(2)
九月一〇日、木曜日。
午前一〇時。芽衣はサンディエゴ国際空港・ターミナル2の待合で椅子に腰掛けて、放心状態になっていた。
元々は昨日の朝から夕方にかけて、学会発表に出席する予定で、行きの航空機内でも発表原稿のチェックで寝ていなかったし、時差ボケと対潜哨戒機に乗せられたせいもあり、緊張で眠れていなかった。ここに来て帰りの便を待っていると猛烈な眠気に襲われていた。
――結局、どこに連れて行かれたのだろう?
それを疑問に思い、ポーチの中からスマートホンを取り出して画面を見た。
GPSで動きが記録されているはず……だったのだが、スイッチが切られていた。確か、対潜哨戒機に搭乗したときに計器にノイズが走るからと取り上げられ、降りるまで返してもらえなかったのだ。しかし、飛行時間から見てサンディエゴの海軍基地から西へ六〇〇キロくらいまで移動していそうに思った。かなりの過酷な勤務と言えた。
「ふうっ」とため息が出た。
眠くて仕方がなかったが、機内に乗り込み座席につくまで寝るわけには行かない。
――待てよ。
芽衣はスコフスキー博士の行動を思い起こした。
何か検知出来ないものを探すのに、わざわざ嘘をついてまで芽衣を東京から呼び寄せたのだ。もう、よっぽどの事情があったのだろう。いるはずのものが見つからない。もしかしたらICBMとかヤバいものかも知れなかった。
そして……。芽衣は転んでもただでは起きないタイプだった。
ポケットに密かにUSBメモリーを持ち、それを飛行中のコンピュータに差し込んでいたのだ。液晶画面の信号にフィルタを掛けたり、色々加工する間、内緒でデータを落とし込んでいた。
ふと、目を上げると黒っぽいスーツに身を包んだ、背の高い白人男性が空いている席を探して立ち止まっていた。顔を見て芽衣は、あれ? と、思った。
「オーヴィル?」
大学院の同じ研究室にいる留学生だった。博士院生なので芽衣よりは三つほど年上だった。しかし、毎日顔を合わせているのだ。アメリカに行くのなら一言声を掛けてもらいたかった気分だ。
しかし、彼は聞えぬ風を装い視線をこちらにやることなく、まだキョロキョロと席を探していた。芽衣は立ち上がり、片手で彼の肩をポンと叩いた。
彼はキョトンとした目で芽衣を見た。――似ているだけで、違うひとだったのだろうか。少し慌てたが、やはり、オーヴィルで間違いない。
「オーヴィルですよね?」
芽衣がそう念を押すと、彼は首を横に振った。
「人違いではないか。わたしはオーヴィルではない」
「え、でも、東都大の計算機物理にいらっしゃいますよね?」
ここに来て芽衣は自分の記憶に自信がなくなってきた。
「双子の弟でオーヴィルと言う男がいて、確かに東京に留学しているが……」
「え? 双子の兄弟なのですか? 失礼しました」
双子の兄がいることは聞いたことがなかった。
「僕はウィルバー・ライトマン。あのライト兄弟と似た名前だが、親戚でもなんでもない」
「ああ……。あの、これから日本へ?」
「ああ、仕事でね」
「やっぱり物理学者なのですか?」
芽衣が目を輝かせながら尋ねると、彼は一瞬上を見上げて向き直った。
「うちの家族で学者をしているのは、彼だけだ。わたしは外交官なのだよ」
「え? そうだったのですね。これから東京へ行かれるのですか?」
「元々、赴任が決まったばかりなんだが、急な会議があってね。詳しくは言えないが。たといオーヴィルの友人だとしてもだ」
「外交官?」
「ああ」
――完全な勘違いではなかったことに、芽衣は安堵の息を漏らした。見た目での判断はある程度間違いないものだ。確かに普段接することのない外国人であれば、見間違うこともあるだろう。しかし、オーヴィル・ライトマンとは同じ研究室で席が隣だったし、いつも遅くまで議論をしている仲でもある。
不意に壁の上部にある、航空機の行先掲示板がカラカラと音を立てて記載が変った。芽衣は乗るべき機体の準備が終わったのだと思い、見上げた。
案に相違して「キャンセルド」の表示に切り替わった。アナウンスが発せられた。
「ノースライトニング航空、サンディエゴ発・東京行き、121便。機体故障のため欠航となります。まことに申し訳ありません。代わりの機体は明日一〇時に離陸予定です」
「えぇーっ!」
芽衣は叫んだ。
元々、架空の学会への出張だった。そのことは上司の山本教授も知っている。真っ直ぐ帰着して大学へ顔を出すことになっていたのだ。ちょうど時期的に学部四年生の研究の中間発表会が行われることになっていた。芽衣が担当している学生のフォローもしなくてはならないし、そもそも、大学院生に欠席の選択肢はなかった。
オロオロする中、ウィルバー・ライトマンはポケットからスマートホンを取り出し、どこかへ掛けていた。相手は空軍基地の様だった。
「心配しなくていい。小型ジェットだが輸送機を手配してもらう。君も乗せてあげようか?」
――空軍にそんなことを要請して、それが簡単に受け入れられる。彼のことが単なる外交官でないことをうかがわせた。本気にしていいのだろうか。それに芽衣をこの地まで呼び寄せたのは、民間機を装って対潜哨戒機を飛ばしているヤバい組織だった。関係があるのだろうか。
芽衣が疑問に思う中、彼は別の窓口へと歩を進めた。
何だかまずいシチュエーションだと思いつつも、出来るだけ短時間で欠航をフォローできる手段を考えなければならない身の上だった。断る理由はひとつもない。イレギュラーな手段ということを除けば。
しばらく待つうち、どこかの空軍基地から派遣されたのだと思われる機体が、滑走路脇へと移動して、搭乗待ちの状態となった。
「C37・ガルフストリームVだ。行先は成田ではなく横田となるがね」
「乗ってもいいんですか?」
「君の仕事内容に興味もあるしね。さっきスコフスキー博士に聞いたよ」
「うっ」
ウィルバー・ライトマンの申し出を断り、出発を一日遅らせることも考えた。
こちらでの一泊分のホテル代は航空会社が負担してくれるかも知れないし、費用的な心配はあまりなかった。しかし、出来れば山本教授に「出来ない奴」と言う評価を受けたくもなかった。それに中間発表の学生のことも気になる。
そして……。ここしばらく、ほとんど睡眠を取っていなかった。
小型ジェットで悠々と過ごせられれば、かなりありがたい話である。元の便はエコノミークラスであり、寝られるかどうかは自信がなかった。ただ、彼の興味が芽衣の仕事にあるとしたら、そんなこと第三者へ口外してもいいのか、それも疑問だった。彼の話しぶりからはライトマンもスコフスキー博士と同業者にも思える。
芽衣は彼のオファーに応じた。
ウィルバー・ライトマンは、すでに用なしとなったカウンターを後に、すたすたと歩いた。この空港のことは隅から隅まで知っていると言わんばかりの行動ぶりだった。そして、細い通路にたどり着いた。芽衣は持っていたキャリーバッグをガラガラと音を立てさせながら引っ張り彼の後を追った。
搭乗口ではなかった。
彼は扉を開けてそのまま地上へと続く階段を下りていった。
この先に何があるのだろう? 芽衣はキャリーバッグを抱えておたおたとよろめきながら階段を下りた。彼は腰に手をやり、辺りを見渡した。しばらくして、小型機がすごい速度で動き出して、そのまま彼のいる場所へと地上を移動し、そして停止した。
胴体の横がすっと開いた。階段と扉が兼用になっていた。アメリカ空軍の飛行服に身を固めた乗員が降りてきて、ウィルバー・ライトマンを迎えた。
「ご苦労。また厄介になるよ」
「はっ!」
乗員は敬礼をした。
「急ぐぞ」
と、彼は芽衣に向き直った。
――大学院生のオーヴィルの双子の兄。どうして、こんなに偉そうに出来るのだろう? 芽衣は不審にすら思った。もしかしたら……。
搭乗して、小型ジェットはすぐに離陸した。
地上には他にも離陸待ちの航空機が一杯だった。にも関わらず、着陸も離陸も最優先だった。軍用機だからだろうか。不思議に思いながらも座席に着きシートベルトをつけ、しばらく経つと深い眠りに落ちていった。
何時間、眠りこけていたのだろう。
芽衣は肩を揺すられて目を覚ました。
「もう、日本時間の朝六時だ。起きないと時差ボケを起こすぞ」
と、ライトマンが言った。芽衣はハッとして腕時計を見た。最初にアメリカ行きの飛行機に乗った時のままの日本時間を示していた。サンディエゴへ到着した際に修正するのをすっかり忘れていたのだ。あの時は、着いた途端にスコフスキー博士と名乗った彼にそのまま連れ去られたのだ。
それを考えると、ライトマンの方が少しは親切なのかなと、芽衣は眠い目を擦りながら考えた。しかし、それが思い過ごしであることに気づくのに時間はかからなかった。
「サンディエゴでは何をしていたんだ? スコフスキー博士とは何を?」
ライトマンは偉そうな態度で芽衣を尋問した。
「あの! ライトマンさんは情報関係者なのですか?」
「それは言えない」
——そうはい言いつつも、彼のこれまでの行動からはそれ以外に考えられなかった。
しかし、である。当のスコフスキー博士からは何も口止めはされていなかった。ギャラの入った封筒をもらっただけである。普通は他言無用だくらいは言うだろう。
「実は……」
「対潜哨戒機に乗せられた。何かを探すよう指示された。違うか?」
「ああ、ご存知だったのですか?」
「いや、君の言動から分析した。しかし、スコフスキー博士は知っている」
「やっぱり、情報関係者なのですね?」
「アメリカ合衆国には大小合わせて二十五の情報機関がある。一番上の国家情報局では全体を管理しているが、末端の工作員は自分の上司しか知らないのが現状だ」
と、彼は自分のことは何も言わなかった。
「でも、そうだとしたら、あたしもライトマンさんに言ってもいいのか、ダメなのかわかりませんよ」
「彼は潜水艦が専門だ」
「やっぱり!」
「ふん、正直だな」
——やっぱりカマをかけられた?
「何を探すのかは教えられていませんでした」
と、芽衣は正直に打ち明けた。──真実を話す必要はないし、嘘を話す理由もなかった。
「ふむ」
と、ライトマンは鼻から息を吐き出し、そのまま目をつぶった。何か事情があるみたいだった。そして、急に話題を変えた。
「パスポートを出しなさい」
「はい?」
芽衣はいきなりの命令にも似た言葉に、一瞬意味が取れなかった。
「この機は横田基地へ直行する。俺はいいが、民間人がこのルートを使うと出入国記録が残らない。つまり、君が日本へ密入国したことになっていしまう」
彼はそう言って、乗員に持って来させた箱の中からスタンプを取り出し、芽衣から受け取ったパスポートの一番新しいページにポン、ポンと二箇所、押した。返されたものを見ると、ちゃんとサンディエゴと成田の出入国管理のものだった。こんなものまで用意しているのか。そして、入国管理のシステムも書き換えたと言う。芽衣は少し恐ろしくも感じた。