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九月十三日の夕方。
芽衣は大学の研究室にやって来た。
日曜でもあり、先日の中間発表の後でもあり、普段は誰かいるはずの部屋の中には誰もいなかった。流し台で湯を沸かして、棚に置いてある自分のマグカップを手に取り、インスタントコーヒーを淹れて湯を注いだ。ふわっと立ち上がる湯気。一口すすって、そのまま自分の席へと移動した。
普段は流し台のエリアでしか飲んではならないことになっていた。
こぼすと大変だからだ。しかし、今日は誰もいないことをいいことに、少しだけルール違反をした。
奥まったエリアには博士院生の席があった。
左端には渦中の渋谷宗佑。そして右端には留学生であるオーヴィル・ライトマンの席があった。芽衣はオーヴィルの席に着いてパソコンを起動させた。研究室の中でも博士院生の立場は結構強いものがある。高性能のパソコンが与えられ、そして、大型計算機の使用にも計算速度の早いIDが付与されていた。
例に漏れずオーヴィルのパソコンには音も立てずに数秒で画面が表示された。
芽衣はキーボードをカタカタと音を立てて打ち込んだ。
ストレージの中は研究で使用される資料やデータや各種アプリケーションで埋め尽くされている。何か変なものが入っていないか。……探してはみたものの、目につくところにはないみたいだった。
その中で「新しいフォルダ」と何も手の加えられていないものが目についた。
「ふうん」
芽衣は独り言を呟き、フォルダを開いた。
大抵は雑多なファイルなど、本当に一時的なメモや、あるいは他のものが揃ってからフォルダに名前をつけて保存しようかと言うものが多い。中身を丹念に確かめた。その中に一つだけ数字だけが記載されたテキストファイルがあった。
「IPアドレス?」
芽衣は直感した。
インターネットのブラウザソフトを立ち上げて、検索バーに「https:」を足してからその数字を記入した。リターンキーをバシッと打ち込む。その直後、真っ黒な画面に切り替わった。
ふと考え込み、キーボードの上に指を置いた。
「ログインコマンドかな?」
半角英数字にして「LOGIN」と打ち込んだ。
と即座にIDとパスワードを求めるメッセージが白い文字で現れた。
ここからが本番だった。
少し考え込み、何通りかのオーヴィル・ライトマンのニックネームと誕生日や学生番号を組み合わせて入力した。数秒後、ログインが成功したみたいだった。画像も何もない簡素な画面。SISという秘密組織の通信用のアプリケーションなのだろう。文字だけなのだろうか。何通りかのグラフィックや図表を表す単語の命令文っぽいものを想像して打ち込んでみると、割と色んなファイルにアクセス出来ることがわかった。
彼……オーヴィルとウィルバーとどちらが本物なのだろうかと考えた。
学生のふりをしたスパイとスパイのふりをした学生。
このファイルの山の中に芽衣の考えていた情報は少なかった。
——もしかしたら、サンディエゴでウィルバー・ライトマンと名乗ったSISエージェントの男は潜水艦が専門と言う訳でもなかったのかも知れないと思った。
何をしているのか?
芽衣は全体像を掴むために、現時点で得られている語句で検索を繰り返した。
「この数字?」
画面の右下に小さな数字が表示されていて、時間と共に変化していた。
段々と減って来る。まるでタイマーの様だった。
「あ! やっぱり!」
やはりタイマーだった。多分、一度にアクセス出来る時間が限られているのだろう。つけっぱなしでも五分ほどで切れてしまう仕様になっていた。
芽衣は焦りを覚えつつ作業を続けた。
あんまり考えこむ暇はなさそうだ。
「オーヴィルの追っていた情報?」
潜水艦の情報はアルテミス計画の基本仕様を示した数字だけのファイル一個だけであり、他には何もなかった。その代わりに、情報部が追っている各国のテロ組織の動向を示すものがたくさんあった。
以前にも日本を含む東アジアで猛威を振るったサイバーテロ組織である「リトル・エンペラー」。爆弾とハッキングを得意とする「レッド・スコーピオン」。そして、初めて目にする「スプラヴェドリヴォスト」と言う組織だった。
「これって?」
昨日、キジキス大使館でゴルベンバエル・キキリシア・ドミザゴルゴンに聞いたばかりの旧ソ連の極秘計画の名称だった。彼女は「正義の力」と呼んでいた。オーヴィル・ライトマンもこれを監視していたのか、あるいは、別のテロ組織としてマークしていたのかはわからない。
「あ、やっぱり!」
元の情報を補完するファイルを開くと、やはり、新手のテロ組織の様だった。
通信障害を発生させたり、通信設備のハッキングを行い、大規模な都市のブラックアウトを起こすことを得意とする組織。しかし、主な事件では「仮想通貨、暗号資産の形でのお金の収奪」を目的とした犯行が多そうだった。
お金を主目的とするのであれば、「純粋」なテロ組織とは呼べなさそうな気もした。
しかし、彼の所属しているSISでの扱いは少し大きい様である。
正義の力に関する情報は分量も多く、なおかつ深かった。
芽衣は検索を繰り返した。
「G7、東京、原子力空母……」
と、ぶつぶつ呟きながら思いついた語句を入れていく。
それに対して膨大な数のファイル名称が表示されてはスクロールして消えていく。芽衣の勘ではそれらが本命ではないと言う気がしていた。どれも大変なターゲットではある。しかし、「お金」が主目的なら、あんまり現実味がない気がした。何億ドルもの身代金。確かに金額は大きいが、そんな大それたテロとの引き換えとしてはあまりに安すぎる気がしていた。
「オブザーバー参加」
これを打ち込んで終わりにしようと諦めた。
と、直後に一通だけの検索結果が現れた。
「ふむ……。キジキス共和国大統領?」
昨日、彼女が言っていたキジキス大統領のG7への参加のことだった。
「何だろう?」
しかし、他には何もなかった。
この情報もSIS内部ではかなり軽い扱いだった。
——もしも? もしも、キジキス共和国大統領がターゲットになったら?
芽衣はあまりピンと来ないまま考え込んだ。
と、同時にオーヴィルのパソコンの接続が切れてしまった。タイマーの五分間が過ぎてしまったのだ。
——キジキス共和国?
どう考えても、そんなに影響はなさそうに思える。
それよりもG7でのセレモニーそのものをぶち壊す方がテロ組織としても……格が上がるといえば語弊があるが、それなりにインパクトがありそうな気がした。そして、現にアメリカ大使館やSISが追っているアルテミスそのものが目の前にある脅威だった。あれからどこに移動したのだろう。芽衣も嫌な予感しかしない。
——しかし。
サンディエゴ沖の駆逐艦への攻撃は「偽」の命令によりなされたのだ。今も乗組員たちは何も知らずに太平洋の深海を移動している。どこかで新たな偽の命令がなされる可能性も考えられる。
オーヴィルのパソコンから知ることの出来た、何らかのテロ組織が絡んでいると思われる。そして、SISも、そのテロ組織がどこであるかを絞り切れていないものと想像された。
——あの駆逐艦はどうして簡単にやられてしまったのだろうか?
その疑問はいまだに解けていない。
離れた場所からの魚雷も検知して、飛んで来るミサイルも撃ち落としてしまうはずだという。自国の潜水艦だと聞いていて、完全に油断していたのだろうか? スコフスキー博士が手配した船だとは推測出来た。だとしたらアルテミスが何者かに乗っ取られたことが前提で出動していたはずだと思う。
やはり、何かカラクリがあるはずだった。
——このどれかが本物に違いない。
と、思わせておいて、最後にどんでん返しがある。
よくあるパターンというやつだ。
芽衣はウエストポーチのサブボケットに手をやった。サン・ディエゴで対潜哨戒機P3Cに乗せられた時にデータを拝借したものだった。データそのものには、あれ以上の情報は入っていなかった。そして、ファイル作成日時と作成者、アクセス権限を丹念に調べた、もちろん、国防総省開発局DARPAのスタッフか、その上司にしか開示されないはずのデータがほとんどだった。しかし、組織が巨大であればあるほど、分業制が多くなる。ちっぽけなデータの処理やプログラミングに、地位の高いひとを使うことはないからだ。誰か、下処理や、プログラムの下書きをしたひとがいそうだ。
五分ほどデータをこねくり回し、あることに気づいた。
他のパソコンからは見えないのに、オーヴィルのパソコンには表示されるファイルがあったのだ。
——これかな?
芽衣はファイルを展開した。
多分、オーヴィルと彼が装った双子の兄のウィルバーも気がついていないかも知れない。と言おうか、情報機関の偉いひとに興味を惹かれない些細な情報が書き込まれたいた。
「アルテミス計画・基本計画書・アクセス権限に関する取り決め」
と、題された小さな文書ファイルだった。
関係者であれば誰も読まないに違いない。自明の書類だ。
言われなくても、必要なひとはアクセスするものだし、関係がなければ「読め」と言われても読まないだろう。
芽衣は、アクセス権限がありつつも、アクセス歴のない人物のIPアドレスを探し、そこから内部へのハッキングを開始した。
雑多なファイルの山。
情報はそんな山の中に埋められた金の粒を探し出すことで得られる。
採掘と精製。その後に出てくるのが価値ある情報となる。
——戦略防衛構想・補完計画。
それがアルテミス計画の正式名称のようだった。
レーガン大統領が掲げた「スターウォーズ計画」を補完するもの。旧ソ連がスターウォーズ計画に対抗するために打ち出したスプラヴェドリヴォスト・正義の力計画に、さらに対抗する計画を打ち出していたのだ。その計画のどれもが、いわゆる計画倒れてあることを考えると、もう、冗談だとしか思えない。
しかし、今回はその成果物であるアルテミスが、テロを起こすための道具として利用されかかっていた。
ウエストポーチの中のスマートホンに突如、着信を知らせるチャイムが鳴った。
音からすると友人からのものだった。開くと、ゴルベンバエルのショートメッセージと共に、気づかないうちに山本教授からのものも入っていた。これは無視することは出来ない。どちらに先に返信しようかと少し迷い、やはり、教授を優先させた。
——ちょっと来てくれないか。
と、そんな文言が入っていた。
日曜日なのに、出勤しているのだろうか? 芽衣は疑問に思いながら教授の部屋へと移動した。扉をノックすると中から「入りなさい」と返事があった。