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深海の白鯨  作者: 黒川文
2.東京
5/21

(2)


「何ですか。これ?」

 芽衣はキョトンとした表情のまま渋谷に問うた。さっと目を通して横の加村へ渡した。彼も無言のまま渋谷の次の言葉を待っていた。

「見ての通り、パワハラ・セクハラ委員会からの呼び出し状だ」

「えぇーっ! マジですか?」

 芽衣は叫んだ。

 この委員会は存在自体は知られていたものの、その活動を目にしたのはこれが初めてだった。場所は教務課の中に置かれていたが、制度上は大学からは独立した組織となっている。ただ、大学の性質上、ハラスメントは指導教官によるものが多く、大学院生だけが名指しで批判されるのは意外なことでもあった。

 そして、被害者は書類上では「荒木ののか」となっていた。


「それで渋谷さんは、これを発表会の間中見ていたのですか?」

「俺もショックだった」

 それはそうである。「ハラスメント上等!」の常習犯的な教授ならこんなこともありそうだが、それ以外の人物からのものであれば、端的に言うならば上司である教授やその他の教官に言えば解決しやすい事柄でもあるのだ。それをすっ飛ばして、ハラスメント委員会に被害届を出すなど、もうよっぽどのことだった。そして、訴えた本人にも被害が及ぶ。

 これから卒業論文の執筆をするのに指導院生のアドバイスが欠かせないし、もし、このために指導院生や教官が交代することになれば、その進行がかなり遅れることも覚悟しなければならないし、ましてや卒業を来年三月に控えた身としては、最悪の事態としては卒業論文を期日までに提出出来ない恐れすらあったのだ。


 ——こいつ何を考えているのだろう?

 芽衣にはそれも疑問だった。

 時期的には、こんなものを出して得なことなど一つもないし、そんな事実があったとしても、もっと早く出すべきだった。多分、五月か六月であれば、まだ指導院生や教官の交代もあり得たはずだ。


「それで聞きたいことがあるんだ。加村君に」

 やはり、芽衣にではなく、荒木の同期である加村への質問だった。

「荒木さんの素性に関してでしょうか?」

 彼は荒木に「さん」をつけた。

 これで芽衣にはピンと来た。

 加村は少し考え込んだ。かなり前のことまで思い出そうと記憶を辿っているみたいな感じを漂わせた。


「あいつ。まともなのか? セクハラやパワハラの事実に思い当たらないんだ。威圧的な言動もしていないし、体に触れたこともない。このご時世だ。その辺りは極めて気をつけていたんだ」

「そうですねえ。……こんなこと言っていいのか。かなりプライベートな内容になりますが」

「それでいい」


「あの人……聞いた話なのですが、三浪していて、さらに二留しているそうなのです。なので、僕たちより五つ上になるかと思います」

「そもそも入学年次が違うのね?」

 芽衣は状況を考えた。

 留年制度は、単に必須単位が揃わずに、卒業研究を履修出来ない場合や、そもそも進級できない場合などいくつかのパターンがあった。ただし、就職などで極めて不利なため、大学によっては、年数制限を課している所もあった。実際、ここでも三回までが限度であり、要するに七年生までしか存在しないようになっていた。

 しかし、浪人までは大学側が関知する所ではなく、それは受験生それぞれの事情にのみ委ねられる。

 ただ……。やはり、卒業時の年齢があまりに高いと、後々支障があるのは同じことでもある。

 そして……。浪人生がそんなに珍しくない大学では、新入生同士でも相手の年齢をそこまで気にすることは少なく、大体が普通に友達関係となる。いわゆる同級生だ。

 そんな中、留年生だけは少し事情が異なっていた。

 やはり、多少は先輩扱いだ。


 しかし、受けるべき科目が重なる同級生とは異なり、彼ら・彼女らの必要科目でしか顔を合わせることがないため、知らない人が混じっていても、そんなに気にすることも少なく、多分、四年生になった時の卒業研究で同じ研究室になって「ああ」と思うくらいかも知れなかった。

 実際、芽衣も、荒木ののかのことは自分の研究室に入ってくるまで存在そのものを知らなかった。


「加村君。では、荒木のことはそんなに知らないのかい?」

 渋谷はがっかりした表情で尋ねた。

「それがそうでもないんです。学生同士の関係と言うよりサークル関係と言った方がいいかも知れません。実はあの人、過去にもハラスメント系の騒ぎを起こした経歴があるんです」

「ええ?」

「これはテニス部の先輩から聞いた話です。というか、部内ではかなり有名な話なんです。あの人が一年生の時に、副部長だった沢田さんと言う四年生がいたんです。テニス初心者だったあの人に熱心に指導していたと言うことらしいんですが……」

「その熱心さが仇になったと言うことかい?」

「どうもその様なんです。実際、本当の所は本人にしかわからないことでもあるのです。でも、沢田さんの普段の態度からしても、そんなことはあり得ないと言うのが部内の意見でした」

「そんなことって。いわゆる男女関係のことかい?」

「それが……レイプされそうになったと」

「それは本当なの?」

 芽衣も口を挟んだ。

 誰もいない部室の中。年頃の男女が同じ空間にいた。体の線がくっきりと見えるスポーツウェア。したたる汗。段々とそんな雰囲気になり……と、そんなこともあるかも知れない。しかし、「あるかも知れない」と言う状況がその状況を作り出す素地となっていた。

 この話というのか、噂話の中に確実な情報はひとつも含まれてはいなかった。


「では、その時も大学のセクハラ委員会へ訴えられたと?」

 渋谷は渋面で尋ねた。

 しかし、芽衣は疑問だった。

 物的証拠などが何にもない状況だ。訴えたところで対処のしようもないだろうと思った。

「それが、この話が有名になったきっかけなんですよ」

「と、言うと?」

「だってそうではないですか。レイプされそうになったと言うことは、抱きついて体の自由を奪われたり、体をまさぐられたり、服を脱がされたりと言ったこととが付きものですよね。だったら、セクハラ委員会ではなく警察事案だと思うんです。これは法学部の先輩も言っていました。あの人の言うことが全て真実であれば『強制わいせつ』に該当するのではないかと」

「その時に何か証拠の様なものはなかったの? 加村君」

「それなんです。騒ぎが大きかったのに、結局具体的な話が何にもなかったんですよ」

「ふうん」

 と、芽衣は相槌を打ち、渋谷は顔に影が差していた。


「と、それだけに終わらなかったのも、この事件が有名になった点なんです」

「ええ?」

 芽衣と渋谷は同時に声を出した。

「これも先輩から聞いた話なのですが……」

「聞くわ」

「その先輩は武蔵市にある家庭教師の派遣会社でアルバイトをしていたそうです。その時の生徒のひとりが、当時浪人生だったあの人だったんです。成績はそれほど悪くはなかったと言うんですが、そんなある日、とんでもないことになりました」

「またレイプ未遂?」

「そうです。あの人の実家の勉強部屋の中での『犯行』でした。ベッドの上に押し倒されて、無理やり犯されてしまったと、家庭教師の派遣会社へ訴えがあったらしいです」

「それって事実なの?」

「それも、やっぱりはっきりしませんでしたし、訴えは本人だけで、後から保護者を交えた話し合いの時にはすでに話が沙汰やみになり、結局、その先輩がアルバイトを首になるだけで、それ以上の追求はなされなかったと言うことなんです」


「もしかして、もっとあるんじゃないだろうな?」

 それまで、どんよりとした顔で話を聞いていた渋谷が口を挟んだ。

「はい。……でも、僕が思うに、あの人の経歴が、問題を複雑化させているんじゃないかと思うんですよ。普通、一浪くらいなら、同じ高校の出身者たちとも割と繋がりがあるではないですか? でも、その期間が長ければ長いほど、誰とも接することなく、つまり、誰もよく事情を知らない状態になると思うんです」

「それは……まあ、そうよねえ」

「そうだな」

 芽衣と渋谷は同時に相槌を打った。


「他にも『武勇伝』はいくつも存在するんです。浪人中に通っていた予備校への通学途中でアダルトビデオ制作会社のスカウトマンに捕まって、騙されてそのまま出演させられたとか、あるいは現役での受験時に電車の中で痴漢に遭って、犯人を突き出したために、事情聴取なんかで時間を取られて、受験に間に合わなかったとか。他にもあるんです」

「何だよ、それは? まるで性犯罪のデパートみたいじゃないか」

「実際、そんな感じなので、あの人を知る男子は誰も近寄らなくなった次第です」

「おいおい。じゃあ、俺が新たな『性犯罪者』と言うことなのか?」

「今となっては。でも、有名人なので渋谷さんもご存知なのかと思っていました。だからちゃんと、あの人とは距離を置いているのだとばかり……」

「それは今初めて知った。君の先輩たちで理系学部はいないのか?」

「ええと。そうですね。渋谷さんより少し上だった、東海林さんとか西大寺さんとかがご存知かも知れません」


 芽衣は、以前のことを思い起こした。

 確かにこの研究室の大学院生で、その名前を見た気がした。でも、申し送り事項にも何も記載がなかった。加村の言う通り、荒木ののかの経歴が事態を複雑化してしまったのだろう。彼らとて、卒業して就職するのに、そんなやばい話に関わった痕跡すら残したくはなかったはずだ。


「おい、黒澤!」

「はっ!」

「本学のパワハラ・セクハラ委員会にはこの情報は残っているんだろうか?」

「ああ。そう言われればそうですよね。でも、最初から荒木がやばい奴で、冤罪事件だとわかっているのなら、わざわざこんな時期に渋谷さん宛に『呼び出し状』なんか送るはずがないですよね。どうなんでしょう?」

「ふむ。俺はどうしたらいいんだよ?」

「そうですよね。……困りますよね。あたしが思うに、もう、事実関係を詳らかにして、荒木の過去の行状とその記録を明らかにするのが一番いいのではないかと思います」

「ふむ。そううまくは行くかな? あいつはかなり上手く立ち回っているように思える。多分、過去の事件に関わったひとたちも、関わりたくもないだろうから、証言なんてしないんじゃないか?」

「えっと。そんなものでしょうか?」

「ちなみにこの件は教授たちには伝わっているのだろうか?」

 それが今の渋谷にとっての最大の懸案みたいだった。

 そして、この時期に教授に「厄介者」と思われること、それそのものが、今の院生に取り最悪の事態を意味していた。


「論理的に間違ってはいない。委員会にそう判断させればいいんですよね? それなら山本先生の機嫌も、そこまで損なわれないかと?」

 芽衣はそう提案した。

 彼も物理学者の一員だった。

 言わんとすることは通じたみたいで、「ふうむ」と呟いてポケットからメモ帳を取り出した。帰納法、演繹法、背理法。色んな議論の詰め方があるだろう。芽衣はそれに期待した。




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