婚約破棄を宣告された瞬間、大神官様が『では聖約を結ぼう』と言いました
白い石畳は、朝の光を受けてひんやりと光っていた。神殿の大広間は天井が高く、柱の影がゆっくりと動いている。年に一度の裁定祭。神意に背いた者を聖火の前に引き出し、罪と罰を世に示す日だ。香の煙が薄く漂い、人々は祈りの姿勢でこちらを見ている。
私は、石床の中央に立っていた。聖女候補として身につけてきた白衣は、今日は被告の白に見える。左側の参列席では、伯爵令嬢ミラがハンカチを握りしめ、震えていた。目は涙でいっぱいで、睫毛が光を弾いている。その隣に王太子セオドリック。金の髪に薄い冠。彼の目は、私のほうを見ようとしない。
「リシェリア・ヴェイン」
審問官の低い声が、石の壁に反響した。
「汝は嫉妬に駆られ、ミラ・セルド殿の祈祷衣に呪符を縫い込み、王国の祭礼を穢そうとした。ゆえに聖女候補の資格を剥奪し、王太子殿下との婚約を破棄する。告発の証は、これに」
銀盆が運ばれ、布がめくられる。そこには細い藍の糸と、小さな紙片。紙には複雑な文様が写経のように詰まっていた。糸の色に見覚えがある。青曜草で染めた糸に似ているが、その時期にあの草は……。
「弁明はあるか」
私はすぐには口を開かなかった。言葉は、急ぐと薄くなる。香の匂い、柱の影の角度、人々の息の長さ。そういうものを先に並べ、頭のなかで手順に置き換える。順番を間違えると、こちらが崩れる。
「無実です」
結局、それしか言えない。けれど、それだけでは足りないから、続ける。
「その糸は青曜草で染められているはずです。青曜草は夏の終わりに枯れ、今年は祭礼局の倉に在庫がありません。私は今季、その糸を使っていません」
審問官の目が、私の指先に落ちた。私は手袋の縁を揃える。震えてはいけない。ここで震えたら、涙と同じ器に入れられる。
「倉の在庫は神殿南庭で賄われておる。青曜草は温室で育てられ、少量が残っていた。その印が、ここに」
審問官がもう一枚の帳面を掲げる。確かに、南庭温室からの摘み取り記録がある。署名欄には、祭司見習いの名前。丸く、幼い字。ミラ・セルド。
ざわめき。群衆は、名前の形を見て反応する。「ミラの署名?」「ではリシェリア様は……」そういう声が、輪になって私を囲む。
王太子が立ち上がった。澄んだ声は舞台にふさわしく、よく通る。
「リシェリア。君は、僕の婚約者だった。だが、神の前で嘘はつけない。今日、ここで婚約を解く。罪は審議に任せるが、僕は許さない」
私は彼の足元を見る。金の縁取りの靴は、磨かれて光っている。私を見ないその目を、昔は優しさだと思った。今はただ、光を避けているように見える。
「理由はございますか、殿下」
私の声は、驚くほど静かに出た。
「嫉妬だ。ミラを妬み、彼女の祈りを汚した。証は呪符、糸、そして……神託だ。ミラは夢に見たと言う。君の手が、夜に祈祷衣へ針を入れるのを」
夢。人は夢を信じたがる。夢はたしかに神に近い。けれど、夢は手順にはならない。手順は目に見えるものと、触れられるものだけで組む。そう教えてくれた人は、この場にいない。父は早くに亡くなった。祭礼局の仕事を私に教えたのは、帳簿と、誰でもない日常だ。
「私は、誰も責めません」
私はそう言った。ミラがさらに泣いた。王太子の横顔に怒りが走る。群衆の視線が、わずかに熱を帯びる。泣かない者は冷たい。怒らない者はずるい。昔からそうだ。
そのときだった。
長い裾の衣の裾が、石床を擦る音。壇上の奥――聖火の向こう、祭壇の階段を、ひとりの男が降りてきた。銀の髪が光を含み、灰色の瞳は夜明けの湖のように静か。大神官アストラル。
彼は聖火の前で止まり、長杖を一度だけ軽く打ちつけた。乾いた音が広間に広がり、ざわめきが裂けた。
「愚かな祭礼だな」
声は低く、通る。人々が背筋を伸ばす。誰かが息を飲む音が聞こえた。
「神は奇跡で裁かぬ。理で裁く」
その一言で、空気の向きが変わった。
審問官が慌てて一歩下がる。「大神官様、これは審議の定めにより……」
「定めは守る。ゆえに介入する。三つ、理由がある」
彼は指を一本立てる。私ではなく、群衆に向けて。言葉は誰よりも遠くの者にも届く速度で進む。
「一つ目。呪符に使われた青曜草は神殿南庭の温室から摘まれた。摘み取り記録の署名は祭司見習いミラ・セルド。これは彼女が罪人ということではない。だが“誰が触れたか”は明らかにせねばならぬ」
ミラが小さく首を振る。王太子が彼女の肩に手を置く。アストラルは視線だけでそれを止めた。握る手の力は、理にはならない。そう言っている目だった。
「二つ目。その糸の保管箱の封印印章に、王太子の紋がある。封を割る権限は誰にあった?」
審問官の顔が強張る。「保管庫の開封は、王太子殿下の随行書記と、神殿側の記録係が……」
「王太子が罪人だと言っているのではない。手順に穴があると言っている」
言葉は刃ではなく、指だ。穴を指し示し、誰にでも見えるようにしてしまう。その残酷さを、彼の声の温度が少しだけ和らげる。
「三つ目。呪符の文様は“逆転の式”だ。害ではなく、守護に転じる構造を持つ。祈祷衣に縫い込めば、着る者の祈りを“他者の願い”に引き受けてしまう。――誰のために、その式は書かれた?」
私は初めて息を呑んだ。式の形は確かに見覚えがある。幼い頃、写経の端に父が描いた遊び心に似ている。逆転の式。ひっくり返すのではなく、向きを変える。神に無理をさせないための、古い知恵。
「以上三点。ゆえに、今この場で“嫉妬による害意”を断ずることはできぬ。審議を三日延期する」
王太子が前に出る。「しかし大神官、神は今日、ここで裁きを下すはずだ。皆が見ている」
「神は沈黙している」
アストラルは微笑まなかった。淡々と、石のように。
「沈黙は“待て”の意だ。急くな」
広間は静まった。誰かが咳をし、誰かが立ち上がりかけて座り直す。その動きがすべて、彼の言葉に従ったように見える。
アストラルは私のほうを見た。目が合う。灰色の瞳は冷たくない。湯気のない湯のようだ。温かいが、蒸発して人を酔わせない。
「リシェリア・ヴェイン」
「はい」
「そなたを仮聖女として神殿の監査に置く。三日のあいだ、私と“聖約”を結べ」
ざわめきが再び波のように戻ってきた。聖約。それは結婚ではない。神と人の間に結ぶ短期の誓い。沈黙の前で、感情を断ち、理を優先する契約。
「条件は三つ。互いに敬称を用いること。日中は政務、夜は記録。期間中、感情を口にしないこと。喜びも、怒りも、恋も」
恋。その語が浮かんだ瞬間、王太子の視線が私の頬に触れた。私は目を上げない。
「承知しました」
膝をつき、服の裾を整える。声に余計な揺れを入れない。神の前で、手順だけを置く。
「奇跡ではなく理で」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。アストラルの眉がわずかに動く。
「よろしい」
彼が長杖を打つ。聖火が一瞬だけ揺れた。扉の隙間から風が入ったのだろう。だが、誰かはそれを“神意”と言い、誰かは“偶然”と言う。
審問官が祭礼の形式に従って宣言する。「審議は三日後に再開する。神殿監査下、被告……もとい、仮聖女リシェリアは神殿の監督のもとに置かれる」
王太子が口を開いた。「待て。リシェリア、君は……」
「殿下」
遮ったのはアストラルだった。声は高くないのに、壁になった。
「この場は神殿だ。感情の言葉は、神殿の外で」
王太子の唇が固く結ばれる。ミラは涙で濡れたハンカチをさらに握りしめ、顔を伏せた。彼女の肩が震えている。私はそれを見ない。
◇
神殿の奥は、表の白とは違う匂いがした。古い羊皮紙と、石の冷たさ。風の通り道を知っている壁の手触り。案内された部屋は小さく、机と椅子がひとつずつ。窓は高い位置で、光が斜めに落ちる。紙を読むにはじゅうぶん。眠るには少し眩しい。
扉が閉まる音のすぐ後、軽いノック。アストラルが入ってきた。衣のすそには灰がかすかに付いている。聖火の側に立っていた証拠。
「ここが記録の間だ。三日のあいだ、記録はすべてここに積む。監査は“書かれたもの”から始める」
「はい」
返事をして、机の上の紙を重ね直す。乱れた紙は、考えを乱す。紙を揃えるのは祈りの一部だと、昔の司祭が言っていた。
「最初に確かめるべきは、糸だ」
アストラルが、細い藍の糸を小さな袋から取り出した。証のひとつ。光にかざすと色がわずかに違う。青曜草でも、採取した時期や乾燥の仕方で色は変わる。
「青曜草は、乾燥三日、陰干し七日。温室なら、もう少し短い」
「知っているな」
「祭礼局の倉で、何度も干しましたから」
袋の口を結び直す。指先に染料の匂いが移る。懐かしい。夏の終わりの匂いだ。
「この糸は温室育ちだ。だが在庫表と一致しない。摘み取りの記録はあれど、倉への入庫記録が抜けている」
アストラルは紙を広げた。日付が並び、いくつかの欄が空白のままになっている。空白は沈黙に似ている。何も書かれていないから、何にでも読める。だから怖い。
「その空白の日、王太子の随行書記が南庭温室へ“視察”に入っている」
私は思わず顔を上げた。視線が重なる。彼は頷くだけだ。
「視察の記録は神殿の外の帳面にのみ残され、神殿側へは報告がない。これは“穴”だ。人ではなく手順の」
「穴は塞げます」
「塞ぐのは三日後にしよう。今は穴の縁を指でなぞる。どこで崩れるか、確かめる」
淡々とした口調。怒りがないわけではない。けれど怒りで手順を壊さない人の話し方だった。
「君は泣かないな」
急に投げられた言葉に、私は瞬きをした。
「泣くのは手順の最後です。泣くことで誰かが動くのは、手順ではありません」
「よい答えだ」
彼はそれ以上何も言わず、机の端を指さした。そこには、倉庫番の字で走り書きされた札が一枚。青曜草の入庫予定日。隅に小さな印。雨の印。
「雨の日か」
「雨の日は、紙がよく滲みます」
「滲んだ跡を探せるか」
「探せます」
灯を近づけ、紙の繊維を横から見る。角度を変える。滲みは大きくない。けれど、確かにある。紙は嘘をつかない。つかせるのは、人だ。
「その日、神殿の外では“奇跡の雨”と噂が立った。旱が続いた直後の恵みの雨。王太子は人々に水瓶を配り、広場で祈りを捧げた」
「美しい話ですね」
「美しさは理にはならない」
アストラルの声が少しだけ硬くなる。「美しい話は、人の目を塞ぐ。塞がれた目は印章に気づかない」
私は頷き、紙を積み直す。紙の角が揃い、考えの端も揃う。呼吸が整うのがわかる。
「今夜はここまでだ。記録の残りは明日。審議の前に、祈りを一つ」
彼が扉へ向かい、私も立ち上がる。石床が冷たい。靴底越しに温度が伝わってくる。
「大神官様」
「何だ」
「神は沈黙していると仰いました。沈黙の意味を、最初に誰が教えてくれたのですか」
彼は少しだけ目を細めた。聖火の灰が裾で揺れる。
「父だ。祈りの最中に私が目を開けていたから、こう言った。『神はお前に話しかけていない。だから今は黙れ』とな」
「厳しい方だったのですね」
「私にだけな」
扉が開き、廊下の冷たい空気が入る。香の匂いは薄く、石の匂いが強い。彼は出て行きかけて、振り返った。
「君の父は?」
「早くに亡くなりました。私に残したのは帳簿と、針と、同じ言葉です」
「同じ言葉?」
「今は黙れ、です」
アストラルはわずかに口角を上げた。笑いというほど大きくはない。それでも、窓からの光が少しやわらかくなった気がした。
◇
夜の祈祷堂は、昼間より広く感じる。人の気配が少ないからだろう。灯明が等間隔に灯され、影が規則正しく並ぶ。私は膝をつき、祈りの詩を小さく唱える。声は空に溶けず、胸の内側に戻ってくる。沈黙に耳を澄ます。沈黙は空っぽではない。音がないのではなく、音が収まる場所だ。そこに置く言葉を、間違えないようにする。
足音。アストラルが隣に膝をついた。彼は詩を唱えない。代わりに、深く息を吐いた。
「神は奇跡で裁かぬ。理で裁く。――今日、君に言った言葉は、君へだけの言葉ではない。群衆への言葉でもある。群衆は、奇跡が好きだ。奇跡は責任を誰にも負わせないから」
「奇跡を信じないのですか」
「信じる。だが、奇跡を怠惰の言い訳にする人間を嫌う」
「わかります」
灯明が小さく爆ぜた。火は静かだが、じっと見つめると疲れる。私は目を閉じる。暗闇のほうが、光の形がよくわかる。
「明日は記録の裏を追う。糸だけではない。呪符の文様の意味を確認する」
「逆転の式、ですね」
「知っているのか」
「祭礼局の壁に、古い写しが残っています。父が指でなぞって見せてくれました。ひっくり返すのではなく、向きを変える、と」
「向きを変える」
彼は繰り返した。言葉の重さを確かめるように。
「なら、向きを戻す者もいる。誰だろうな」
廊下の奥で、小さな音がした。誰かの足音が遠ざかっていく。気のせいだろうか。祈祷堂の外は、見回りの足音が常にある。夜は長く、神は沈黙している。
◇
翌朝、神殿の中庭は薄い霧に包まれていた。温室のガラスが曇り、内側の緑がぼんやりと見える。私は扉を押し開けた。湿った空気が顔に触れる。青曜草の鉢は、葉先が少し色を落としている。採りすぎたのだろうか。葉を一枚摘んで香りを確かめる。弱い。染料にするには、乾かし方を変えないと色が出ない。
「葉脈の走りが違う」
背後から声。アストラルが温室に入ってきた。彼は鉢の間をゆっくりと歩き、いくつかの鉢に指を触れる。
「温室の管理は誰が」
「温室係は年長の祭司が二人。摘み取りは見習いが持ち回りです」
「見習いの名簿を」
私は袖から小さな帳面を出す。祭礼局でいつも持ち歩いていた癖が、神殿でも役に立つ。見習いの名が並び、その先頭にミラ・セルドの名。古い日付で、印が重なっている。何度も同じ名前が出るのは、偶然ではない。たまたま、は手順の敵だ。
「彼女は勤勉だな」
「はい」
私は曖昧に答える。勤勉は美徳だ。けれど、勤勉が何に使われているかまでは、帳面は語らない。
「ここからが“理”の仕事だ」
アストラルは温室の扉を押し開け、外の光を中へ入れた。ガラスの曇りが少しだけ薄くなる。光の線が床に落ち、葉の影がくっきりと浮かぶ。
「すべての影には向きがある。向きがわかれば、時間がわかる。時間がわかれば、手順がわかる」
「影の角度を記録します」
「頼む」
私はチョークで床に小さな印をつける。アストラルは温室の入口に立ち、腕を組んで空を見上げた。雲が薄く流れている。神殿の鐘が遠くで鳴った。静かな、よく通る音。
◇
昼過ぎ。記録の間に戻ると、机の上に新しい紙束が置かれていた。神殿外の「視察」記録。王太子の随行書記の印章が押され、雨の日の訪問が三度。いずれも南庭温室と倉庫。日付は、呪符の紙の乾き具合と一致する。
「王太子は、私的に調達を?」
「彼は善良だ。人々に水を配り、祈った。糸は、祈祷衣の修繕に必要だったのだろう」
「では、誰が呪符を」
「まだ言うな」
アストラルの声が少しだけ強くなる。「言葉は結論だ。結論は最後に置け」
「はい」
私は深呼吸をし、紙束を手前と奥に分ける。必要なもの、今はいらないもの。手の動きで頭の中も分かれる。紙の端が規則正しく揃っていく。息が整う。
「君は、怒らないのか」
彼がふいに問う。私は手を止め、彼を見る。
「怒りは忘れません。でも、怒りは手順を壊します。私は壊したくない」
「なら、ここに立つ資格がある」
彼は短く言い、扉へ向かった。「祈祷堂へ。夕刻の詩を」
「はい」
外に出ると、空気は朝より乾いていた。石畳に光がくっきりと落ちている。神殿の高い塔の影が、裁定祭の広間の前を横切っていた。その影が、まるで大きな指のように見えた。何かを指している。何を。
◇
夕刻の祈祷堂。灯明に火がともされる瞬間、音がした。ぱち、と小さく。火は生き物だ。油を飲み、光を吐く。私は詩を唱え、手の甲を合わせる。言葉が喉の奥で転がり、舌の裏で形になる。沈黙は形を持たないが、そこに置かれた言葉は形を持つ。間違えられない。
唱え終えたとき、遠くで別の音がした。風の音ではない。重い扉が、どこかでわずかに軋む音。誰かが入ってきたのだろうか。見回りの足音が早くなる。すぐに静かになった。
「異常はない」
アストラルが戻ってくる。彼の顔には緊張が乗っているが、声は平らだ。
「明日は、呪符の裏文を確かめる。写しを取れ」
「はい」
記録の間に戻り、紙を重ねる。窓の外が薄闇に沈む。灯明の光が紙の繊維を浮かび上がらせる。そのとき、紙の間に紛れた一枚の薄い葉が目に入った。青曜草の葉。誰が置いたのか。机に座る前にはなかったはずだ。
「大神官様」
私は葉を指先でつまみ、彼に見せた。アストラルは眉を寄せ、葉を手に取る。匂いを嗅ぎ、光にかざす。
「これは温室の葉ではない。野の葉だ。葉脈の入り方が違う」
「誰かが、ここに」
「記録の間に許可なく入れる者はいない。だが、鍵は“人”が扱う。穴は常にある」
彼は葉を紙の間に挟み直し、静かに言った。
「明日は扉の蝶番に油をさす。音が違えば、誰が通ったかがわかる」
「はい」
扉の向こうで、ほんの一瞬、空気が揺れた気がした。気のせいかもしれない。気のせいでなくても、今は黙っている。沈黙は“待て”の意。手順の次の頁は、まだ開かない。
◇
三日目の朝、裁定祭が再開される。聖火の前に人が集まり、香の煙が青い。私は白衣を整え、胸の前で手を組む。アストラルは聖火の横に立ち、長杖を持つ。王太子は席に戻り、ミラは顔を伏せている。群衆の目は、昨日よりも少し疲れて見えた。期待は疲れを連れてくる。奇跡は、もっと。
審問官が開式を告げようとした、その瞬間だった。聖火が、たしかに音を立てた。ぱん、と小さく。次いで、風。扉の上の旗が揺れ、香の煙が流れ、火が一瞬、舌のように伸びた。
誰かが叫んだ。「火が!」
群衆が立ち上がる音。椅子が軋む。誰かが子どもの手を握り、誰かが扉へ走る。私は頭の中で矢印を描く。人の流れ、扉の位置、柱の影、火の向き。
「右側の扉を開けて。蝶番の下に棒を」
声が自分のものではないみたいに、落ち着いて出た。見習いの祭司が慌てて棒を探し、扉の蝶番に差し込む。金具が鳴る。扉が軽くなる。風が通り、火の舌が方向を変える。
「神は奇跡で裁かぬ。理で裁く」
アストラルが私の隣に来て、小さく言った。目は聖火ではなく、人々を見ていた。誰が倒れ、誰が立ち、誰が誰の手を取るか。そういうものを見ていた。
「行け、仮聖女」
私は頷き、人の流れの先頭に立つ。扉を次々と開け、廊下へ人を誘導する。泣き声も叫びも、手順に並べる。泣くのは最後。今は動く。
火は天井を舐め、黒い煤が柱に細い線を描く。誰かの衣の裾に火が移りかけ、私は手で払う。熱い。皮膚が焼ける匂い。痛みはあとでいい。今は動く。
十分か、二十分か。時間の感覚が削られていく。最後の一団を外へ出し、私は振り返る。聖火はまだ残っている。燃えているのは木の台と、香の油。天井に穴は開かない。手順が、間に合った。
外気が胸に入る。冷たい。頭の奥に溜まっていた熱が、少しずつ抜けていく。私の指先は震えていた。が、震えは止めなくていい。手順は終わった。震えは、最後に来る。
アストラルが、灰を払う仕草で近づいてきた。目に煤がついている。彼は気にしない。
「助かったな」
「はい」
声が掠れている。彼はそれを見て、何も言わない。言葉は、時々、沈黙に負ける。
「審議は、火の鎮まりののちに再開する」
審問官が震える声で叫ぶ。群衆のざわめきは、火よりも早く静まった。奇跡を見たと、誰かが言う。私は小さく首を振る。違う。これは手順の結果だ。
アストラルが私のほうへ顔を向ける。灰色の瞳に、灯明が小さく映る。
「三日目だ。結論を置く頁が、ようやく開く」
私は息を吸い、吐いた。胸の内側に、揃えた紙の手触りがある気がした。沈黙は“待て”の意。待って、今、開く。
聖火の火勢が、最後に一度だけ大きく揺れた。まるで誰かが舌打ちをして、観客席を振り返ってみせたかのように。私はその方向を見た。群衆の端に、楽士の衣装を着た影が立っていた。顔は見えない。手に小さな鈴。指先で、その鈴を逆さに持っている。鈴は鳴らさない。沈黙の鈴。
目が合った気がした。気のせいかもしれない。けれど、その影は、火よりも冷たいものを私の背に残して去った。
審議の鐘が、三度、鳴った。私は祭壇へ向かう。足音が石にひびき、音が私の背中を押す。アストラルが一歩、先に立つ。彼の長杖が、今度は静かに床を打った。
「では、理の続きを始めよう」
沈黙が、頷いた。
秋の祭礼が近づいていた。
王都の空は高く、街の通りには赤と金の飾りが揺れている。
断罪から始まった婚姻契約が、まもなく三月を迎える。
私は机の上で、ひとつの書状を見つめていた。
“契約婚・更新確認書”
紙の右上には、摂政殿下の印章が押されている。
更新するか、終えるか。――選ぶのは私だ。
静かに息を吸う。
私の手の中で、紙は軽い。それでも、その意味は重い。
◆
祭礼前夜。
セドリックの執務室に呼ばれた。
「おまえに見せたいものがある」
殿下が机に地図を広げる。
東河の堤は完成し、夜間の“灯の道”も広がっていた。
王都は、少しずつだが確実に変わっている。
「この三ヶ月で、治安は四割改善。水害は一件もなし。奨学制度も稼働を始めた」
「……すべて、殿下が後ろ盾になってくださったからです」
「違う。余はただ、正しい手順を見守っただけだ」
殿下の言葉は、淡々としていたが、奥に温かいものがあった。
「そなたは“怒りではなく手順で国を動かした”。それが余の誇りだ」
私は目を伏せる。
そのとき、扉を叩く音がした。
侍従が駆け込み、報告する。
「ディラン殿下が参内を求めております!」
殿下の眉がわずかに動いた。
「……来たか」
私は胸の奥で、何かがざわめくのを感じた。
◆
対面の間。
王太子ディランは、以前よりやつれて見えた。
髪は乱れ、瞳の光が曇っている。
彼の隣には、誰もいなかった。
「父上――いや、殿下」
言葉が震える。
「俺は間違っていました。エマは偽証をし、俺はそれを見抜けなかった。……どうか、やり直す機会を」
静寂。
殿下はゆっくりと立ち上がる。
「やり直すとは、何を指す」
「エリ――リディアと……婚約を」
空気が凍る。
殿下の瞳が冷たく光った。
「リディアは契約婚中だ。王太子の願いが“再取得”であるなら、それは人を物と見る愚行だ」
「違う、そんなつもりでは――!」
「では問う。おまえは“謝罪”の手順を理解しているか」
「……手順?」
「謝罪とは、声ではなく行動だ。まず被害の回復。次に再発防止。最後に過去に縋らぬこと。――それができぬなら、謝罪ではなく懺悔ごっこだ」
ディランは俯いた。
殿下は続けた。
「おまえの過ちは、怒りで動いたことではない。手順を怠ったことだ」
私は一歩前へ出た。
「ディラン殿下」
彼が顔を上げる。
「……リディア」
「私は、殿下を憎んではいません。けれど、戻ることはできません。
私は“手順”によって自分を取り戻した。戻るのは、後退と呼びます」
彼の唇が震え、何も言えないまま沈黙した。
殿下が静かに告げる。
「ディラン、政務に戻れ。反省を形に変えろ。それが唯一の償いだ」
ディランは深く頭を下げ、退出した。
扉が閉まると、静寂が落ちる。
私は殿下を見上げた。
「……お強いですね、殿下」
「余か? いや、強いのはおまえだ。余はただ、手順の意味を学んだにすぎぬ」
◆
その夜、王宮の外では、祭礼の準備が進んでいた。
灯籠が吊るされ、民が歌う。
翌日、祭礼の中心で“契約婚の報告式”が行われる。
更新か終止かを、民の前で公表する――それが新たな制度になっていた。
私は鏡の前でヴェールを整え、深呼吸した。
契約は制度、だが、心はそれ以上のものを知ってしまった。
◆
祭礼の広場。
群衆が見守る中、セドリックと私が並ぶ。
金の装飾を施した祭壇の前で、司祭が問う。
「契約婚の更新を望まぬ場合、ここで終止を宣言なさい」
私は視線を落とした。
この数ヶ月の記憶が、胸を駆け巡る。
雨の堤防、灯の道、殿下の声。
すべてが、理と温もりの交差点だった。
殿下が私を見て、微笑んだ。
「余は求めぬ。選ぶのは、そなただ」
群衆が息を潜める。
私は一歩、前に出た。
「三ヶ月前、私は断罪の場で“無実です”と言いました。
そして今日、私はもう一度、別の意味でそれを言います。――“無実です”。怒りや後悔に対して、私は無実です。
なぜなら、私は手順で愛を学んだから」
ざわめき。
私は続けた。
「契約を更新します。
理由は三つ。
一つ、怒りではなく手順で人を動かすため。
二つ、制度を愛に変えるため。
三つ、私が殿下の隣に立つことを、私自身が望むから」
殿下の目が、静かに細められる。
それは、長い年月を経て誰かを信じる者の笑みだった。
「良い。……余も、更新しよう」
群衆が歓声を上げる。
鐘が鳴り、白い花弁が舞う。
殿下は私の手を取った。
その手のひらは、剣よりも温かかった。
「リディア・アーデン。余は汝を飾らぬ。共に定義し続けよう」
「セドリック・レオンハルト。私は陛下を飾らせない。隣に立ち、定義を更新します」
指輪が光を受けて、金線のように輝く。
それは、王冠の輝きではなく、人と人を結ぶ光だった。
◆
夜。
祭礼の喧騒が静まり、王宮の執務室で二人きり。
殿下が机に広げたのは、新しい法律草案だった。
「婚約破棄の公的手順書」
「……手順書?」
「婚約や断罪を“見世物”にすることを禁じる制度だ。
今後、婚約破棄を行う場合は、監察局の立ち会い、証拠開示、再発防止策の義務化を伴う。
そなたの経験を制度化した」
私は静かに息を呑んだ。
「恋は私事、手順は公事。――それを、法にするのですね」
「そうだ。怒りではなく手順で、国を動かす」
殿下が微笑み、筆を取り、署名する。
その隣で、私は書記官として、自分の名前を記した。
サインを終えると、殿下がふと顔を上げる。
「リディア。契約婚という形で始まったが、余はもう“契約”と思っていない」
「……なら、何と?」
「“共犯”だ。国を良くする罪を、共に背負う者」
私は笑った。
「罪なら、喜んで背負います」
「ならば、更新完了だ」
殿下が筆を置き、私の頭に手を置く。
その指先は、傷だらけで、それでも優しかった。
外では、灯籠の光が川面を流れていく。
その光がゆっくりと王都を巡り、やがて遠くの堤を照らす。
私はその光景を眺めながら、静かに言った。
「殿下。扉の蝶番は、春にもう一度点検しますね」
「また固まるのか」
「はい。でも、油を差せば、また開きます」
殿下は小さく頷いた。
「扉は閉じるためにあるが、手順を守れば何度でも開く」
蝋燭の炎が静かに揺れた。
私は机の上の地図に新しい線を引く。
堤から街へ、街から灯へ、灯から未来へ――。
婚約破棄の鐘は、あの日確かに鳴った。
けれど、それは終わりではなく、始まりの合図だった。
怒りではなく手順で、私は愛を定義する。
そして、愛を制度に変える。
王都の灯りが、ゆっくりと夜を縫い合わせていった。
完




