は永遠を思わせるほどに遠回り。感覚の消え失せた両足に、追い打ちをかけるように二つの聖域――『白翼の断頭台』と『天を穿つ逆鱗』が、その険しき牙を剥く。
死力を尽くし、二つの試練を叩き伏せた。だが、聖域を制した勝利の余韻に浸る余裕など、微塵もありはしない。
ふと正気に戻った瞬間、全身の血の気が引いた。
……宿が、ない。
震える指で通信魔石を握り、数軒、十数軒と近隣の宿場へ思念を飛ばすが、返ってくるのは「満室」という無慈悲な拒絶のノイズばかりだ。
「――嘘だろ。あの難所を越えて、これか?」
泥にまみれた体で、魔物が跋扈する夜の森での野宿。その最悪の選択肢が脳裏をかすめた瞬間、膝の震えが止まらなくなった。
ようやく一件の予約をもぎ取ったが、安堵の賞味期限は刹那だった。そこからさらに二時間、漆黒の森を這わねばならないという。
日は完全に落ちた。
山道の闇は、人里のそれとは濃度が違う。粘り気のある暗がりのあちこちで、ガサリ、と厭な湿り気を帯びた地響きがする。
見れば、数十頭の『影猿』が、斜面から、枯れ木の枝から、じっとこちらを凝視していた。
鳴き声ひとつない。ただ、腐りかけた獲物を値踏みするような無数の赤い眼光が、私のボロボロの肉体を射抜いている。
(襲われる。闇に引きずり込まれる――)
恐怖に背中を焼かれながら、一歩一歩、呪文を唱えるように杖を突く。
その時だった。
背後から闇を切り裂く魔石の灯火が差し込み、一台の重厚なドワーフ馬車が、乾いた音を立てて脇に止まった。
御子台に座る髭もじゃの男が、ぶっきらぼうに声をかけてくる。
「おい、こんな時間まで何してやがる。死にてえのか? ……乗ってくか?」
天から降ってきたようなその声に、喉が震えた。
「えっ!? いいんですか?」
口ではかろうじて礼を絞り出したが、心の中の獣は、なりふり構わず叫んでいた。
(乗せてくれ。頼む、頼む、頼む! この地獄から救い出してくれ!)
車内は、脂と鉄の匂い、そして確かな「生きた者の体温」に満ちていた。
今日ほど、他者の慈愛――この世界で『お接待』と呼ばれる奇跡のような救済に、骨の髄まで感謝した日はない。




