(3)
気がつくとパソコンに向かい始めて数時間が経過していた。
研究室の壁の時計を見ると、午後十時をさしていた。
「ううん」
と、声を出して椅子の背もたれに体重を掛けて背伸びする。今日、一〇回目の背伸びだった。ちょっと働きすぎかもと思った。しかし、実際には一円にもならない仕事だ。でも、それが正解かもしれない。時給を考え始めたら、情報活動など割に合わないことこの上ないことでもある。
ふと、「正義の力」の組織を監視していると、新たなファイルが用意されているのに気づいた。
「セクハラ委員会?」
昼間に見た、渋谷と荒木の「泥試合」の続報みたいなものなのだろうかと、芽衣はマウスを動かしてファイルの中身を確かめた。
「ええ? 加村くん?」
加村雄一を被害者とする「不同意性交」に関する訴えだった。加害者の記入欄には黒澤芽衣とあった。
「何考えているのよ、こいつら!」
少し頭に来た。
これを削除してしまおうか? あるいはこのデータサーバーごとクラッシュさせてしまおうか? もっと……。色んなことが頭に浮かんだ。しかし、この後に何らかの、いや、アメリカの実験潜水艦であるアルテミスの暴走が比較的に可能性の高い事案としてあったのだ。大事の前の小事である。無視しておこうかと迷った。でも、放置するとどうなるだろうか。実際に渋谷と荒木は「機能不全」の状態に陥っていた。多分、裁判が終わるまで何も出来ないに違いない。
しかし、せっかくのゴルベバエルの知らせだった。
芽衣はスマートホンをフリックした。こんな相談が出来そうなのは大使館のマッケイ大佐くらいだった。もしかしたらオーヴィルでもよかったかも知れない。
「マッケイさんですか?」
芽衣は恐る恐る繋いだ。しかし、こんな夜間にも関わらずすぐに出てくれた。
「実は、G7サミットの準備で立て込んでいましてね。本国との連絡が多くて、今のところスタッフは二十四時間対応なのですよ。主に時差のせいなのですが」
「そうなんですね」
そして、芽衣は手短に自分の所にある情報を伝えた。
マッケイ大佐は少し意外そうな声を上げた。
「旧ソ連の技術?」
「はい。アルテミス計画の発端となった『正義の力』計画です。でも、それもアメリカの『スターウォーズ』計画に対するものでした。まだ、そんな冷戦時代の名残があるんですか?」
「ああ。違う意味でしてね」
「違う意味?」
「もう、スターウォーズ自体が普通なのですよ。現代の宇宙空間は常在戦場です。偵察衛星やGPS衛星、敵の衛星を破壊するキラー衛星に、さらに敵のキラー衛星を破壊するためのハンターキラー衛星、さらに……」
マッケイ大佐の説明を聞くにつれ、芽衣は自分の認識の甘さを痛感した。
もう、何でもありなことになっているみたいだった。
「正義の力。確かにあの当時は脅威となっていました。しかし、ソ連崩壊で中断されたと認識しています」
「それが……」
「あなたの情報では違うと言うことでしたね。その計画だけが残っていて、その組織が動いていると?」
「この間、アメリカ駆逐艦のJ.J.トムソンの攻撃の裏側を探ったではないですか」
「ええ」
「あの時の相手のIPアドレスと続き番号だったんです。同一組織だと思われます」
「それが、今回のアルテミス乗っ取りの犯人だと?」
「多分」
芽衣の情報はかなり曖昧なものだった。しかし、マッケイ大佐はかなり真剣な口調だった。信じてもらえる。言ってよかったと思った。
「芽衣さん。その組織はどこにあるかわかりますか?」
「場所までは特定できていませんが、多分、極東地域にあり、東南アジアの関係のないサーバーを経由させていると思います。しかし、通信衛星を乗っ取るか偽の信号を流せることから考えると、そんなに遠くではないと思います」
「目的は何だと思いますか?」
マッケイ大佐は本題に入った。
「現時点では二つ考えられると思うんです」
「聞かせてください」
「正義の力計画を頓挫させられたことへの報復がひとつ。そして、G7への出席者への攻撃そのものかも知れないと思うんです」
「その根拠は?」
「実は……正義の力計画に携わった科学者が何人も行方不明になっています。ソ連崩壊の混乱時です。今回、その科学者を追っている可能性があるんです。それが一つと、もう一つはG7の出席者なんですが……オブザーバー参加でキジキスの大統領が入っています」
「ああ、あの件ですか」
マッケイ大佐は電話口の向こうでため息をついた。
元々、あまり、キジキスの参加に前向きではなかったみたいな言い方だった。
「あまり細かいことは電話では話せないんですがね。中央アジアの混乱を今回のG7で話し合う予定になっているんですよ。そのキーマンとなるのが、ゴリアス・ガロイラス・ガガリエル大統領なのです」
マッケイ大佐の説明は簡単だった。
中央アジアにある旧ソ連圏の国家であるキジキス共和国。
その隣国のマラライア共和国連邦では現政権による人権弾圧が行われていた。主に三〇年の長期に渡る現政権に対する反対運動が起こっていて、その運動を武力で弾圧していた。これに対して、西側諸国は一致して経済制裁を課し、マラライア共和国連邦からの入国も認めない措置を取っている。
その一方で、マラライア共和国連邦には豊富な地下資源があった。
主にレアメタルとレアアースだった。
これの輸出を禁止してしまったがために、中国とロシアからの出荷分に多くを依存する事態となっている。最近の自動車や半導体の出荷が遅くなっている要因でもあった。本音のところでは、人口五百万人の小さな国家であり、とっとと問題を終結させてしまいたいというのが各国の経済担当閣僚の意見だという。
「キジキスのガガリエル大統領が、西側諸国の首脳とマラライア共和国連邦の大統領とをつなげられる唯一の人物なのです。それゆえ、今回のG7サミットで西側陣営に引き込み、マラライア共和国連邦との中を取り持ってもらおうという思惑があるのですよ」
「ええ? 人権弾圧は放置してもいいのですか?」
「いいえ。その代わり、G7ではキジキスを介してマラライア共和国連邦での早期の民主主義的選挙を実行させる約束をさせる。それを条件として、経済制裁の一部解除を実施する。そんな予定があったのです。しかし、大規模テロ事件でキジキスの大統領を暗殺されてしまうと、その話が根本から崩れる可能性があるのです。元々、独裁者と独裁者との話し合いです。彼に倒れられると、この落とし所がなくなるのです。そんな事情があります。今回のG7サミットではです」
「経済制裁が解除できない?」
「その恐れがあります」
「そうすると、レアメタルやレアアースが増産されて困るのが中国とロシアだと?」
「そこまでは言えませんが、その可能性は十分にあると思いますね」
「正義の力作戦での報復の線は薄いのでしょうか?」
「いや、どちらもあり得るでしょう。経済的メリットだけであれば、試作品とはいえアメリカ合衆国の潜水艦を乗っ取り、さらに原子力空母を狙おうというのは、あまりに大胆すぎます」
「そうですよね」
「G7までに、そのサイバー攻撃を食い止められますか?」
マッケイ大佐の口調では、運よく行けばそれで構わない感じだった。
「自信はないですが」
「期待していますよ。ふふ」
「あの、もう一件確かめたいことがあるんです」
「何です? アルテミスの性能ですか?」
「ええ。一体何者なんですか?」
「どう思いますか?」
「ええと。極めて静粛性に優れ、遠方のイージスシステム搭載の駆逐艦を一撃で仕留める能力を有する?」
「今回、SISのウィルバー・ライトマンからアルテミスに関する情報がありました。どうやら、CIAとDARPAが別々に動いていて、それが、全体統括がなされていない原因だということでした。あなたが言う正義の力計画で就役予定のロシアのブラボー級潜水艦への対抗策として開発されたようです。海軍へ納入されていれば、こちらでも把握していたのと思うのですが、今回は国防総省にも何の知らせもなかったようです」
「そんなことがあるのですか?」
「秘密兵器にはたまにあるのですよ」
「はあ」
「そうだ。これからこちらへ来られますか?」
「ええと」
「この時間です。無理にとは言いません」
「いや、大丈夫です」
「そう言うと思いました。セキュリティのためにこちらから迎えを出しましょう。秘書官のロナルド・アオキという者を行かせます。大使館ナンバーのアメリカ車が目印です。いいですね?」
「ラジャーです!」
三十分後、芽衣はアメリカ大使館の会議室にいた。
普段のマッケイ大佐の執務室ではなく、地下にある殺風景な部屋だった。壁にはたくさんの液晶画面が取り付けられていて、世界各地のニュースや天気予報を流し続け、机の上に並べられたパソコンにも大量のデータが流れていた。
「G7サミット。何が起こると思いますか?」
大勢のスタッフがキリキリマイで働いている中、パーティションで区切られた一角、その中でマッケイ大佐は深刻そうな顔で芽衣に尋ねた。
「アルミテミスはまだ取り戻せていないのですよね?」
「ええ」
「最初にスコフスキー博士やマッケイさんの心配されていた通りだと思いますよ。最悪の事態は常に頭の隅に……」
「それはわかっています」
「でも、わかっていても、対処できないのですか?」
「かなり困難な状況です。元々、ソ連の正義の力計画に対抗するための潜水艦でした。極めて静粛性が高く、強力な武器を搭載している。正確な位置が未だ不明なのです。G7サミットでの原子力空母への攻撃が確かなものならばという前提で、そのルートを警戒しているのですが、情報は今の所ありません」
「ずっと気になっていたんですが?」
「なんです?」
「J.J.トムソンのことなんです。最新のイージスシステムが搭載されていたと聞いています。どうして簡単にやられてしまったのかと」
「ああ」
マッケイ大佐は立ち上がり、会議机の上に並べられているパソコンのうちの一台の前へと移動した。そして、芽衣に手招きをした。
「これがウィルバー・ライトマンから提供されたデータです。アルテミスの設計仕様書です。見てください」
潜水艦の細かな仕様については芽衣にもよくわからない。
しかし、最初に芽衣が言った通りに、本体の周りに電磁石を使用した磁気の中和装置と、位相操作による消音装置が取り付けらていた。音や磁気センサーで探知できないのは本当だった。サイズは少し大きめの四五〇〇トン。
「通常動力型です。しかし、大型のタンクをもち、過酸化水素とメタノールを燃料としています。空気を必要とせず、四週間程度であれば浮上せずに航行が可能です。エンジンを停止してしまえば、完全にセンサーからは見えない存在となります」
「武器は?」
「通常型魚雷と、もう一つは、開発中だったと思われるMk.72ハルバード・ミサイルを搭載していると見られます。これは、樹脂のカプセルに入っていて、魚雷発射管から打ち出すものです。発射からすぐは魚雷として進み、途中で浮上してミサイルとして目標へと飛んでいく。射程距離は魚雷として一マイル、ミサイルとしては五〇マイルとかなり長いのです」
「では、J.J.トムソンは魚雷だと思い込んでいたと?」
「通常では魚雷発射管の作動音を探知して、相手の位置を特定し、その後、対魚雷戦闘となります。しかし、魚雷の射程の遥か外の場合、自分への攻撃とはみなさないでしょう。その盲点の上に、あなたのいう魚雷との思い込みがあったのだろうと推測していました。そして、救助された乗組員からの証言もそれを裏付けるものでした」
と、マッケイ大佐は深刻そうな面持ちで俯いた。