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深海の白鯨  作者: 黒川文
2.東京
6/21

(3)


 午後三時になり、芽衣は兄の健一の研究室のドアを叩いた。

「お兄ちゃん? 今、いいかな?」


 部屋の中では兄は不機嫌そうな顔で椅子の背もたれに寄りかかって書類を読んでいた。

「ああん?」

「えっと……。一昨日の出張のことなんだけど?」

「ああ。何だか先方にはめられたらしいな。本当の所はどうなったんだ?」

「それがね。まあ、これを見てよ」

 芽衣はウエストポーチからハンカチでくるんだUSBメモリを取り出した。兄はそれを手に取り机の右側にあるパソコンのスロットへ差し込んだ。

「要約するとね」

「流石だな。山本先生の好みをわかっている。常に相手の先を読む。これが出世の鉄則だ」

「茶化さないで。何だか不思議なターゲットみたいななの。旧式の対潜哨戒機で探していたことから、潜水艦か海底の何かだと思うんだけど、探知機には何も表示されていないのよ」

「先方のスコフスキー博士か。それは何者なんだ? ちゃんとした人物なのか?」

「一応、帰り際に偽の学会の論文集を渡されたんだけど、そこには発表者のひとりとして扱われていて、物理学者の肩書きになっているわ」

「それが偽物ということか。本来の所属は?」


 その問いに答える前にサン・ディエゴの空港で出会ったウィルバー・ライトマンの話をした。この研究室に所属するオーヴィル・ライトマンの双子の兄であり、空軍の輸送機を自由に使える身分であることだった。

「ふうむ。情報当局者ということか? 確証はあるのか? とはいえ、輸送機をタクシー扱いか。ただものではないな。大使館のマッケイ氏は何か言っていたのか?」

「ううん。あっちも彼の正体は知らないみたい」

「秘密機関か。それはいいとして、ターゲットが謎だと言うことか」

「それでね……」

 芽衣は潜水艦らしき物の探知作業の前に海上で炎を上げて燃え上がる軍艦の話をした。

「ああん?」

「それでね。ウィルバー・ライトマンさんはスコフスキー博士の正体がDARPAの研究者で潜水艦の専門家だと口にしたのよ」

「謎の潜水艦か。対潜哨戒機でも捕捉不可能なもの?」

「そうなのよ。でも、そんなことってあるのかな? 磁気センサーにも音響探知機にも反応しない。そして、何もないこと、それそのものが存在の理由だなんて」

「哲学的だな。確かに探知困難な物体は存在する。海中であれば海底火山の近くの平地に潜んでいたり、氷山の真下にいた場合、そんなこともあり得るだろう。しかし……」

 兄はパソコンの画面を操作した。「サン・ディエゴから五〇〇キロ離れた太平洋の一点か。近くにそんな場所はない。しかし、そもそも本当にそんな物があったのだろうか。見えない影に怯えている小学生みたいだ」


「待って。もしかしたら本当に見えないものに恐れているだけかも知れないの?」

「本来なら……。これまでのやり方だったら、こんなことはなかったじゃないか」

「ああ。マッケイさんも何も知らずに使われているだけだと言うことね」

「そう。それにうちに何かを頼むときには必ず、内閣安全保障室長の後藤さんを通すことになっていた。マッケイ氏も知らなかったとはいえ、日本の情報当局が完全に蚊帳のの外と言うことはあり得ない。もうよっぽど差し迫った脅威があるのか、日米の外交や安全保障担当者にも知られたくないかなのだろう」

「ええ?」

「すでに退役しているはずの対潜哨戒機。しかも、軍用機の塗装すらされていなかった。乗員も民間の作業服姿。全体の指揮を取っていたのも、その実体がよくわからない物理学者。しかも、本当の所属は情報当局ですらなく開発機関であるDARPAだった?」

「ああ!」

「何だ?」

「だからかも。中のコンピュータは最新のものだったの。普通は軍用機って採用時や改造の承認時の仕様って変更出来ないんでしょう? 軍用機ではないから、そんな所が改造しまくりだったのかも」

「そうかも知れない」

「お兄ちゃん。パソコン借りるわよ」


 芽衣は机の横を通り、兄の横に立ち、そして画面をこちらに向けてキーボードとマウスを奪った。謎の対潜哨戒機から失敬したUSBメモリの中身をざっと表示させる。背後にスコフスキー博士が立ち、その前で怪しまれないように注意して操作したものだ。


「アルテミス計画?」

 芽衣は付属している文書を見つけた。

「ああん?」

「全長八〇メートル。横幅一八メートル。基準排水量四五〇〇トン。……これが、あたしの追っていたものだったのかしら?」

「本当に潜水艦なのだろうか?」

「ええと……」

「アメリカ海軍の軍艦は地名か政治家の名前を冠されている。ギリシア神話なんかから採用するのは多分だが、実験船なのだろう。それに、アルテミスは神話上では太陽神アポロンの双子の妹だ。もしかしたら、もう一隻、アポロンという名前の軍艦もある可能性がある」

「実験船? だから、開発機関のものだと?」

「その可能性が高いと思う。そうすると……」

「なぜそんなものを大勢の優秀なスタッフが総出で探し回っているのかと言うことね」

「スコフスキー博士は何と言っていた?」

「それが、最初に向こうの空港に着いたときに出迎えてくれていたのよ。普通の学会ではあり得ない待遇よね。でも、やっぱりその後に海軍基地へ連れ去られて、よくわからない作業に就かせられたの」

「このアルテミスのことについては、どう表現していたんだ?」

「ううん。全く何も。ただ、『探せ』とのみ」

「つまり知られたくないと言うわけか。しかし、それは協力者に対する態度ではないな。問題は、『なぜ、それを追いかける必要があるのか』の一点に尽きると思う。単純にDARPAの所有物であれば、帰還を待つだけでもいいし、探さなくても実験担当者が位置を把握していて当然だ。そして、お前が見た別の軍艦が海上で炎を上げて燃えていたこと。もしかしたら、何者かに乗っ取られて脱走して、それをDARPAが秘密裏に取り戻そうとしていたという可能性もあると思う」

「でも、どうしてあたしだったんだろう? 他にも適任者はいそうな気もするけど」

「そこそこ、知られているんじゃないか? 情報当局者の間では。マッケイ氏のお気に入りのスタッフ扱いだからこそ、こんな時にお呼びがかかるんじゃないか。お金だけかけて何の成果も上げられないやつではないと思われているんだろう。それは自慢していいと思う」

「自慢してもいいんだ?」


 芽衣は横を向いて、にんまりと笑みをこぼした。

 滅多に人を褒めることはない兄の言葉はそれなりに重いものがある。


「だとすると、スコフスキー博士はかなり困っていたのだろう。そうすると、お前が会ったというウィルバー・ライトマンは何者なのだろうか? うちのオーヴィルの双子の兄だと言うのか?」

「そうそう。めちゃ似ていたのよ。空港で会った時にもオーヴィルだとばかり。でも、彼の一族で学者をしているのはオーヴィルだけだと言っていたっけ」

「彼だけ? そんなことはないだろう。オーヴィルの親も兄弟も数学と物理学の世界では結構、名前の知られた学者揃いだぜ。むしろ、そいつの方が異端児ではないのか」

「そういえば、オーヴィルって兄弟が多いって言っていたけど、何人いるんだろう?」


 兄はパソコンの横に積んである書類の山の下の方にある紙ファイルを引っ張り出した。学生や大学院生の名簿だが、教官用のものであり、研究室用の名簿とは異なりかなり細かいことまで書き綴られていたみたいだ。


「ええと。七人? まじかよ」

「そんなに?」

「まあ、宗教によってはそんな一族もあるみたいだし、そんなに驚くほどでもないのだろう。彼の大学院入学時の情報だが、やっぱり、学者が多いみたいだ。ただ、ウィルバーという兄がいて、国務省の官僚だと記載にあるな。他にも姉のひとりがFDA職員とある。学者というのも役人というのも嘘ではないと言うことだ」

「じゃあ、あたしが騙された訳ではないのね」

「しかし、国務省や大使館職員を装った情報関係者というのも、あながちハズレではないだろう。彼の立ち位置はどんな感じなのだろうか」

「ええと」


 芽衣は考えられる限りの事態を想起した。

 仮にスコフスキー博士がDARPAの研究員で謎の潜水艦の担当者で、なぜかその行方を掴むのに必死になっているとすると、ウィルバー・ライトマンは、博士の立場を知っていて、それでいて、どこかで一線を引き、事態の収集を図るために日本へと移動していたことになる。しかも、民間の航空機が欠航となるや否や、空軍の輸送機を簡単にチャーターして太平洋を一っ飛びしたのだ。もう、余程急いでいたと思われる。

 普通のひとで、普通の出張であれば、芽衣自身もそうだったように、欠航は遅刻の言い訳には十分である。


「アルテミス……」

「普通は実験以外の用途には用いられないと思う。もう、何かよっぽど切羽詰まった事情があったのだろう。アルテミスの運用も、その後の追跡にも」

「じゃあ、炎上していた軍艦も、アルテミスを捉えようとして返り討ちになったと?」

「かも知れない」


 芽衣は画面を切り替えた。

 あの時、会場で炎を吹き上げていた軍艦だ。

 対潜哨戒機P3Cの識別装置では駆逐艦J.J.トムソンだった。


「おいおい。駆逐艦と言っても最新のイージスシステム搭載だろう? どうしてこんなに簡単にやられてしまったんだよ? 空の守りも海からの攻撃に対しても完璧なはずだ。これにも何かカラクリがあるのだろうか」

 兄は興味深げにパソコンの画面を見た。

「そう言われれば、そうかも。あたしもあの時は炎上していることに気を取られて、そこまで考えなかったわ。でも、そんなに完璧なの?」

「ううん。油断があったんだろうか。潜水艦攻撃と言っても、自国の艦船なんだよな。まさか、攻撃されるとは思っていなかったのだろうか」

「普通は?」

「魚雷発射の準備をするだけで、その音を拾って検知できるはずだ。みすみす、やられてしまうことは考えにくい。それに、アルテミスが脱走したものであれば、なおさら、警戒の度合いは高かっただろうしな」

「存在がないことが、その存在を示す。これって、探知出来なかったのでは?」

「そんなことがあるのか?」


 兄は渋い顔になった。

 三分ほど画面を眺めていたタイミングで、机の上の電話が鳴った。

 ワンベルで受話器を取った。

 山本教授からみたいだった。芽衣は、自分の出番も考えて、心の中で準備を始めた。



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