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深海の白鯨  作者: 黒川文
5.赤坂
14/21

(2)


 芽衣は山本教授の立派な木製の執務デスクの前に立った。

 壁の時計は午後四時半を示している。ショートメッセージが届いた時間からはかなりズレていた。しかし、日曜日でもあるし、メッセージを見逃したのではなく、どこかに出かけているのを、わざわざ呼び出したのだと思われているみたいだった。


「君ぃ」

「はっ!」

「渋谷くんの件を知っていたのかね?」

「渋谷さんと言いますと?」

「大学のセクハラ委員会から呼び出し状を受けたらしいじゃないか。わたしの所にも問い合わせの電話とメールがあった。何か深刻な事態かもと思う。現在、渋谷くんとは連絡が取れていない。君が何か知っているのではないかと思ってな」

「ああ。当研究室の卒研生である荒木ののかさんに対して、セクハラ行為があったと訴えられたそうなのです。本人は、その事実は否定しておいでで、委員会の聞き取りに対しても否定しているみたいです」

「何? セクハラ行為? なぜ早く言わなかったんだ!」

「いや。渋谷さんは委員会で事実無根であることを主張すると言っておいででした」

「馬鹿野郎! そんなことが出来ると思っているのか? 元々セクハラや痴漢は証拠の要らない犯罪だ。証拠もなしに訴えているのに、言い訳など通るはずもなかろう。その後はどうなっているんだ?」

「ええと」

「肝心の渋谷とは連絡が取れない。荒木というのは誰だ?」

「荒木ののかは先日の中間発表で、先生からお叱りを受けた学生です。泣き出した挙句に山本先生からものすごい量の課題を出されたアレです」

「何だと! わたしが悪いというのか?」

「滅相もありません。あれは彼女に問題があると思います」

「ふうむ」

 山本教授が手のひらを机の上に置き、そして、突っ伏した。呻き声をあげながら。


「あの?」

「何だ」

「あのような場合はどうすればよかったのでしょうか? 渋谷さん的には」

「どうもこうもあるものか。もう訴えを取り下げさせるしかないじゃないか。もっといいのは訴えを出す前に握り潰すことだった。今となっては時期遅れでしかないが」

「ええと。例えば、卒業論文の決裁を条件に、訴えを取り下げさせるとかはダメですか?」

「馬鹿野郎! それこそ、そのまんまパワハラじゃないか!」

「ああ」

 芽衣も答えに窮した。

「それに、訴えの詳細に関してはこちらには知らされていない。そんな圧力を封じるためだそうだ。判決が出た時に認定された行為のみ、本人と関係者に連絡があるそうだ。君、女性同士じゃないか。少しでいいから、何か聞き出せないか? 内容によっては、交渉の余地があるかも知れん」

「そんなに厳しいものなのですね」

「学生を守るための最後の砦でもある。指導者と指導される学生の関係は、昔は絶対的なものだった。そんな時代の名残なんだ。君も心して当たってくれ」

「はっ!」


 芽衣はため息をついて、廊下をトボトボと歩いた。せっかくの休日。それが、こんな下らないことのために費やされようとしてたのだ。それに、先日来、取り組んでいた「アルテミス計画」のことも頭の中にずっとある。どっちが優先なのだろう? 何度も、自問自答した。

 もし、渋谷宗佑が「有罪」になったら? それはそれで大変だった。教室の主任である山本教授にも火の粉がかかる。荒木ののかは何らかの理由をつけて追い出されるに違いない。勝っても負けても、敗北の道しか残されていなかった。


「あ!」

 と、芽衣は気がついた。

 荒木は何故、渋谷を訴えたのだろうかと、その事情に想いを馳せた。

 どう考えても、実利の点では全くメリットがない戦いなのだ。本当に性的な嫌がらせあって、退学してでも報復したいほどの屈辱を受けたか、それに近い心情があるか、その場合にしか訴えの利益は存在しない。渋谷は「全く心当たりはない」と言っていた。それはそうだろう。よっぽど魅力的な女性で、捕まってもいいから「エッチなことをしたい」と考えた場合を除き、彼にとってもいいことは少しもなかったのだ。それに、荒木はかなりの年齢だった。若い女子はいくらでもいた。

 そして、である。渋谷は来年の三月末付での「博士号授与」という大きなイベントがあった。長い学生生活。学部の四年間、そして大学院での五年間の集大成だったのだ。こんな下らないことで退学になると、それが無に帰してしまう。

 荒木ののかにそれだけの魅力があるとは、同性であっても思えなかった。


 芽衣は研究室に戻った。

 ——少し念入りに調べよう。何か深い事情がありそうだった。

 渋谷宗佑の席につき、彼のパソコンを立ち上げた。オーヴィルのものと同じく、やはり、かなりの高スペックのマシンだった。瞬間的に起動して、IDの入力画面に切り替わった。素早く打ち込みパスワードを入力する。


 見つかる限りのファイルに目を通した。

 確かに大学のセクハラ部署からの通知が、違う名前のフォルダに隠すように保存されていた。そして、荒木へのメールの数々。しかし、普通だった。研究内容に関わる指示と、その回答と。疑わしいものはなかった。消去されたのだろうかと思い、他のファイルにも目を通した。

 完璧にセクハラに関する痕跡がなかった。


「待てよ?」

 芽衣は突如、頭に浮かんだことがあった。

 そして、大学のサーバーへと接続を切り替えた。こちらは、違法行為ギリギリのハッキングだ。セクハラ・パワハラ委員会は、大学内では独立した組織をとっているが、実際には教務課の中の組織だった。メンバーは専任ではなく、ここの職員と兼任している。管理IDはそこのものと同じだった。芽衣は通し番号になっている番号で使われていないものを使用して接続した。

「あ!」

 と、気づいた。

 セクハラの訴えは渋谷宗佑に当てらたものと、荒木ののかに当てられたものの二つがあったのだ。渋谷は荒木に訴えられ、荒木は渋谷に訴えられたいた。書類上の話ではあるのだが。多分、この二件の訴えは、別の職員が別の事件として調査をしていると思われた。芽衣は荒木に対する被害届を呼び出した。主要な文面はこうあった。


「被害者(渋谷宗佑)は、端末室で二人きりになった。加害者(荒木ののか)は被害者に体を寄せつけた。『冗談はよしてくれ』と被害者は言ったが、加害者は『ねえ、あたしとしたいんでしょう?』とどすの利いた声で言った。そして、さらに被害者の体に腕を回し、唇で体をなぞらせた。そして、被害者のズボンのファスナーを下ろして、その間から指を入れ、男性器を触った。『よせ、やめるんだ!』と被害者は警告するも、加害者は意に介さず男性器を触り続けた。『女に恥をかかせるの?』と加害者はさらに威圧的な言動をした。そして、触り続けた。被害者は耐えられずに声をあげ、再度やめるよう警告を発し続けた。被害者に性交の意図がないことを告げると、加害者は逆上し、『この〇〇野郎!』と発言し、部屋を出ていった。(注記:○部分は不適切な言葉であるため伏字とする。具体的には男性器を侮辱する言葉)右記の通りの性的被害を受けたものである」


「えぇーっ!」

 芽衣は一人で声をあげた。

 まるで昼間に男子学生が見ているエロ動画のようだった。

「おいおい」

 芽衣は独り言を漏らした。

 先日、荒木ノゾムについて行き、荒木の自宅に行ったとき、荒木ののかは「裁判のことで調べに来たんですか!」と、過剰反応を示していたことに思いを馳せた。あれは、自分が訴えた分ではなく、そのことを知らないまま、自分が訴えられた裁判のことを指していたのだ。今、気づいた。

「待てよ……」

 芽衣は渋谷と荒木の双方の普段の態度を思い浮かべた。

 渋谷がそんなことをするはずがないし、荒木がそんなことをするとも思えなかった。この大切な時期である。今までの努力がフイになってしまう可能性がありありの行為だった。実際に、体が触れるくらいはあるかも知れないが、あからさまな猥褻行為など、どう考えても、双方にメリットはないと思う。よほど性欲が溜まっていたとするならば別であるが。それに荒木には、子供がいた。誰かステディな関係の男性がいるはずだったし、渋谷はそうはいかないかも知れないが、学内で性犯罪に手を染めるのはあまりにリスキーだった。


 芽衣は最初の訴えのメールを調べた。

 主にヘッダー部分である。

「このIPアドレスって?」

 これはこの間、マッケイ大佐のもたらした情報……アメリカ駆逐艦がミサイル攻撃を受けたのときに調べた分にあったものと、続き番号になっていた。多分、同じ組織のものだろう。

「これって?」

 芽衣は、渋谷のパソコンと荒木のパソコンを調べた。何度も繰り返し、外部のアドレスからの繰り返しのアクセス履歴が残っていた。こんなものは大学のファイア・ウォールで弾かれるのが普通だが、この一連のアクセスは何回か成功しているみたいだった。

 芽衣の頭の中で物語がつながった。

 スプラヴェドリヴォストの計画に関わっていた科学者の後を追う作業が継続されたいたと判断せざるを得なくなった。ゴルベンバエル・キキリシア・ドミザゴルゴンの情報ではソ連の崩壊で追跡は中断されていることになっていた。しかし、中断は崩壊後の混乱期だけで、その後は再開されていたのだ。

 狙いは荒木だと断定してもいいだろう。

 彼女の曽祖父であるミハイル・スコフスキーの後を追っていたのだ。

 ならば、渋谷は……多分、その隣のパソコンを使用しているオーヴィル・ライトマンを監視していた可能性があった。オーヴィルが、SIS・戦略情報局の工作員だと知ってのことだろう。その両方が狙われたのだ。片方を突いて本体をあぶり出す。川中島の合戦の山本勘助のキツツキの戦法というのだろうか。


 ——そして。問題なのは、真実を誰も知らない所にあった。

 その代わりにこの裁判が長期化した場合に、両者の学位やその先にある就職の問題が事実としてあった。荒木については、そのうちどうにかなりそうな気もする。家もそんなに貧しい訳でもなさそうだし、大学中退としても、何とかなるかも知れない。ただし、芽衣の想像の範囲内ではだが。渋谷に関してはそうも言えない。博士号がそのまま、タクシーやバスのドライバーにとっての「第二種運転免許」に相当するものだからだ。ないと研究職としては食っていけないし、これを取る上でかなりの投資をしていたとも言えるのだ。一番大きな投資は「時間」だろう。学部を卒業した後に大学院で五年の歳月を要している。逆にいうと、年を取りすぎているがために、すでに大学教員という道以外の未来はないのだ。

 三十歳手前。すでに新卒正社員としては成り立たない。


 そして、芽衣は「訴状」の名前を見てびっくりした。

 ——荒木ののかの生年月日があり、それから計算すると彼女は三十四歳だった。

「まじですか?」

 芽衣はつぶやいた。

 本当だとしたら……でも、教務課がそう書いてあるのなら本当なのだろう。現役組の四年生とは干支が一回り上になる。そう考えると、渋谷より厳しい未来が待っていそうだった。


 芽衣は脚を伸ばして背伸びをした。椅子のローラーが周り少しだけ後ろへとスライドした。その時、ウエストポーチの中でスマートホンの着信音が鳴った。ゴルベンバエルからだった。

「もしもーし。ゴルちゃん? ごめん。メールをもらっていたわよね。さっき気づいてこっちから電話をかけようと思っていた所なの」

「それはいいのよ。この間の情報なんだけど、やっぱり、少し古いみたい。ちょっとだけ訂正させて」

「ああ。そんなこと気にしないで。もうどっちでもいいんでしょう?」

「それが……。あの後、空軍が偵察機を飛ばしているんだけど、情報を照合してみたの。あの潜水艦計画の」

「ええ?」

 芽衣は嫌な予感がした。

 この期に及んで、皆が皆、目に見えない敵に対してのカウンターパンチを繰り出してきているのだ。まさかとは思ったが、まだ、恐怖の連鎖が続いているのだろうか。

 ゴルベンバエルは話を続けた。

 少し、電話の音が遠くて、雑音が多い。

「ゴルちゃんてば、どこから掛けているの? ちょっと声が遠いんだけど」

「内容がアレなのよ。盗聴を防ぐための専用回線を使っているの。情報がどうのというより、わたしの保身のためなんだけどね。それで、あの潜水艦のことなんだけど、ソ連の崩壊で計画が頓挫したことになっていたのだけれど、実は違うみたいなの」

「ええ? まさか実在していたとか言うんじゃないでしょうね」

「その中間かしら。一旦、開発中止になっていたはずが、いつの間にか復活みたいな?」

「はい?」

「定期的に飛ばしている偵察機の写真解析では、黒海沿いのある場所で、建造途中の構造物が確認されている。実際には船台の上に組まれた足場と、キールのようなもの」

「キール?」

「竜骨とも言うんだけど、船の一番底にある鉄骨のこと。ただ、写真が不鮮明でどのくらい進んでいるのかは、よくわからないらしいの。もっとも、キジキスは内陸国で潜水艦の脅威を受ける訳じゃないんで、重要度は低いのだけれど」

「それ本当なの?」

「潜水艦そのものかはわからないんだけど、写真にあるのは確かなのよ。こんな時は普通、危険側に推定する人と、安全側に推定する人がいるわよね」

「ううむ」

「ごめんね。曖昧で。それからさ、飲み会なんだけどさ」

「ああ、また電話するわ」

 と、芽衣は通話ボタンをタップした。向こう側から何か話しているみたいだったが、それは無視した。あまりに聞こえにくい会話でもあった。



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