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芽衣が大使館のマッケイ大佐に情報を伝えてから二週間が経過した九月二十八日の月曜日の午後一〇時。以前に一度来た赤坂の軽食店の前に停められた大使館の公用車の中で、芽衣は後部座席に座らされ、マッケイ大佐の言葉を聞いていた。
「あなたの情報を元に、テロ組織を捜査しました。リトル・エンペラーですが、こちらの情報部と現地警察が動き、主だった工作員二〇名を逮捕出来ました」
「主だった?」
「組織のリーダーは取り逃しています。しかし、側近の二名を逮捕したことで当面は動きが取れないと想定しています」
「やっぱり、東南アジアだったんですか?」
「場所は機密事項なので明かせませんが、この度の協力には感謝します」
「はい。それで正義の力は?」
「スプラヴェドリヴォスト。正義の力も大方、片付きました。そして、意外なことが判明したのですよ」
「主犯格の男の素性ですか?」
「ええ。イワン・ブレジンスキーという男で、実は……」
マッケイ大佐の説明では、元のソ連時代にこの計画を担当した設計局の技術者の息子だという。ソ連崩壊時の技術者だと、もう息子の代になったのかと芽衣は時の流れを感じていた。スコフスキー博士も、ミハイル・スコフスキーの息子なのだ。そんな年代だったのかもと思った。
「ロシアの連邦捜査局に協力する形での検挙でした。なので身柄はこちらにはありません。しかし、大方の力を削ぐことには成功しています。ただ、今後、ロシア側でこの計画を推進される恐れは残りますが。しかし、スプラヴェドリヴォスト計画で開発されるはずだった潜水艦に対抗する手段を、すでにこちらが手にしているので、それほどの問題だとは上層部は考えていないようです」
「そんなものなのですね」
「しかし、妙なのはイワン・ブレジンスキーの経歴でした」
「はい?」
マッケイ大佐は外部の音とは遮断された車の中で静かに話を続けた。
運転手は前に芽衣も会ったことのある、彼の秘書官のロナルド・アオキだ。この車内からの情報漏洩はないものと考えてのことだろう。
「設計局のメンバーは五十五名ということでした。そのうち、ソ連崩壊後に情報や技術資料を手土産にして外国へ亡命した者が三十五名います」
「そんなに?」
「ええ。ただ、亡命者のうち、アメリカへ来たのは二〇名で、スコフスキー博士の父親だったヨシフ・スコフスキーもその中の一人です。残りの二〇名はソ連崩壊後も国内に残ったと見られます。うち、責任者クラスの二名については当時の秘密警察に身柄を拘束された記録がありました。そこで監視下に置かれたまま一生を終えています。残った十八名はそのままロシア共和国で暮らしていました」
「するとその技術者の息子さんと言うんですか? 父親からアメリカを恨むような内容を吹き込まれていたのですか? だとしたら……」
「いいえ。設計局の情報統制はものすごく厳しいものです。たとい、家族と言えど、職務内容を漏らすことはあり得ない。そう、ロシア側の捜査当局へ確認しています。実は、ソ連崩壊後の経済の混乱期に十八名のうちの三名が、死因不明で亡くなっているそうでした。これについては、確認が取れていません。暗殺、病死、自死など考えられます。実際、当時の生活はかなり苦しかったようです」
「ああ!」
「わかりましたか?」
「そのイワン・ブレジンスキーさんが、父親がアメリカのせいで情報当局に暗殺されたと信じ込んだ?」
「その線が濃厚と思われるのです。取り調べでは、皆そんな妄想を語っていたそうです」
「でも、その人が逮捕なり拘束なりされた時点で、今回の事件は解決なのですよね?」
芽衣はマッケイ大佐の憂いを帯びた目をじっと見つめた。
「対応は手遅れでした。アルテミスへの最後の指令は、イワン・ブレジンスキーからリトル・エンペラーへと伝えられていました。もう、一日早かったら? そんなことになっています。あなたのいう通りに通信衛星の身代わりを用意していたので、通信がなされたことは、かろうじて把握できたのですがね」
「スコフスキー博士はどうなったのですか? 彼ならアルテミスを止められるのでは?」
「昨日、FBIがスパイ容疑で彼を逮捕しています。尋問が行われていると思うのですが、アルテミス計画の全体像を知る人物が誰もいないことが判明しただけでした。今回の彼の逮捕で、国防総省やCIAを始めとする情報機関が改めて衝撃を受けている所なのです」
「実体のないソ連の脅威に対抗するために、実体のない計画が実行され、実体のよくわからない成果物だけが残ったと?」
「ええ。しかし、ここで新たな問題が残りました」
「何でしょう?」
そこまでわかっているのなら、誰かがアルテミスを止めればいい。芽衣はそう思った。
「実は……」
マッケイ大佐の表情が強張ったのを感じた。
「誰にも止められないなんてことはないですよね?」
「そのことなのですよ。アルテミス自体が本当に存在するのか? 国防総省やCIA幹部はそれを疑い始めました」
「ええーっ!」
「確かに駆逐艦のJ.J.トムソンがミサイル攻撃を受けて大破・炎上せさせれています。しかし、それがアルテミスの攻撃によるものなのか? それを疑問視されているのです。艦長を始めとする乗組員たちの証言はあるものの、それを裏付ける物証がないのです。それに、そもそもの議論だった『アルテミス計画』が本当にあったのかも疑問視する声が多数でした。誰にも知られずにそんな計画を推進するのは不可能だとさえ言い出す始末です。そして、わたしもそう思わざるを得なくなってきています」
「思っちゃっていいのですか?」
芽衣の一言に車内の空気が凍りついた。
「常に最悪の事態に備えよ。それがこちらのモットーでした。しかし、それを上層部が否定する以上、何も出来なくなりつつあります」
「あの? どうしてあたしが今ここにいるんですかね?」
「実は、明日のG7サミットの予定はすでに崩せなくなっています。もし、アルテミスが本当に存在するのであれば? その場合に備えて原子力空母ベンジャミン・フランクリンの航路を変更したり、時間を変更したりすることが検討されていたのです。しかし、今回の一連のテロ組織の摘発で、そもそも論が湧き出てきて、そのままそれが通ってしまった。そんな事態となっているのです」
「あの? マッケイさんはどう思っているんですか?」
「実のところ、現場の人間としては最悪の事態に備えたい。その一心なのです」
「では、対応を?」
「ここからは、完全にわたしの判断で動くことになります」
——秘密機関が秘密裏に活動する。
そのまんまだった。
「大体の位置は?」
「浦賀水道の水深は七十五フィートから八十五フィートです。大型の潜水艦は潜航したまま通過は出来ません。また、使用される見込みのハルバードミサイルの射程は五〇マイル。ギリギリで使用するはずがないので、房総半島沖二十五から三〇マイルくらいだと想定していました。そして、四〇マイルの位置に今度こそ本気で、潜水艦狩りが専門の駆逐艦・J.フレミングを待機させていたのです。しかし……」
「まさか、やられてしまったなんてことはないですよね?」
「実は……」
マッケイ大佐は言葉をにごした。
「ええーっ!」
「三時間前を最後に通信不能となっています。現在は哨戒機を発進させていて、現場付近を捜索中なのです。これも、公式には不慮の事故扱いですが」
「アルテミスを止めるにはどうしたらいいんですか?」
「出来れば、航行不能にして浮上させるのを最優先に考えています。乗組員がざっと八〇名いると想定されています。いずれもアメリカ合衆国の兵士です」
「簡単ではないと思いますが?」
「スチールのワイヤで出来た網を引っ掛けることで航行不能になるのではと、スコフスキー博士は言っていたそうなのです。方向舵や昇降舵に引っ掛けることで航行不能にする。そして、それは海軍で用意しています。しかしです」
「アルテミスの位置がわからない?」
「ええ。実はアルテミスを『本当に見た』人間は、芽衣さん、あなた一人なのです」
芽衣は背筋がゾッとした。
確かに、先日、スコフスキー博士に騙されて乗り込んだ対潜哨戒機でアルテミスを発見したっぽいのは事実だった。そして、実際にそれを探し出してスチールのワイヤで出来た網で捕えるのだという。もし、失敗したら? G7のセレモニーが行われている最中の原子力空母がミサイル攻撃を受けてしまう可能性が高いと言おうか、まさに実際に起ころうとしていた。そして、アルテミスの乗組員が八〇名もいると言うのだ。
「力を貸してもらえないですか?」
マッケイ大佐の表情は真剣だった。
ただの女子大学院生にそんなことを頼むのは、もうよっぽど切羽詰まっているのだろう。そして、芽衣も今回の事態に山本教授の指示も受けていなければ、後藤室長からのリクエストも受けていなかった。
「スチール製のネットを積んだヘリコプターを二機用意しています。あなたにお願いしたいのは対潜哨戒機に乗り込んで、アルテミスを探し出すことです。大体の位置はわかります。しかし、ネットをかけるためには三〇フィート以内の誤差で居場所を特定する必要があります」
「失敗したらどうなるんです?」
「最悪の場合、浦賀水道で原子力空母が大破・炎上することになりかねません」
と、マッケイ大佐はこれまでの情報を総括した。