(2)
二日後の九月十五日、火曜日。
朝から芽衣は山本教授に呼びつけられた。
「君ぃ。困るよこれは!」
と、えらくご立腹の様子だった。もしかしたら、セクハラ・パワハラ委員会からの問い合わせがあったのかも知れなかった。しかし、芽衣は状況を手短に説明した。自分へのセクハラ委員会への訴えが事実無根であることを。
山本教授はうかない顔つきで宙を見つめた。
「全部、仕組まれたものなのです。先生」
「スプラヴェドリヴォスト計画かい? 『正義の力』だって? 本当なら内閣安全保障室へも一報入れておかなくてはならないんじゃないかな」
そう言って、ブスリとした表情になった。
「でも、今動くと、相手にこちらの動きがバレバレになってしまいます。こちらがある程度の情報を掴んでいて、それに対処しようと言う段階であることも」
「内緒にするのかね?」
「ずっとではありません。アルテミスが捕まるまでの一時的なものなのです」
「君はまだ知らないだろうが。この件は後に響くぞ。このご時世だ。失敗すると、君の研究者としての経歴に傷がつくことになるし、下手をすると、研究機関への就職にも影響が出ることもあるんだよ。今でこそセクハラだのパワハラ、アカハラとおしゃれな名前が付されているが、やはり『性犯罪者』ということからは逃れられん」
「はい」
芽衣も俯いた。
「渋谷くんのこともあるだろう? 訴えられてから行動しても、すでに遅しとなることくらいはわかっているだろう。まあ、その点では相手の荒木だっけ、彼女も同じだと思う。なので、裁判で無罪を勝ち取るか、双方が訴えを取り下げるかしないと、あとあと大変なことになる」
「それはわかります」
「いや、わかってはいない。渋谷くんのことを考えてみたまえ。来春には名古屋工科大学への就職の内定を得ている。学位が取れたとしても、性犯罪者のレッテルが貼られれば採用を取り消される可能性が極めて高いことを忘れてはいかん。研究職であるとともに教育者でもあるのだ。これは致命的なことなんだよ。わかるか?」
「あ、はい」
「この荒木という学生も同じだろう?」
「えっと、彼女の就職先はどこなんですか?」
「ああ。決まっていないな。どうする気だろう?」
「ああ」
芽衣は何となく事情を察した。
いかに寛容な社会とはいえ就職状況はそんなにいいとは言えなかった。やはり、現役生でないとエントリーすら難しい所が多数派だ。問題ないのは、せいぜい一浪までだ。留年やその他は何か余程の理由がないと認められることは、やはり稀だった。
山本教授は椅子をくるりと回して、机の右手にあるキャビネットへ向かった。そして、ファイルを取り出した。ページを繰って、そこで手が止まってしまった。
「おいおい。荒木という学生、三十四歳だって? 知っていたのか?」
「いや、あたしも今回の件で初めて知った次第です。学生の間の噂でも、浪人や留年でかなり年上だと聞いたことがあったのですが、そこまで年配とは知りませんでした」
「これは……」
流石の山本教授も言葉に詰まった。
いかに顔が広くても、この条件でどこかの企業へ押し込むのはかなり難しいと思われた。どこかの大学の助教や、研究機関の研究員など、年齢相応の場所はある。しかし、それは博士号があればこその就職先だ。学士の肩書だけではどうしようもあるまいと思う。
たとい、今回の一連のドタバタ裁判をかわして無罪となった場合でも、年齢上の制約からの困難が待ち受けていた。
——しかし、そんなことは彼女も入学時から知っていてもよさそうな話ではある。
途中で留年したのは想定外かも知れないが、そうだとしても、現役プラス一、二年くらいであれば何とかなっていたのだ。そんなことは最初からわかっていたはずだった。
そう考えると、別の目的での入学だった? そんな可能性すら疑われる。
現に、オーヴィルもウィルバーとしての顔と合わせて、スパイ組織の日本での活動のためにあえて大学院生を装っていたと思われた。
「君ぃ」
山本教授がメガネの位置を指で直しながら口を開いた。
「はっ!」
「荒木という学生の実家は何をしているんだ?」
「それは先生がお持ちのファイルにあるのではないですか?」
「いや、母子家庭のようだが、母親の職業は記載されていない」
「ええ? ではお祖母様は?」
「そんなものは最初から記載の欄すらない」
——なぜだ? 芽衣は自問した。
荒木ののかの祖母の配偶者がソ連の科学者だというのは確かだった。芽衣が知っているだけでも、あれだけの物的証拠があったのだ。そして、その兄に当たる人が同じく科学者をしていて、米国へ移住している。
仕事をしていなくても、潤沢な資金を得ていた?
確かに、旧ソ連の科学者で、そこで得た技術や情報を外国の機関に売り込めば、そこそこの収入にはなりそうに思う。現に荒木の祖父の兄に当たるヨシフ・スコフスキーはアメリカへ渡り、そこで仕事にありついていた。情報を小出しにして、研究所の顧問みたいなことをしていれば、長い期間に渡り、悠々自適の生活を送れそうだ。
荒木の祖父であるミハイル・スコフスキーは横須賀で情報収集をしていた時に、ちょうどソ連崩壊という一大事件に遭遇したのだ。しかし、その後は荒木の祖母と結婚したくらいのことしか、前回の訪問では聞かなかった。もしかしたら、家族全員を養えるほどの収入があったのかも知れない。もし、荒木家がお金持ちであれば? 経歴に花を添えるという目的のためだけに東都大学理学部を卒業するということもあり得た。
芽衣は研究室へ戻った。学生がいっぱいいる中、変なことは出来ない。
夕方になり、学生が一人、二人と研究室を後にした。
しかし、この時期である。すでに論文に着手したのもいるし、まだ、資料集めにのほほんと取り組んでいるものもいる。そして、急ぎの仕事のない学生、修士一年と博士課程の一、二年生だ。しかし、それは人にもよりけりだった。学位論文以外にも、書かなければならないものは数限りなく存在する。学会誌への投稿分だった。
かえってこちらの方が忙しいかも知れない。
芽衣は辺りをはばかりながら、こっそりと作業を開始した。
荒木の実家が何をしているのか。探りを入れるために、また、大学のデータサーバーへと接続した。
——授業料や実習費などの滞納は一切なかった。
そして、ノゾムと会った時のことを思い起こした。
派手ではないが、品のいい持ち物だった。趣味がいいと言うのであろうか。芽衣には縁のない世界かも知れない。でも、インターネット・ショッピングのサイトで検索をかけてみた。そのものではなくても、似たような商品があるはずだった。それで、どのくらいのものを使用しているのか、そこからある程度はわかる……と、思った。
しかし、それそのものはヒットしなかった。
それほどの安物ではないはずだ。
しっかりとした生地や素材。
「待てよ?」
芽衣は独り言を漏らした。慌てて、周りを見るが、斜め後方でパソコンで文書作成をしている学生がいるだけだった。こっちの独り言には目もくれない。
高価なもので、検索にもヒットしない。そのブランドの限定商品などの存在だ。
有名人のブログなどを探してみた。やはり、高価そうな品物には間違いなさそうだった。
「荒木ののかの祖母は何をしていたんだろう?」
芽衣はそこに引っ掛かるものが会った。
荒木が単なる四年生だったら、そこまで勘繰ることはなかっただろう。しかし、切って捨てるにはあまりにも、彼女の経歴がぶっ飛んだものだったのだ。祖母が大金持ちで、自身は何をしていたのかわからないものの、三十四歳の女子大生。いや、すでに女子ではないかも知れない。そうも思った。
芽衣は研究室を出て階段の踊り場へ出た。
何となく嫌な気がして、ゴルベンバエルに電話をした。
「あのさ?」
と、芽衣は恐る恐る声をかけた。
「ああ、わたしも電話しようと思っていたのよ。G7サミットのことよね?」
と、ゴルベンバエルは率直な口調だった。
「ああ、それもあるんだけど、そっちにこの間のソ連の科学者の情報ってあるのかな?」
「それは……あると思うけど。一応、キジキスもソ連の一部だったから。歴史の教科書からは削除されているけどね」
「この間のミハイル・スコフスキーってお金持ちなの?」
「ええ? あはは、面白いこと言うのね。お金持ちだったら外国へ経済亡命なんかしないと思うよ」
と、彼女は「経済亡命」と言う言葉を使った。その通りだ。
「でもさ。ルーブルはなくても、他の換金物ってないの? 土地とか宝石とか?」
「ああ。その線があるわね。でも、あの当時のことだからなあ」
「昔じゃなくて、二十一世紀になってからのことは?」
「ああ。ちょっと待ってね」
電話口の向こうで、カタカタとパソコンのキーボードを打ち込む音がした。そして、ピッという電子音と。そして、彼女の息遣いがした。
「ええとね」
と、ゴルベンバエルは声のトーンを低くした。
「うん」
「ソ連崩壊後に国営だった会社が、次々に民間に払い下げられた時代があったのよ」
「聞いたことある」
「その時にね、不当な安値だったとか色々問題にはなっていて、それが現政権への批判勢力のスローガンにもなっている。でも、当時としては何が何でも現金が必要だったという歴史的な面は否定できないわ。やっぱり、どんなに不利な条件でも現金化はしたいよね」
「うん」
「その時なんだけど。例のミハイルとヨシフ兄弟の母方のおじで、フィヨードル・ペシコフと言う人がいたの。国営の鉱山会社を買収して、その後に大手に育て上げているわ。でも、やっぱり、当時は会社を丸ごと買うほどの資金力はなくて、友人との共同出資みたいな感じかな。で、その人には子供がいなかったみたいで、亡くなった時に会社の八パーセントの株式を残していて、それが、ヨシフとミハイルの所へ回ったみたい」
「海外にいてもいいの?」
「それは問題よね。でも、代理人を置くことでクリアしているんじゃないかな。詳しくは経済マターなんでわからないんだけど。でも、仮に四パーセントずつ分けても、配当金だけでもすごい金額じゃないかな」
「それって何の鉱山なの?」
「ええと。いわゆるレアメタル系っていうの? パラジウムとネオジウムとその他いろいろ」
「ええーっ!」
「どうしてそんなに驚くのよ。それくらいはないとお金持ちにはなれないわ」
「そうなんだ。じゃあ、ミハイルの子供や孫にも?」
「遺産だからね。それはそうだと思うよ。でも、どこにいるのかな?」
ゴルベンバエルの言った通り、仮に日本にいても、ロシア国内に代理人弁護士を雇えばクリアできそうに思えた。芽衣はざっと株式の配当金を確かめた。四パーセントとはいえ、年間に五億円くらいはありそうだった。
そして、……現在は荒木の母親がそれを持っていた。
ロシア国内の鉱山利権である。今回、G7サミットの副題であったキジキスの大統領を消すことで、どちらかというと利益を守る側だった。マラライアのレアメタルやレアアースが市場に出ない方がいいのだ。東京でマッケイ大佐の手伝いをしている芽衣や山本教授、そして後藤室長らの妨害をするのは理に叶っていた。事実、この件では多くの労力を割く羽目になっていた。——しかし、あまりに手が込んでいる。もしかしたら、荒木も知らずに巻き込まれているだけかも知れなかった。
「それでさ」
と、ゴルベンバエルは自分の用件に話を振った。
「G7のこと?」
「うん。会議とセレモニーでのスーツとネクタイの色を、今、検討中なのよ。他の首脳とかぶっちゃいけないし、かと言ってあんまり派手なのも、品性を疑われてしまうし」
「ああ」
そんなつまらないことに神経を使っているのかと思わず口に出そうになった。が、その言葉を飲み込んだ。「でも、他の人って言っても七人もいるんでしょう? かぶらないのもある意味おかしいわよ」
「ああ、それもそうか。でも、キジキスの民族衣装も検討されているし、ネクタイにしても伝統工芸のガロラン織って言うのもあるのよ。大使館としては、その販路拡大も任務なのよ。出来れば、かっこよくしたいわ」
「ふうん。そうなんだ?」
「それでさ」
と、ゴルベンバエルは続けた。
「まだあるの?」
「セレモニーの後の食事会のことも」
「え? ゴルちゃんも参加するの?」
「もちろん。大統領の来日中は大使館が全面的にバックアップすることになっているの。それでさ。デザートをキジキスが担当するんだけど、この間のヤギのミルクをアイスにしようと思っているのよ。どうかしら?」
「ええと」
芽衣はゴルベンバエルのことが心配になった。下手をすると大統領だけでなく、彼女も空母と一緒に木っ端微塵になる可能性があった。とはいえ、乗るのをやめろとは、今の段階では言えなかった。ヤギのミルクは先日の大使館での紅茶に入れた分のことだろう。あれはあれで悪くないと思った。
「じゃあ。G7の大役が終わったら、絶対に一度会おうね!」
と、明るい声でそう言い、電話を切った。