冥府の黒い風
第1章 派遣命令 パート1
冥府の空は暗く、どこまでも黒かった。
その中を五羽のカラスが飛んでいた。
彼らは冥府の王エンマに呼ばれ、玉座の前に並ぶ。
「お前たちの任務は二つだ」
エンマの声が響く。
「まだ死ぬべきではない人間を助けること。そして、悪人を冥府へ送ること」
五羽はうなずいた。
リーダーのクロウが前へ出る。
「対象は?」
「今夜、地上の交差点で白い車が信号を無視する。その先に自転車の少年がいる。彼はまだ死ぬ時ではない。守れ」
「了解」クロウが答える。
「もう一件ある。地下通路で、少女を狙う男が出る。そいつは冥府へ送れ」
「二件同時か」クロウが仲間に視線を送る。
カラスたちはそれぞれ役割を決めた。
クロウは全体の指揮。
ピコは車の注意をそらす。
モノとチビは少年を守る。
カラは先回りして地下通路へ行く。
エンマが最後に言った。
「三つの掟を忘れるな。人を直接傷つけるな。人の行動を奪うな。そして、情に流されるな」
五羽は一斉に「了解」と答え、黒い風に包まれる。
次の瞬間、彼らの姿は冥府から消えた。
地上。
夜の街は雨上がりで、アスファルトが光っていた。
交差点の角に街灯が立ち、信号の赤と青が交互に照らす。
そこに少年が自転車で近づいてくる。
片耳にイヤホン、前カゴには教科書。
急いでいるのか、ペダルを強く踏み込んでいた。
「これだな」クロウがつぶやく。
チビが電線の上から見下ろす。
「車、来るよ!」
ピコが標識の上に飛び、嘴で反射板を叩いた。カン! と音が響く。
その音に運転手が一瞬だけ顔を上げ、視線が逸れる。
モノが風を起こし、少年の髪を揺らした。
少年が思わず顔を上げた瞬間、ペダルのリズムが止まる。
その半秒後、車が交差点に突っ込んできた。
だが、少年は白線の手前でブレーキをかけた。
車の鼻先がギリギリで通り過ぎ、クラクションが鳴る。
「危なかった……」
少年は胸を押さえて立ち止まる。
ピコがほっと息をつき、チビが笑う。
「よし、ひとつ完了!」
クロウが羽を広げた。
「次だ。地下通路の悪人を止める」
カラはすでに階段の上で風の匂いを嗅いでいた。
古いポスターの貼られた壁、湿った空気、遠くで響く足音。
その奥に、男の気配がある。
「ここか……」
カラは嘴で壁を叩き、ポスターを一枚落とす。
それが一段目に貼りつく。
たったそれだけで、時間が少しずれる。
狙われるはずだった少女が、その瞬間スマホを落とし、足を止める。
男が通り過ぎ、少女は背を向けたまま走り去った。
「終わりだ」クロウの声が風に乗って届く。
五羽のカラスは再び夜空へ舞い上がった。
冥府の任務は、まだ始まったばかりだった。
第1章 派遣命令 パート2
地下通路の奥は暗く、照明がちらついていた。
カラが翼を広げ、壁の上を滑るように飛ぶ。
足音がひとつ。重く、ゆっくりとした男の足音だ。
その後ろを、傘を持った少女が歩いていた。
少女はイヤホンをしている。周りの音に気づかない。
男がポケットから何かを出した。
折りたたみナイフだった。
カラは高く鳴いた。「カァー!」
突然の声に少女が顔を上げる。
同時に、上からチビが飛び降りてきて、男の顔すれすれを通過する。
男が驚いて腕を上げ、ナイフが床に落ちた。
クロウが上空から様子を見ている。
「よし、ピコ、行け!」
ピコが非常ベルの配線の隙間に嘴を突っ込み、金属を叩いた。
「ガンッ!」という音と同時に、非常灯が赤く点滅する。
モノが少女の肩のすぐ横に降り立ち、翼を広げて風を起こした。
少女の傘がひっくり返り、そのまま彼女の足元を照らす。
落ちていたナイフが光に反射した。
少女はそれを見てようやく危険に気づく。
「きゃっ!」と叫び、階段の方へ走った。
男が顔を上げる。
「この……カラスが!」
怒鳴りながら手を振り回すが、カラスたちはひらりとかわす。
カラが真上から急降下し、男の肩をかすめた。
男はバランスを崩し、階段の途中で滑り落ちる。
「終わったな」クロウが呟く。
モノが小さく頷く。
男はうめき声を上げ、動かなくなった。
その体の下から、黒い霧のようなものが立ち上がる。
それはゆっくりと形を変え、冥府へ続く穴になった。
クロウは一歩だけ進み、低く鳴いた。
「冥府へ帰れ」
霧が吸い込まれるように男の影を包み、消えていった。
チビが少し震えた声で言う。
「……やっぱり、人が消えるの、見たくないね」
「情けは禁物だ」クロウが短く返す。
「でも、あの子が無事でよかった」モノが優しく言った。
ピコが空を見上げる。
「もうすぐ夜明けだ」
街の端で、東の空が少しだけ明るくなっていた。
カラスたちはビルの屋上に降り、並んで座った。
遠くでパトカーのサイレンが響く。
「報告、どうする?」ピコが聞いた。
クロウは少しだけ目を閉じる。
「エンマ様は知っている。冥府の風は全部、見ているからな」
「なら次の任務、すぐ来そうだね」チビが羽を伸ばした。
「お前、休む気ないのか?」カラが笑う。
「だって、人間界の夜はきれいなんだもん」
風が吹き、五羽の羽が光を受けて揺れる。
彼らは黒い影を残して、再び空へ舞い上がった。
その頃、冥府の奥では、エンマがゆっくりと玉座に座り直す。
「ふむ……悪くない始まりだ」
王の目が細くなる。
「だが、人間界は簡単ではない。あの五羽、やがて“線”を見失うだろう」
冥府の炎が揺れ、黒い羽が一枚、静かに燃え落ちた。
新たな任務の鐘が鳴るのは、もうすぐだった。
第2章 悪人、笑う パート1
夜の繁華街は、看板の光で昼のように明るい。
五羽はビルの縁に並び、下の路地を見下ろしていた。狙う相手は、裏金の回収屋・城戸。弱い相手から取り立て、脅して、笑う男だ。
「今日のルートは決まっている。二十時にこの店で“回収”。そのあと、裏口から現金を持ち出す」クロウが地図を広げた。チラシの裏に手書きの矢印。
「回収って言い方、腹立つよね」チビが小声で言う。
「腹が立つのはいいが、突っ込むな」カラが釘を刺す。
「オレは見張りと音出し係ね」ピコが胸を張る。
「私は逃走ルートを潰す」モノが頷いた。
店の明かりが強くなる。扉が開き、城戸が出てきた。短髪、太い首、安いスーツ。脇に紙袋。後ろから若い男が青い顔でついてくる。
「すみません、今月は……」
「“すみません”は札にならねぇ」城戸は笑い、軽く肩を叩く。その手つきが乱暴だった。若い男のポケットから財布が半分見える。城戸は素早く抜き取り、中身をちらり。
「足りねぇな。利子は雪みたいに積もるんだよ。お前の母ちゃん、入院してるんだろ? 病室まで取り立て行くか?」
若い男の顔が真っ白になる。城戸は口元だけで笑った。
屋根の上で、チビが爪を立てる。
「やめろ。まだ“冥府送り”の確定条件がそろってない」クロウが低く言う。
「でも、あれは悪い」
「わかってる。証拠と流れを固める。掟どおり、人の行動の延長で落とす」
城戸は紙袋を抱え、裏通りへ入った。見張り役の手下が二人。バイクが一台。
「逃げ道は三つ。一番奥の細い階段、路地抜けのフェンス、そしてバイク」クロウが指す。
「階段は私がやる」モノが飛び、踊り場の古い蛍光灯に止まってくちばしでカバーをずらした。管がチカチカし始め、足元の段差が見えづらくなる。
「フェンスは私」カラが降下して、針金の結束を嘴で外した。フェンスがわずかに傾き、体重をかけるとギシ、と大きな音が出るようになった。
「バイクはオレの出番だな」ピコがメーター上の透明カバーをコツコツ叩き、左右のミラー角度をずらす。さらにシート下の鍵穴に小石を落とした。
準備が終わるころ、城戸は路地の突き当たりで誰かと接触した。スウェット姿の男だ。小さな包みと現金。
「数、合ってっか?」
スウェットの男がうなずく。城戸の笑い声が漏れる。
「いいねぇ。明日も頼むわ」
その瞬間、チビが電線を蹴った。パチッと火花。驚いたスウェットの男が包みを落とし、中身の小袋がアスファルトに散らばる。白い粉が路地の黒に目立つ。
「今!」クロウの合図。
ピコがシャッターの鎖を叩き、金属音を響かせる。手下二人がそちらを見る。
カラはフェンスの向こう側でわざと羽ばたき、ギシギシと音を立てる。「誰かいるぞ」と錯覚させる。
モノは階段側に風を送り、ビニール袋をふわりと浮かせる。袋が城戸の顔に張りつき、視界を奪った。
チビは地面に降り、小袋を爪で散らした。粉と現金が混ざって足元を汚す。
城戸が怒鳴る。「何だ! どこから来やがった!」
手下が慌ててバイクに飛び乗る。キーを回すが、回らない。小石が邪魔をしている。
「クソ!」手下は素手で小石をほじくろうとして、爪を割った。叫び声。
もう一人はフェンス側へ走る。体重をかけた瞬間、フェンスが鳴き、向こう側の犬が吠えた。民家の窓ががらりと開く。
「何してんの!」住人の怒鳴り声。手下は固まる。
城戸は階段へ逃げようとした。が、明滅する蛍光灯で段差を踏み外し、膝をつく。紙袋が破れ、札が夜風に舞った。
「拾え! 全部拾えぇ!」城戸が四つん這いで叫ぶ。
そこでチビが彼の目の前に降りた。
「カァ」
短い鳴き声。城戸が反射的に手を振る。バランスを崩し、ひざまずく形になった首筋に、路地の見張りカメラの赤い点が映る。金と白い粉、怒鳴り声。条件は十分だ。
サイレンの音が近づいてくる。誰かが通報したのだろう。
クロウは最後の仕上げに、路地入り口の看板鎖を風で揺らし、人の気配を強調した。
「撤収する」
四羽が頷く。だがチビだけが、城戸の前でもう一度だけ止まった。
「人をいじめて笑うの、もうやめなよ」
もちろん人間には聞こえない。ただの鳴き声だ。だが城戸の顔に、一瞬だけ不安の色が走った。
五羽は屋根へ戻り、夜風に身をならした。
「証拠も流れもそろった。あとは“冥府送り”の判断だ」クロウが言う。
「送る?」チビがたずねる。
「まだだ。最後に一つ、城戸の“選択”を見る」
カラが笑った。「掟どおりってやつね。悪いほど、よく転ぶ」
ピコの腹が鳴る。「その前に、唐揚げの匂いどうにかならん?」
モノが小さく笑い、「終わったら、風の強い川沿いで休もう」
サイレンが路地に入る。人の足音、懐中電灯の光。
城戸は札をかき集めようとして手を止め、ゆっくりと両手を上げた。目だけが笑っている。
「おいおい、これは誤解だよ。全部、偶然だ」
笑い声が路地に広がる。
クロウの目が細くなる。
第2章 悪人、笑う パート2
警察に連れて行かれた城戸は、取調室で腕を組んでいた。
机の上には札束の切れ端と、小袋の残りが並ぶ。
だが彼の顔に反省の色はなく、薄く笑っているだけだった。
「こんなの冤罪だ。俺は頼まれて運んだだけさ」
刑事がため息をつく。「証拠は出てる。素直に話したほうがいいぞ」
「証拠? そんなの都合のいい偶然だろ。運が悪かっただけだ」
その夜、取調室の外の窓に、黒い影がとまった。
五羽のカラスだ。クロウを先頭に、静かに見下ろす。
「こいつ、まだ反省してないな」チビがつぶやく。
「笑ってる顔、むかつく」ピコが嘴を鳴らす。
「掟に従う」クロウが短く言う。「人の選択を見る。最後の機会だ」
夜が更け、刑事たちが席を外した。
部屋には城戸ひとり。
その時、取調室の蛍光灯がパチンと消えた。
真っ暗な中で、ひとつだけ光がゆらゆらと差す。
それは天井近くの換気口。
そこから黒い羽が一枚、ゆっくりと舞い落ちた。
城戸は思わず拾い上げる。
羽は冷たく、手のひらの中で小さく震えていた。
「なんだこれ……?」
その瞬間、頭の中に声が響く。
――まだ、変われる。
「誰だ!」城戸は立ち上がり、周囲を見回した。
だが誰もいない。窓の外には、静かな夜と月だけがあった。
もう一度声がした。
――人を苦しめて笑っても、何も残らない。
城戸は耳を塞いだ。「うるさい! 俺は……俺は悪くねぇ!」
叫びながら、手の中の羽を握りつぶした。
その瞬間、羽は黒い煙となり、城戸の手から抜け出して消えた。
「終わりだな」クロウが言った。
窓の外で五羽が見下ろしている。
「掟の三つ目、“情に溺れるな”だ。これ以上は関わるな」
「了解」モノが静かにうなずいた。
取調室の中では、城戸が肩で息をしていた。
冷たい汗が首筋を伝い、唇がわずかに震えている。
だが次の瞬間、彼は笑った。
「幻でも見たか。俺はまだ終わっちゃいねぇ」
その笑みを最後に、電気が戻った。
机の上には、黒い羽が一枚だけ残っていた。
翌朝、新聞の片隅に短い記事が出た。
《覚醒剤取引で男逮捕。供述中に突然の心不全》
写真の下には、取り調べ室の窓際に止まった一羽のカラスの影が映っていた。
屋上で朝日を見ながら、チビがつぶやいた。
「結局、あの人、変わらなかったね」
クロウは小さく首を振る。
「選ばなかったんだ。だから“線”が切れた。それだけだ」
ピコがため息をつき、「なんか重いな」と言った。
カラが笑う。「お前が言うなよ。昨日あんなにビビってたくせに」
「ビビってない!」ピコが反論し、チビとモノがくすくす笑う。
風が吹き抜け、五羽の羽が揺れる。
クロウは空を見上げた。
「次の任務は近い。冥府の風が動き始めてる」
「どんな任務?」チビが聞く。
「生きる気力を失った少女。今度は“救う”ほうだ」
クロウの目がわずかに細まった。
五羽の影が朝の空を横切り、再び闇へと溶けていった。
第3章 忘れられた少女 パート1
放課後の校舎は静かだった。
屋上の鉄扉は半分開き、風が紙の匂いを運ぶ。
その手すりの前に、中学生くらいの少女が立っていた。紗季。制服のリボンがほどけている。手にはスマホ。画面には未読のメッセージがいくつも並ぶが、彼女は見ない。
「ここだ」クロウが低く言う。
五羽は給水タンクの上に並んだ。
「掟を守る。直接引っ張らない。気づかせて止める」
「わかってる」チビが小さくうなずく。「あの子、冷たくなってる目だ」
モノが風向きを測る。ピコは空気の流れを読むためにアンテナへ移り、カラは扉の影に入った。
紗季はスマホを胸に当て、柵に指をかけた。
「……もう、いいでしょ」
誰にも聞こえない小さな声。足が一歩、前に出る。
クロウが合図する。
まずモノが風を送り、紗季の前髪を揺らした。視界がふっと乱れる。
同時にピコがアンテナを嘴で叩く。カン、と乾いた音。紗季の指が柵から外れる。
チビが給水タンクから滑空し、手すりのすぐ先を横切った。黒い影が視界をかすめる。
「……カラス?」紗季がわずかに顔を上げる。
カラは扉の蝶番をつつき、キー、と細い音を鳴らした。
その音につられて、屋上のすみに置かれていた掃除用のモップが倒れる。
「わっ」
紗季が振り返る。足が半歩戻る。
クロウは慎重に距離を詰める。
「この高さ、落ちたら助からない」
カラスの声は人間には普通の鳴き声にしか聞こえない。それでも、言葉のリズムは届く。
紗季の指がもう一度、柵に触れた。震えている。
モノが屋上の床を見て、小さな紙切れに気づいた。
「これ、使える」
モノは風で紙切れを持ち上げ、紗季の足元に滑らせる。紗季が何気なく拾う。
それは“落とし物届け出カード”。名前の欄に「さき」と丸い字。日付は去年の文化祭の日。裏に「運動会、見に行くよ。母より」とペンで書き足されていた。
紗季の目が止まる。
喉が小さく鳴る。
「……なんで、これ」
指先が力を失い、柵から手が離れた。
その瞬間、扉の向こうから足音が近づく。
「紗季! そこにいるの?」
女の声。担任の先生だ。扉越しに、慌てている気配。鍵が回る音がして、扉が少し開く——が、途中で引っかかった。
カラがほんの少しだけ蝶番を押さえて、開く速度を遅らせている。
「時間を作る」カラが小声で言う。
クロウはタンクの上から紗季を見た。
「今なら戻れる」
チビが紗季のすぐ近くの手すりに降りて、首をかしげる。
「きみ、名前は?」
紗季は反射的に答える。「さき」
自分の声に、自分で驚いたようだった。
扉の隙間から先生の声が届く。
「この間の実技、がんばってたね。体育の先生が褒めてたよ」
紗季の眉がわずかに動く。
「……嘘」
「ホント。あ、あと……お母さん、今日来てる」
先生の声が少し震えた。「玄関で待ってる」
紗季は目を伏せた。
そのとき、体育館の方向からホイッスルが鳴る。
ピコが体育館の屋根の上で旗をつつき、ガタッと音を立てたのだ。
直後、校内放送が入る。「保護者の方、正門前は混雑しています——」
紗季のスマホが震える。画面に「母:正門にいるよ。話したい」の通知。
チビがそっと近づいて、スマホの画面を見せるように体を傾けた。
紗季の肩から力が抜ける。
「……来るって言ってたの、嘘じゃなかったんだ」
声がかすれて、涙が一粒だけ落ちた。
柵から手が離れ、紗季は後ろへ下がる。よろめいた足を、モノが起こした風が支える。
扉が大きく開いた。
先生が飛び込んでくる。「紗季!」
紗季は立ち尽くし、先生を見た。
「大丈夫。降りよう」
先生が手を差し出す。紗季はためらい、ゆっくりとその手を取った。
クロウが小さくうなずく。
「任務、第一段階完了。降りるまで見届ける」
五羽は距離を保ち、階段へ向かう二人を見守った。
途中で紗季が振り返る。
手すりに並んだ黒い影。
彼女は小さく頭を下げた。
「ありがとう」
階段の下、昇降口の前に、紗季の母親が立っていた。
息を切らし、涙目で娘を抱きしめる。
紗季は固まっていたが、やがて腕を回した。
その様子を見届け、五羽は屋上の空へ舞い上がる。
「よし、よかった!」チビがくるりと一回転した。
「まだ終わってない」クロウが言う。「地上での“戻る一歩”は踏んだ。だが、根っこは残ってる」
モノが静かに続ける。「明日も見る。友達、家のこと、きっかけは他にもある」
ピコの腹が鳴った。「その前に、パンの匂いがする屋根に行かない?」
カラが笑う。「お前、毎回それだな」
そのとき、校庭の隅で救急車のサイレンが短く鳴った。
思わず五羽が振り向く。
クロウの視線が鋭くなる。
「別件だ。近い」
風が変わり、冥府の気配がわずかに混じった。
「分担しよう」クロウが指示を出す。
「モノとチビは紗季の帰路を追って、安全を確かめろ。ピコは救急車の方角で状況確認。カラは校外の通りで“悪い匂い”を嗅げ。俺は上から全体を見る」
「了解!」
五羽は別々の方向へ散った。
夕焼けの色が薄れ、校舎の影が伸びる。
紗季の足取りはまだ不安定だが、さっきより確かだ。
クロウは高く舞い上がり、町全体を見渡した。
信号が変わり、人が流れ、どこかでドアが閉まる。
今夜はまだ、やることがある。
第3章 忘れられた少女 パート2
昇降口の前で、紗季は母と並んでベンチに座っていた。
母は紙コップの温かいお茶を差し出す。「少し、飲める?」
紗季はうなずき、一口だけ飲んだ。手がまだ震えている。
先生は少し離れて立ち、事務室へ連絡を入れる。「今日は早退の手続きをしますね」
給水タンクの縁で、チビが小さく胸を張った。
「見届けよう」モノが横でうなずく。
「家まで?」
「うん。途中で気持ちが揺れることもある。帰路を守る」
やがて二人は校門を出た。
母は歩幅を落とし、紗季に合わせる。
「夕飯、何がいい?」
「……卵焼き」
「わかった」
その会話を聞いて、チビが少し笑った。「卵焼きだって」
「いい選択だ」モノが風の上で姿勢を整える。「温かい匂いは、心を落ち着かせる」
交差点の前で信号が赤に変わる。
車の列が長い。紗季が立ち止まったとき、背後から自転車が無理に抜こうとした。
「危ない」モノが風を送る。紗季の髪がふわりと上がり、半歩だけ前へ出るタイミングがずれる。
自転車は空いたスペースを抜け、何も起きない。
チビがほっと息をつく。「今の、危なかった」
「こういう小さな“ずらし”を積み重ねるんだ」モノが答える。
住宅街に入ると、夕飯の匂いが混ざり合う。
醤油、味噌、焼き魚。ピコがいたら腹が鳴っていただろう、とチビは思う。
曲がり角で、小型の黒い車がゆっくり近づいてきた。
運転席の男が窓を少し開け、通りに立つ人をじっと見る。
母が紗季の肩を引き寄せた。
「行こう」
チビは電線から飛び降り、男の車の前を横切って大きく鳴いた。「カァ!」
男が驚き、ブレーキを踏む。視線が外れる。
その隙に二人は角を曲がる。
モノが小声で言う。「つきまといの匂いがした」
「もう追ってこない?」
「しばらくは大丈夫」
マンションの前に着いた。
母が合鍵を出し、エントランスを開ける。
中に入る直前、紗季が空を見上げた。
電線に二羽の影。
彼女は短く手を振る。
チビが首をかしげ、同じように翼を少し上げた。
部屋の灯りがともる。
台所で母が卵を割る音、醤油の小瓶が軽く鳴る音。
テーブルにお椀が並び、湯気が立つ。
紗季は椅子に座り、深呼吸を一度。
スマホを開き、メッセージの未読をゆっくりと指でなぞる。
「——ごめん。明日、学校行く」
短い文を友だちに送った。既読がすぐに二つつく。
『待ってる』『明日、一緒に行こ』
紗季の目が少しだけ柔らかくなった。
屋上の手すりから、チビはその様子を覗き込む。
「よかった」
「第一の山は越えた」モノが静かに言う。「でも、繰り返し来る波に備えよう。夜や、週末や、ひとりの時間」
「うん。明日の朝は玄関から少し高い電線にいて、見守る」
そのとき、風向きが変わった。
冷たい気配が混ざる。
遠く、川沿いの工事現場の方角から、低い響きが届いた。
クロウの合図だ。
《緊急。救済案件と“冥府送り”が同時発生。位置、川沿いの旧倉庫。》
チビとモノは視線を交わす。
「紗季は?」
「食事も取り、家族と話している。今は安全。——合流しよう」
二羽は静かに高度を上げ、夜風に乗った。
ビルの隙間を抜け、川の黒い面が見えてくる。
その手前で、カラが待っていた。
「状況報告」モノが言う。
「旧倉庫の中で火の気。電気系統からの発火か、誰かが火をつけたかは不明。中に少年が一人。救う対象。外には別の二人組。盗難品の受け渡しをしている。こっちは“送り”候補」
「二つ同時……」チビが息を飲む。
「ピコは?」
「消火用の非常ベルと、倉庫の自動扉のコントロールに当たってる。クロウは上から全体指揮」
川風が強くなる。
倉庫の壁は古く、錆びたシャッターが半分開いている。
中から薄い煙。咳き込む声。
チビが前へ出る。「ぼく、少年の方へ行く」
「モノ、同行して風で煙を割れ」カラが即答する。
「了解」
二羽が薄い煙の中へ滑り込む。
中は暗く、木箱が乱雑に積まれている。
奥で咳き込んでいるのは小学生くらいの男の子だ。
床には転倒したランタン。炎が段ボールに移りかけている。
「右へ!」モノが風で炎を押し戻し、通路を作る。
チビが低く飛び、少年の頭上で大きく羽ばたく。
「こっち!」
少年は涙目で立ち上がり、チビの影を追う。
非常ベルが鳴った。ピコだ。
同時に自動扉が「ガタン」と開き、外気が流れ込む。煙が引く。
外では、受け渡し中の二人が音に反応して動きを止めた。
カラがフェンスに移り、羽を広げて威圧する。
「逃げ道、塞ぐ」
クロウの声が上から落ちる。「よし、その位置」
ピコが路地の方で鎖を鳴らし、人の気配を作る。
二人のうち一人が焦って袋を落とした。
中から工具と財布がばらばらと転がる。盗難品だ。
倉庫の出口で、少年が外の空気を吸い込み、咳を止める。
チビが旋回して彼の目の前を横切る。
「もう大丈夫」
もちろん言葉は伝わらないが、少年の肩の力が抜ける。
モノが風で炎を壁際に追い込み、燃え広がりを止めた。
その瞬間、川の向こうから消防車のサイレン。
クロウが短く言う。「撤収準備」
チビが首をひねる。「もう少しだけ。少年、誰かを呼んで」
少年はポケットからスマホを出し、震える手で「母」と打つ。
すぐに繋がり、泣き声で場所を伝えた。
外で、二人組の片方がついに走り出した。
だがフェンスの前で足を滑らせ、金網に肩をぶつける。
カラが低く鳴いた。「そこで止まれ」
ピコが電柱のスイッチボックスを叩き、外灯が一斉に点く。
明るい。姿を隠せない。
クロウが上から全体を見下ろし、最後の一押しに看板鎖を揺らした。
人の気配が増え、通行人がスマホを向ける。
二人は観念してしゃがみ込んだ。
サイレンの赤が近づき、現場が人の手に渡る。
五羽は川風に乗り、離れたビルの屋上へ移動した。
チビが胸を上下させる。「ふぅ……間に合った」
モノが息を整える。「少年は外へ出た。火は広がらない」
カラが短く笑う。「外の二人も観念。今夜は連携が冴えてるね」
ピコの腹が鳴る。「帰りに、パンの屋根寄っていい?」
クロウがわずかに目を細めた。「いいが、報告が先だ」
そのとき、冥府の風が一段と冷たくなった。
エンマの声が短く落ちる。
《次の任務。人の“線”を守る行動が、別の“線”を切りかけている》
チビが眉を寄せる。「どういうこと?」
クロウは空を見た。「掟の試練だ」
第4章 掟の試練 パート1
冥府の空は、深い青黒の光を帯びていた。
その中央に、ゆっくりと渦を描くように黒い羽が舞う。まるで海の底で潮が回っているような静けさだった。
五羽のカラス――クロウ、カラ、モノ、ピコ、チビは、円形の広場に降り立つ。
広場の奥、石の階段の上にエンマが立っていた。
「よく戻ったな、クロウ。お前たちの働きは、すべて見ていた」
エンマの声は深く穏やかだった。
カラスたちは自然と姿勢を正した。
クロウが前へ出て、頭を下げる。
「任務は、すべて完了しました。……ただ、まだ未熟な点も多く」
「未熟で良い。命を扱う仕事に、完成などない」
エンマの目が細くなる。その奥には、わずかに微笑があった。
「報告を聞いた。人を救い、悪を裁き、そして何より——掟を守った。
冥府は今、次の段階に進もうとしている」
五羽が顔を見合わせる。
エンマは両翼を広げ、冥府の空を見上げた。
青黒い光の向こう、無数の影が静かに漂っている。
それは眠りについたカラスたち。一羽ずつに命の光が宿り、規則正しく瞬いていた。
「この冥府の空には、一万のカラスが眠っている」
エンマの声が響く。
「お前たちの働きが認められれば、彼らを人間界へ送り出す。
それぞれが“命の線”を整えるために飛ぶだろう。
その計画を『黒羽降下』という」
ピコが目を丸くする。「い、一万羽!? そんなに?」
「本気なの?」カラがつぶやく。
「それほどまでに、人間界の“線”は乱れている」エンマは静かに言った。
「だが、焦る必要はない。これは“試験”でもある」
チビが首を傾げる。「試験って、もし僕たちが失敗したら?」
エンマはゆっくりと目を閉じた。
「罪はない。お前たちは冥府へ帰り、穏やかに暮らせばよい。
それもまた、冥府に生きる者の道だ」
カラスたちは一瞬黙った。
ピコがぽつりと笑う。「よかった……“翼をなくす”とか、そういうのじゃないんだね」
「罰を与えるための試験ではない」エンマは首を振った。
「学ぶための試練だ。命を見つめること——それが冥府の仕事だ」
クロウが深くうなずく。「理解しました。次の任務が最後ですね」
「そうだ。最後の試練を与える」
エンマの翼がふわりと広がる。
光が五羽を包み、足元の石が淡く輝いた。
「これまで、お前たちは“救う”と“裁く”を別々に行ってきた。
だが今度は、その二つを同時に行わねばならぬ。
一つの場所で、一つの時間に。
救いを選べば、罪が逃げる。裁きを優先すれば、命が途切れる。
どちらも正しく導けるか、それを見せてほしい」
風が吹き抜け、黒い羽が舞い上がる。
モノが小さく息を飲んだ。「そんなこと、できるの……?」
カラが唇のような嘴を歪めて笑う。「やりがいがあるじゃない」
チビは目を丸くして、クロウの顔を見た。「どっちも助けたいって思っちゃうかも」
クロウは短くうなずく。「迷っていい。ただし、掟を忘れるな」
エンマが最後に言った。
「お前たちは、冥府の代表であり、最初の五羽だ。
結果がどうであれ、私は感謝している。
この冥府で、誰よりもよく飛んだ者たちよ」
広場の上空、一万羽の影がゆっくりと光を帯びた。
それはまだ眠りの中にいるが、風を感じて微かに羽を動かした。
黒い雲のように広がるその姿は、まるで夜空そのものが生きているようだった。
クロウはその光景を見上げ、胸の奥で静かに息を吸った。
「一万羽か……俺たちがやることは、決まってるな」
「うん」チビが小さくうなずく。「みんなで、最後まで飛ぼう」
五羽の影が光に包まれ、再び人間界へと向かっていった。
その背を、エンマは長く見送る。
「――行け。冥府の空は、お前たちの帰る場所として、いつでもここにある」
冥府の空が静かに回り、一万羽の眠りが微かにざわめいた。
次の試練が、もう近い。
第4章 掟の試練 パート2
夜のショッピングモールは、閉店間際の静けさに包まれていた。
駐車場の照明が少しずつ落ち、白線の上に長い影が伸びる。
クロウたちはその上空を旋回していた。
「この場所か」クロウが低く言う。
「救う対象は、一人の女性。残業帰りにプレゼントを買いに来た母親だ」
モノが羽を震わせる。「裁く対象は?」
「駐車場の隅。車の中でガソリン缶を持っている男。火をつけるつもりだ」
チビが息をのむ。「人がまだいるのに?」
「そうだ。彼は元警備員だ。クビになった腹いせで、モールに火を放とうとしている」
五羽の間に、緊張が走った。
「二人の線が重なる。母親を助けると、男は逃げる。
男を止めようとすれば、母親が巻き込まれる」クロウが静かに言う。
「両方守るんだろ?」ピコが小声で確認する。
クロウはうなずいた。「そうだ。これが最終試練だ」
風が冷たくなった。駐車場の奥では、母親が車のドアを開けてプレゼントの袋を置こうとしている。
その隣、影の中で男がライターを構えた。
チビが震える声で言う。「どうするの?」
「まず風を変える。モノ、南から流せ」
「了解」モノが翼を大きく広げ、風を駐車場の隅へ送る。
ガソリンの臭いが流れ、男が顔をしかめて振り返った。
「……誰だ?」
その一瞬の隙に、ピコが街灯の上から小石を落とす。
カンッ! と音がして、男の注意が外れる。
クロウがすぐに命じた。「カラ、あのライターを叩き落とせ」
「任せなさい」カラが低空で滑り込み、嘴でライターをはじいた。
カチン、と音を立ててライターが転がり、車の下に入る。
男が慌てて手を伸ばしたその時、チビが横切った。
黒い影が男の視界を遮る。
「なんだ!?」男はバランスを崩し、地面に手をついた。
同時に、モノの風が強くなり、母親の髪を揺らした。
「風……?」母親が顔を上げる。
その瞬間、車の中のスマホが鳴った。
〈お母さん、誕生日のケーキもう帰る?〉
子どもの声がスピーカーから流れる。
母親は一瞬で我に返った。
「そうだった……帰らなきゃ」
彼女はプレゼントの袋を抱え、車に乗り込む。
チビが安堵の声を漏らす。「よし……」
だが次の瞬間、男が再び立ち上がり、ポケットからもう一つのライターを取り出した。
「まだ終わってねぇ!」
クロウが一瞬で判断する。「ピコ、照明を落とせ!」
ピコが電線を嘴で叩く。
駐車場の明かりが一瞬だけ消え、辺りが暗くなった。
その隙に、モノの風がガソリンの臭いを一方向に流し、
カラが再び男の手を狙って急降下した。
「もうやめろ!」チビの鳴き声が夜に響いた。
人間にはただのカラスの声だ。
だが男の動きが一瞬止まる。
胸の奥で何かが崩れたように、ライターが手から落ちた。
男はその場に座り込み、両手で顔を覆った。
「……もう、どうでもいい」
その声を聞いて、クロウが風を緩めた。
母親の車が駐車場を出ていく。
バックミラーに、五羽のカラスの影が映った。
「ありがとう」と、彼女が小さくつぶやいた。
上空で、五羽が合流した。
「両方、守れた……」チビが息を吐く。
「奇跡だな」カラが笑う。
「奇跡じゃない。選んだ結果だ」クロウが答える。
「掟を破らずに、情も捨てなかった。これが俺たちのやり方だ」
風が変わった。冥府の気配。
エンマの声が静かに響く。
《よくやった、五羽のカラスたち。試練は終わった。》
《黒羽降下――発動を許可する》
遠くの空に、光が一筋走った。
雲の向こうから、無数の黒い影が現れる。
一万羽の冥府カラスが、静かに羽ばたいていく。
街の灯りが消え、空だけが輝いた。
クロウがつぶやく。「これが冥府の夜明けか」
チビが笑う。「きれいだね」
ピコが腹を押さえて言う。「終わったら、何か食べようよ」
カラがくすっと笑う。「冥府でパン屋でもやる?」
モノが静かに答える。「悪くない」
クロウが翼を広げた。
「さあ、行こう。俺たちの空は、まだ広い」
五羽の影が夜明けの空を横切る。
その上空で、一万の羽音が、世界に新しい風を呼び込んでいた。
第5章 黒羽の誓い パート1
夜明けの空が、黒い羽で埋め尽くされていた。
冥府の扉が開き、一万羽のカラスたちが次々と人間界へ飛び立っていく。
その羽音は嵐のようでありながら、不思議とやさしい響きを持っていた。
クロウたち五羽は、東京湾を望む高層ビルの屋上に降り立っていた。
眼下の街は、朝日を受けて少しずつ光を取り戻していく。
「……始まったな」クロウがつぶやいた。
チビがその横で空を見上げる。「本当に一万羽もいるんだ……」
空の彼方まで続く黒い帯が、風に合わせて形を変える。
まるで冥府の呼吸そのものだった。
「これで、人間界の命の線が整うの?」ピコが尋ねる。
クロウは少し間をおいてから答えた。
「整う、かどうかはわからない。けど……混乱は減るはずだ」
モノが静かに言う。「でも、全部の線を“正しく”するなんて、本当にできるの?」
「できないさ」カラが笑う。「だからこそ、私たちが飛ぶんじゃない?」
風が吹いた。遠くの街から救急車のサイレンが聞こえる。
チビは耳を澄ませ、じっとそちらを見つめた。
「ねえクロウ。助けることって、終わりがあるの?」
クロウはその問いにすぐ答えられなかった。
「終わり……か」
「たくさん救っても、また誰かが泣いてる。ぼくらはずっと、それを繰り返すだけなの?」
ピコが軽く笑う。「チビ、難しいこと考えすぎ」
けれどチビは首を振った。「だって、昨日の母親、笑ってたでしょ。あの笑顔を見た時、なんか胸が痛くなったんだ」
カラが目を細める。「痛くなった、ね。あんた、人間に近いのかも」
「それ、悪いこと?」
「悪いとは言ってないさ」カラは空を見上げた。「でも、“情”は翼を重くする。エンマ様も言ってたろ」
チビは黙ったまま、夜明けの街を見つめた。
クロウは少し間を置いて言った。
「チビ。お前の気持ちは間違ってない。俺も、人の笑顔を見て何も思わないわけじゃない。
けどな……“情”を持つことと、それに溺れることは違うんだ」
チビが小さくうなずく。
「溺れたら飛べない。でも、感じなかったら風が読めない」
クロウが微笑む。「それが、お前の強さだ」
モノが風を読むように羽を広げた。
「次の任務、もう動いてる」
「どこだ?」クロウが問う。
「北。北海道の方角。線が揺れてる」
ピコが苦笑した。「いきなり遠いな」
「いいさ。空を飛ぶための翼だろ」カラが言い、軽く羽ばたいた。
チビが小さくつぶやく。「人の笑顔を、もっと見たいな」
その声を聞いたクロウは、ほんの少し笑った。
「いいさ。じゃあ、見に行こう。風の向くままに」
五羽の影が朝の光を切り裂くように飛び立つ。
その背後では、一万羽の冥府カラスが世界へ散り始めていた。
黒い群れが空に道を描き、太陽の光にかすかに透けていく。
その羽音は、祈りのようでもあり、約束のようでもあった。
第5章 黒羽の誓い パート2
一万羽が空に散ったその日から、町の空気が少し変わった。
横断歩道で子どもを庇う腕が、以前より早く伸びる。
煽り運転の車が、なぜか赤信号の手前で必ず減速する。
路地で泣く幼児に、人がすぐ集まる。
ニュースは「偶然の善意が連鎖」と呼んだ。
クロウたちは北の空へ向かっていた。
冷たい風の層の中を、五羽でくぐる。
「下、見て」チビが指すように翼を傾ける。
田んぼのあぜ道を、独りの老人が歩く。足元が危ない。
モノが風を細く送り、草を鳴らす。老人が立ち止まり、段差を確認してゆっくり渡る。
「こういうのが、“一万羽”で一斉に起きてる」ピコが言う。
「良いことだ」クロウは視線を上げる。「ただ、風のクセが変わってきた」
その頃、別の街。
銀行の裏口で逃走車が急発進しようとしたが、鳩が群れで舞い上がり、運転手がブレーキを踏んだ。
通報していた店員が無事に外へ出る。
屋根の縁で、冥府のカラスが一羽、短く鳴いて飛び去った。
さらに別の町。
閉店間際のドラッグストアで、万引き未遂の青年が品物を棚に戻した。
入口の防犯タグがわずかに光り、レジの女性が無言で会釈する。
天井付近で影が一つ、くるりと輪を描いて消えた。
「世界が静かに整ってる」チビがうれしそうに言う。
「整う、の反動が来るはず」カラが短く返す。「風が重い」
重さはすぐに現れた。
港町で、救急車が三台連続で遅延。
道は空いているのに、信号の切り替えが妙にかみ合わない。
ピコが空中で止まり、耳を澄ます。「信号の“拍”がズレてる」
モノが風を流して測る。「ズレの源は……東の高台」
高台の上、小さな神社。
石段の脇に、黒い羽が何十枚も溜まっていた。
一万羽のうち数十羽が、同じ場所で風を作りすぎ、渋滞の“癖”を生んでいたらしい。
「善意の過剰だ」クロウが言う。
チビが慌てる。「止めに行こう!」
「行くが、責めない」クロウは静かに続ける。「やり方を揃えるだけだ」
神社の鳥居の上で、十数羽の冥府カラスがきちんと整列していた。
若い個体が多い。
「ここから風を送ると救急の進路が開けると思って」一羽が説明する。
「最初は良かったが、続けすぎて“待つ車”の列が固定された」カラが言う。
「合図を分散する。三か所で短く、休みを入れて回す」クロウが即座に割り振る。
モノが拍を刻み、ピコが音の合図を出す。
風が切り替わり、港の道が一本ずつ“ほどける”ように流れ始めた。
救急無線の声が落ち着く。
若い個体がぺこりと頭を下げた。「ありがとう。学びます」
その夜、冥府。
エンマは静かな広間で星図のような盤を見つめていた。
盤には地上の“線”が光の細い線で描かれ、ところどころが太くなり、また細くなる。
側近が問う。「第二段階は順調ですか」
エンマは短く頷く。「概ね良い。ただ、局所的な過剰が生じる。修正は早い。——やはり、次へ進む準備を」
「次」とは、百萬羽。
広間の奥、眠る影の海がわずかに波打つ。
側近がためらう。「反対も多い。『人の力を弱める』と」
エンマは視線を盤から上げた。
「弱めぬ。選択は人に返す。カラスは“気づき”を作るだけだ」
「最終段階の発動条件は?」
「この五羽が、人の力を信じたまま調整できるかどうかだ」
同じ頃、クロウたちは港の見張り台にいた。
海の黒が、街の光で小さく縁取られている。
ピコが羽をすぼめる。「今日は腹が鳴る暇もなかった」
カラが笑った。「それは良い日」
モノが海風を測り、ほっと息をつく。「拍は戻った」
チビは黙っていた。視線は遠くの住宅街へ向いている。
「どうした」クロウがたずねる。
「一万羽が飛んで、助かる人が増えた。でも……ぼくらがいなくなったら、どうなるのかな」
「いなくなる予定はない」クロウが言う。
「もしの話だよ。助け合う“癖”は、人に残るのかな」
クロウは少し考えてから答えた。
「残る。今日、港で待っていた車は、合図がなくても譲り合った。信号が戻る前にな」
チビの目が少し明るくなる。「見てたんだ」
「見た」クロウは短く笑った。「人は弱くて、強い」
そこへ、冥府の風。
エンマの声が短く届く。
《各地の調整、よくやった。次は広域だ。北から南まで“線”を一気に揃える》
ピコが肩をすくめる。「広域って、地図ぜんぶだな」
カラが翼を伸ばす。「面白くなってきた」
モノが頷く。「拍は私が取る」
チビが空を見上げる。「ねえクロウ。ぼくら、どこまで飛べる?」
「空の端まで」クロウは即答した。「そして戻ってくる。冥府は帰る場所だ」
上空を、一万羽のうねりが通り過ぎた。
羽音が海を揺らし、波が一段高くなる。
その奥、冥府の空で眠る影が、さらに大きな波を打つ。
百萬羽の支度は、静かに進んでいた。
「行こう」クロウが言う。
五羽は隊列を組み、北東の風に乗った。
街の灯りが小さくなり、海が広がる。
遠くで雷が光る。
そのひかりの手前で、五つの影がきれいに重なった。
第6章 冥府の空、世界の風 パート1
夜の世界が静かにざわめき始めていた。
一万羽の冥府カラスが、それぞれの空で風を操り、線を整えている。
人の行いは穏やかに変わり、争いは減った。
だが、クロウにはその静けさの奥に、不自然な圧を感じていた。
「風が重い」
北の空で、クロウが翼を止める。
空気が押し返してくるような感覚。
モノが風を読む。「気圧が下がってる。でも、これは自然の低気圧じゃない」
ピコが羽を震わせる。「風が……逆流してる?」
カラが眉をひそめた。「“善意”が重なりすぎてるんだ。人が互いに譲り合いすぎて、流れが詰まってる」
チビが驚く。「譲り合って、風が止まる?」
クロウは短くうなずく。「命の線も、風と同じだ。流れすぎても、滞っても壊れる」
地上を見下ろすと、信号の前で人々が互いに譲り合い、車が進まない。
交差点の真ん中で、歩行者たちが笑いながらも動けなくなっている。
スーパーではレジの客同士が「どうぞ」「いえ、先に」と延々と譲り合っていた。
それはやさしい混乱だった。
「この流れ……一万羽が“救い”を送りすぎてる」モノが言う。
「過剰な善意か」カラがため息をつく。
「悪人が減りすぎると、風の向かいがなくなる」クロウがつぶやく。
チビが小声で問う。「それって、悪も必要ってこと?」
「必要というより、“流れ”の一部だ」クロウの声は低い。
「風がどこかへ吹くには、押し返すものが要る」
その時、冥府の風が吹き抜けた。
エンマの声が響く。
《報告を受けた。世界の線の流れに偏りが生じている。》
《一万羽では足りぬ。百萬羽の準備に入る。》
五羽は同時に顔を上げた。
「百萬羽……?」ピコが声を上げる。
「待て、早すぎる」クロウが空へ叫ぶ。
《風の滞りを正すには、さらなる均衡が要る。》
《冥府のすべての翼を解放する》
モノが首を振った。「そんなことをしたら……!」
地上では、風がさらに強まっていた。
ビルの谷間で風が渦を巻き、雲が低く垂れ込める。
救済と裁きが重なり合い、あらゆる“線”が擦れ合って火花を散らすように、街の電線が鳴った。
「止めないと」チビが叫ぶ。
「でも、どうやって?」ピコが慌てる。
カラが叫ぶ。「冥府に戻るしかない!」
クロウが決断した。「行くぞ。風の根に戻る」
五羽は雲を切り裂き、冥府の空へと舞い上がる。
夜空が黒く裂け、その向こうに青白い光の海が広がる。
そこでは、無数の影が蠢いていた。
百萬羽の冥府カラス。
まだ眠っているが、今まさに目を覚まそうとしている。
「このままじゃ、世界が風に飲まれる」モノが声を震わせる。
チビが問う。「どうすればいいの?」
クロウは真っ直ぐに前を見た。
「エンマ様に会う。百萬羽計画を、止める」
カラが笑った。「ついに、直談判か」
「そうなるな」クロウは短く答え、翼を広げた。
冥府の中心、石の広間が見えてきた。
エンマの前に、黒い光が渦を巻いている。
その中心に立つ影が、ゆっくりと彼らの方へ顔を向けた。
「来たか、クロウ」
「はい」クロウは低く頭を下げた。
「百萬羽を飛ばせば、世界の風は壊れます」
エンマの瞳が静かに光る。「壊れるか、整うかは、私の手の中だ」
「いいえ」クロウが言い切った。
「風は、誰のものでもありません。人と、命の流れのものです」
広間の空気が震えた。
チビの心臓が早鐘のように鳴る。
エンマの背後で、百萬羽の影がざわめき始める。
光が波打ち、冥府の空が開く。
第6章 冥府の決断 パート2
冥府の広間は、青白い光で満ちていた。
天井の向こうに、百萬羽の影が波のようにうごめく。
クロウ、カラ、モノ、ピコ、チビの五羽は、石の床に並んだ。
階段の上に、エンマが立っている。
「百萬羽を解き放つ」
エンマの声は静かだが、広間の空気を押し出した。
「一万羽では足りない。世界の線はまだ乱れている」
クロウは一歩、前に出た。
「乱れは、直りました。足りないのは羽の数ではありません」
チビが続ける。「人が自分で“気づく”時間も、必要です」
エンマは五羽を順に見た。
「気づくまでに失われる線は、どうする」
カラが言う。「全部は救えません。だから掟がある。導く、奪わない」
モノがうなずいた。「風は押しすぎると止まります。今、世界がそうなりかけている」
広間の上空で、百萬羽の羽音が強くなる。
エンマが翼をわずかに広げた。
「秩序は、力で整えるほうが早い」
クロウは首を振る。
「早さは大切ですが、続きません。人が“自分で選んだ”と思える流れでなければ」
ピコが小さく手を上げる。
「ぼくら、試してみたいことがあります」
エンマの視線が動く。「言え」
ピコはチビを見た。チビが一歩、前に出る。
「風を、人に返します」
チビは深く息を吸い、ゆっくりと翼を広げた。
クロウ、カラ、モノ、ピコも続けて翼を広げ、半円を作る。
五羽の間に、薄い風の輪が生まれる。
それは強くない。けれど、どこへでも届くような柔らかさだった。
チビが低く鳴いた。
その鳴き声は、冥府を抜け、人間界へ走る。
朝の交差点で、ドライバーがハンドルを少し緩める。
病院の廊下で、看護師が一歩前へ出る。
暗い部屋でうずくまっていた少年が、カーテンを少し開ける。
「——今、あなたが選んで」
言葉にはならないが、そう聞こえる風だった。
広間の星図盤が光り、地上の線がわずかに揺れた。
押していた線が、ゆるみ、戻る。
過剰に重ねた救いがほどけ、空気が流れ始める。
百萬羽の影が、上空でいっせいに息をついたように静まった。
エンマは長く目を閉じた。
やがて、階段を一段降りる。
「……見事だ」
広間の空気が和らぐ。
「五羽よ。お前たちは“助ける”だけでなく、“任せる”風を作った。
百萬羽を解き放つ必要は、今はない」
チビの肩がほっと落ちる。
ピコが胸を叩き、小さくガッツポーズをした。
モノは風の輪を細く保ち、余計な波を消す。
カラが微笑む。「判断、間に合ったね」
クロウは一歩進み、頭を下げる。
「エンマ様。黒羽降下の一万羽は、必要な範囲で続けます。ですが“合図は短く、休みを入れる”。それが今の答えです」
エンマは小さくうなずいた。
「よかろう。冥府は裁かぬ。罰もしない。
試験は終わりだ。これからは、お前たちのやり方で飛べ」
広間の上空、百萬羽の影がゆっくりと畳まれ、深い眠りへ戻っていく。
重かった風が、冥府の端から端へと軽く流れた。
石床の上、黒い羽が一枚、静かに舞い降りる。
チビが拾い上げ、胸に当てた。
「ありがとう」
エンマが最後に言った。
「人間界が乱れたら、また呼ぶ。だが最初に動くのは人だ。
冥府は、気づきの後押しだけをする」
クロウが答える。「承知しました」
五羽は踵を返し、冥府の空へ飛び出した。
天井が開き、青黒い世界が反転する。
次の瞬間、朝の街の上空に出る。
雲が薄く切れ、太陽がのぞく。
交差点では、車が自然に間合いを取り、歩行者が笑って渡っていく。
港のクレーンが止まり、作業員が互いに手を上げて合図した。
学校の門では、子どもたちがドッジボールの列を自分たちで整える。
どれも小さなことだ。けれど、風が通っていた。
「戻ったね」チビが言う。
「戻したのは人だ」クロウが答える。
ピコが空を一回転。「腹、やっと鳴った」
カラが笑う。「じゃ、パンの屋根に寄ろう」
モノが風を確かめる。「北東、良い流れ」
五羽は並び、街の上を滑っていく。
下から、朝の匂いが上がってくる。
パン、味噌汁、洗い立ての布、新聞のインク。
どの匂いにも、今日を始める気配があった。
クロウが小さく言う。
「任務、続行。合図は短く。選ぶのは人」
「了解」四羽の声が重なる。
冥府の遠い空で、眠る百萬羽が微かに羽を動かした。
それは脅しでも、切り札でもない。
必要になった時だけ、静かな後押しをするための眠りだ。
朝の光が強くなる。
五羽の影が重なり、ほどけ、また重なる。
羽音は小さく、しかし確かに街へ届いていた。
——おわり。




