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深海の白鯨  作者: 黒川文
2.東京
4/21

(1)


 日本時間、九月一〇日、午前七時。

 芽衣の乗った小型ジェット機、C37・ガルフストリームVは定刻通りに東京・横田基地の滑走路に着陸した。

 機体後部の搭乗ハッチが開き、地上のスタッフが回してくれたクルマが見えた。ウィルバー・ライトマンは敬礼をする相手に軽く会釈して、そのままクルマに乗り込んだ。芽衣にも手招きしてくれたので、そのまま後に続いて乗り込んだ。

 とりあえず、今日の午後から予定されている研究室の中間発表には間に合いそうだった。

 学生各位と大学院生がその対象となるイベントだった。

 とはいえ、全員ではない。

 論文に勤しむのは学部の四年生と、大学院生のうち修士二年と博士三年が主になる。他の院生も研究の進捗具合を確かめられるが、この時期に急ぎなのは、やっぱりその面々だけだった。


 ウィルバー・ライトマンの行き先は赤坂のアメリカ大使館だったみたいで、芽衣は途中の駅近くで下ろされた。ここまで来たら、後は地下鉄を乗り継ぐだけだった。地上に出て東都大学の上野キャンパスへと向かう。

 しかし……である。

 今回の学会が偽のものだったことについては、多分マッケイ大佐から山本教授へ詫びの電話か何かあるはずで、その点は心配はしなかったが、新たな問題が差し迫り増えていた。マッケイ大佐ですら知らなかった極秘の潜水艦だ。


 通用門をくぐろうとして、芽衣は背後に気配を感じて振り向いた。

 可愛らしい子が立っていた。——男の子だろうか、女の子だろうか? 見た目ではわからない感じだった。しかし、この子の服装には見覚えがあった。母校の都立緑ヶ丘高校の男子のブレザー制服だった。

「ボク? 大学に何かご用?」

「えっと。……黒澤先輩!」

「え? あたし?」

「これ!」

 少年は小さな紙片を差し出した。

 何だか、小さく折られた手紙の様にも思えた。

「これって? うちの学生の誰かに渡せばいいのかな?」

「いいえ。黒澤先輩にです」

「ええーっ! あたしに? 君から見たらおばさんだよ」

「そんなことないす。実は緑ヶ丘高校の文化祭のときからのファンなんです」

「文化祭?」

 芽衣は記憶を辿った。確かに高校生の時に生物部にいて、文化祭では展示物を出してはいた。しかし、名前だけの部であり、ミドリガメの甲羅磨きと金魚の餌やりだけで、大したことはしていないし、芽衣自身はその間、よその模擬店でたこ焼きを食べて過ごしていたのだ。こんな可愛い美少年が訪れていたとは思いもしなかった。——高一か高三の時としたら、この子はいくつだったのだろう? 今から五年前か七年前のこと。小学生のはずだ。そんな小さな子が高校の文化祭に来ていたのだろうか。


「ううん。まあ、嬉しいんだけどね。でも……とりあえず預かっておくね」

 芽衣はそう言い、とりあえず、学内に戻った。


 理学部三号館。二階の会議室。

 すでに研究室の中間発表会は始まっていた。芽衣は入り口近くにいた博士院生に会釈して後ろを通って空いている席に着いた。山本教授は窓側の席にいて、芽衣の方を見ることなく手元の書類みたいなものに熱心に食い入っていた。紙の束の横には電卓があり、何やらボタンを押しながら赤ペンで書き入れていた。

 さらに観察すると、電卓の数字キーとプラスとマイナスしか押していないみたいだった。すなわちお金の計算だと思われた。ホワイトボードの前でグラフの説明をしている学生の方はチラリとも見ずに手元に集中していた。こんな時の教授は大抵、研究費用や外部からの寄付金の額に熱中しているに違いなかった。

 もしかしたら、芽衣がサンディエゴへ行ったことの代価かも知れなかった。

 よくわからない仕事への従事。

 スコフスキー博士は「商談は成立している」と言っていたことから、かなりの金額が寄付金として研究室に入ったのだろう。


 ひとり、またひとりと発表は進んだ。

 出席している田端准教授や兄の黒澤健一講師からは、二、三の指摘みたいな質問がなされたが、それも学生は卒なく返事していたし、口ごもっても指導の大学院生が代わりに答えていて、大した問題はなさそうだった。それに……である。肝心の山本教授から何も指摘がないことから、先生たちからの重要な問題提起はないものと考えてよさそうだった。


 と、その時。

 最後の発表者である四年生の荒木ののかが締めくくろうとしていた。

 ひとりが手を挙げた。博士院生のオーヴィル・ライトマンだった。

「イクスキューズ・ミー。ミス・アラキ。クッド・ユー・イクスプレイン・イクエーション・3・2?」

 発表原稿にあった数式(3.2)に関する説明を求めた。

 オーヴィル・ライトマンは日本語を喋ることが出来て、普段は日本語でやり取りしていた。英語を使うのはこんな時だけだった。そして、ホワイトボードの前の荒木ののかは固まった。よくあるやばいパターンと言うやつだった。何の気なしに記載した方程式に質問を寄せられる。意外と答えられないものだ。芽衣は荒木の指導をしている渋谷宗佑を見た。ちなみに彼は研究室のみんなから「しぶやそうすけ」と呼ばれているが、実は違っていることは、研究室の学生名簿を作った芽衣だけが知っていた。

 本名は「しぶたにむねよし」。

 しかし、彼はずっと「しぶや」と呼ばれていて、それに慣れていていちいち反論も訂正もしていない。ここでも、皆から「しぶやさん」と呼ばれていた。


 彼は、そろそろ口を出さなければヤバそうな荒木に助け舟を出さなかった。そして、荒木は炎上した。

 こんな時は何かそれらしいことを口にして、さりげなく質問をかわすのが鉄則だ。

 ——通説ではこの式が主流だと思う。あるいは前の式を変形したらこうなった、詳しい計算は後で説明しますとか。

 しかし、荒木は完全に止まってしまった。こうなると、他の式にも質問が及んでしまう。こうなると、もう駄目である。鋭い指摘が次から次へと飛んで来るのだ。卒業研究は理論を学ぶ貴重な機会でもあるが、こうした理論への攻撃をかわす訓練でもある。


「ああ、うう」

 荒木は口をぱくぱくさせ、そう呟くだけだった。

 渋谷は完全に見放しているのか、手元の資料に目を通すことに集中していて、会議室の前方にいる荒木の方をチラリとも見なかった。こんな時のための指導院生や教官である。「それについては、私から……」とか何とか助け舟を出すのが常識だった。

 そして、荒木は俯き、涙をこぼし始めた。

 オーヴィルもいじめる気など毛頭なかったに違いない。少し当惑した表情をしていた。単なる数式の計算間違いか、書き間違いだと思っていたのだろう。普通なら簡単なことだったと思う。

「ポテンシャル場の積分値を表すもの……だよね?」

 と、心配したのか、オーヴィルも普段の日本語になった。


 ——そう。単なる計算ミスだ。

 芽衣はそう思ったが、相変わらず渋谷は手元の資料に集中しているままであり、誰も口を開かなかった。どうなるのだろう。芽衣は少し不安になってきた。山本教授がこっちに注意を向け、あれこれ指摘し始めたら、もう最後だ。


 そして、事態は最悪の場面を迎えた。

 山本教授が荒木を向いた。

「君ぃ! こんな計算の根拠も把握していないのか! 一体、この半年、何をしていたんだ! もう九月だぞ。本来なら研究結果をまとめるべく、論文の下書きに入ってもいい時期だ。こんなので来年、卒業出来ると思っているのか。ええ?」

 教授は手元の電卓を大事そうに脇によけた。大事な計算結果だったのだろう。芽衣は「誰かが助けなきゃ大変だ」と思った。もう、ただではすみそうない。


 その後の約三十分間。結局誰もフォローしなかった。

 荒木はずっと下を向き、ショックのあまり口も利けない様子だった。

 芽衣は何とかしてあげたいと思うが、やっぱり、他の院生や教官の管轄でもあり、口を挟めなかった。そして、山本教授は無能な相手を極端に嫌っていた。他人の部下ならどうでもいい感じだが、研究室内の他の教官や大学院生、そして学生にはとりわけ切れる人材を求めているきらいがあった。先を読んで答える。そうでないものは最初から発言しない方が無難だった。


 山本教授も、全く返答のない荒木を見て深くため息をつき、そして、口で説明しながら文献や専門書の題名をいくつか挙げて、それを手元のメモに書き取り、荒木に渡すよう隣の学生に指示した。

 芽衣が見ただけでも、ざっと十五本くらいの量だった。

 多分、それらを読み込み、内容をレポートにして出すよう言うつもりなのだろう。それはそれで本人のためかも知れない。ただし、もう九月の十日だった。論文の執筆作業に入らなければならない時期でもあったし、この中間発表自体が、その最終確認みたいな位置付けだったのだ。提出は来年の二月末となるが、四年生には初めての経験であり、多分、何度も書き直すことが予想され、そのスタートが遅れることは、かなりのリスクだった。


 午後四時となり、発表会は散会となった。

 ホワイトボードの前で泣きながら立ち尽くす荒木の姿を横目で見ながら、それぞれ部屋を出て行った。


「黒澤。ちょっとすまない」

 と、ずっと沈黙を保っていた渋谷宗佑が芽衣を、ドアの外側で呼び止めた。

「何でしょうか?」

 ——多分、荒木ののかのこれからの処置のことだろうかと直感した。

「ちょっと相談したいことがある。君と……ああ、加村君も同席願いたい」

「え? ああ、はい。わかりました」

 そう言われて芽衣は廊下の先を歩いている加村雄一の名を呼んだ。

 どちらかと言うと、芽衣への依頼ではなく加村への依頼なのだろう。彼の指導院生は一応芽衣だったので、その断りを入れるつもりなのかも知れなかった。


「ここだと少し話しづらい。喫煙室でもいいだろうか?」

「ええと。……研究に関する話ではないと言うことですか?」

「ああ。個人的な……いや、俺個人ではなくて、やっぱり、研究室に関わることなのだが、その線引きは少しセンシティブなんだ」

「わかりました。加村君。来て」


 喫煙室は、かつて学生がヘビースモーカーだった頃の名残の場所だった。

 十年ほど前までは実際に学生や教官がタバコを吸う場所だった。しかし、このご時世である。段々とタバコへの風当たりが強くなり、本来の喫煙室は単なる休憩場所と化し、実際にタバコを吸っていいのは、各棟の一階の端にある小さなスペースだけになっていた。

 そして、渋谷は脇に抱えていたファイルの中からA4の用紙を取り出した。



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