(3)
午後一時半。
芽衣は高輪駅から少し距離があるキジキス共和国大使館に来ていた。
中央アジアに位置する、旧ソ連圏に属する国だった。
都立緑ヶ丘高校にいたときに、そこから来た留学生がいた。彼女は気さくな友人であり、なおかつキジキスではスーパー・エリートでもあった。日本の女子大を卒業した後、あちらの外務省に入り、在日本キジキス大使館の書記官になっている。
「ドミザゴルゴン二等書記官をお願いします」
と、ロビーの受付の女性に依頼した。彼女はすぐさま内線電話を取り、執務室へつないでくれた。
「こちらへどうぞ」
と、そこまで案内してくれた。ノックして室内へ入る。
彼女は机でパソコンに向かって仕事中だった。
「あら? 芽衣?」
「ゴルちゃん。お久しぶり!」
芽衣は彼女とハグの挨拶をした。
「ちょっとお願いしたいことがあるのよ」
と、芽衣は単刀直入に話を始めた。
「いいわよ。待って、今、飲み物を頼むわ」
ゴルベンバエル・キキリシア・ドミザゴルゴンは内線電話を取って、紅茶とお茶菓子をリクエストして芽衣に向き直った。「紅茶でよかったかしら?」
「うん。ありがとう。それでね……」
「懐かしいな。高校を出てから五年ぶりかしら?」
「まあ、積もる話は今度ゆっくりしようよ。今日はお願いがあって来たの」
「わたしでお役に立てるなら」
「実は……。旧ソビエト連邦時代の資料って、多分、公文書館にあると思うの。で、キジキスでもある程度の資料は残っているんでしょう? ちょっと、調べてもらいたいのよ」
「ふうん。キジキス共和国にとっては黒歴史かもだけど。こちらの歴史の教科書からはその時代のことは消されているわ」
「そうなんだ?」
「でも、あなたの言うとおり、データベースには残されているわよ」
芽衣は何と説明しようか言葉を探した。
「あのさ。曖昧で悪いんだけど、電波兵器という言葉でも検索出来るの?」
「大雑把なのね。陸上用か船舶用かの区別くらいはして欲しいわ」
「多分、船舶用だと思う。軍艦のアンテナに関係ありそうなの」
「OK」
ゴルベンバエルは仕事で使っていたパソコンでそのまま操作を続けた。多分、軍や情報部との接続が可能なのだろう。
「でも、こんなことしてゴルちゃんは大丈夫なの?」
「まずいわよ。でも、あなたには恩義があるから」
「恩義?」
「高校で日本語も分からなくて授業から落ちこぼれていたときに、あなたと中原さんだけは、放課後に面倒見てくれたこと。本当に感謝しているのよ」
「ああ」
芽衣は、そんなに真剣に手助けした訳でもなかった。でも、今の状況を考えると、あのときに留学生いじめに加わらなかったことを幸運に思った。
「これかしら?」
「あったの?」
「1983年にアメリカのレーガン大統領が打ち出した戦略防衛構想……通称『スターウォーズ計画』。ソ連のICBMを宇宙空間で迎撃するというトンデモ計画があったの。その計画に対抗するために当時のアンドロポフ書記長が打ち出したのが『スプラヴェドリヴォスト』建造計画。正義の力と言う意味だけど、これがその電波兵器っぽいわね」
「それって?」
「原子力潜水艦の開発計画みたいね。強力な電磁波の照射装置を装備して、西側諸国の近海に潜んで、有事の際に上空を飛ぶ偵察衛星や攻撃衛星の電子回路を焼き切って無力化するものらしいわ」
「らしいわって?」
「計画は遅れに遅れ、アンドロポフ書記長の後任のチェルネンコやゴルバチョフの時代まで持ち越され、結局、実用化には至らなかった」
「ええーっ!」
「西側諸国はこの計画を突き止めて『ブラボー級潜水艦』の名称をつけてマークしていたみたいで、結構、ソ連の国内外で情報戦が行われていた節があるわ」
「じゃあ、実際にはないものだったの?」
「要素研究は各パーツごとには行われていたみたいだけど、91年のソ連崩壊で研究自体が頓挫したみたいよ。その研究者も何人かは行方不明になっていて、本来なら秘密警察が後を追うはずなのだけれど、それも行われないままに幕引きとなっているわ」
「ふうん。そんなことがあったのね」
しばらくしてドアをノックする音がして、事務員が紅茶を乗せたお盆を持って来てくれた。ゴルベンバエルはそれをデスクの上に置くよう指示した。
事務員が出ていくと、ゴルベンバエルは話を続けた。
「電磁波照射装置そのものは完成していたわよ。ただ、ターゲットとなる人工衛星の位置をつかむ所で難航しているわ。回路を焼き切るのは可能だったけど、相手の位置が分からないのでは、どうしようもないよね」
「ああ……」
それでミハイル・スコフスキーはアメリカ海軍基地の軍艦の衛星アンテナに注目していたのだ。その向かう方向を探せば、自ずと通信中の衛星が見つかるはずだった。多分、もう一歩の所で苦しんでいたのだろう。芽衣は思った。
結果が出ないで論文作成に苦しんでいる大学院生や研究者とそっくりそのままなのだ。
「でも、芽衣。スターウォーズ計画も計画倒れだったし、スプラヴェドリヴォスト計画も頓挫。みんな、存在しない幽霊に怯える子供みたいよね」
「そうなのよね」
と、うっかりDARPAのアルテミス計画のことを喋りそうになり、自重した。
まるっきり、彼ら先人の計画と同じ次元で動いていることになる。
いもしない幽霊。
冷戦の本質も意外とそんなものだったのかも知れない。
「そうそう。芽衣には関係ないかもだけど、今度の九月二十九日から行われるG7サミットにキジキスの大統領もオブザーバー枠で参加することになっているのよ。大使館はその準備でおおわらわなんだけど。あはは」
「え? あの原子力空母の上でセレモニーとかいうやつのこと?」
「よく知っているのね。そうよ」
「こちらの大統領府も大使館も気合が入りまくっているわ。もうG7の仲間入りを果たしたかのよう。大したことないのにね」
「ゴルちゃんてば、冷めているのね」
「やっぱり、高校のときに日本に留学したじゃない? キジキスにいた時は、首都のキジクシティーが大都会だと思っていたけど、東京だったら八王子くらいかしら。まさに、日本に来る前のわたしって井の中の蛙だったと思う」
「そうなんだ」
芽衣がしみじみ返事すると、ゴルベンバエルは思い出したかの様に机の上に置かれたお盆に向かった。紅茶が冷めてしまったかも知れない。
「レモンにする? それともミルク? このミルクはキジキス直送のものなのよ。一度試してみてよ」
「ええっ! そんなことまでしてるの?」
「ゴルゴン高原で飼育しているヤギのミルクなの。日本のとは少し違うけど、こくがあって好きな人には刺さるみたい。って、大使館としては販路拡大も仕事なんだけど。あはは」
芽衣はヤギのミルクと聞いて少し身構えた。
あまり美味しそうなイメージが湧かない。でも、一口飲んでみると割と美味しかった。
そして……。乗っ取られたアルテミスの行き先が、サミットのセレモニーが行われる東京と横須賀の沖合の原子力空母だと言う情報が入っていた。キジキス大統領がテロ事件に巻き込まれたら? 準備や裏方をしている大使館員もタダではすまないだろう。芽衣はゴルベンバエルの行く末が少し気になった。
「そうそう。芽衣。今度のG7が終わって一段落したら、浅川先生なんかも誘って一緒に飲みに行こうよ。美味しそうなご飯屋さんを探しておくからさ」
「いいよ。ぜひ! ああ、お酒は苦手なんだけど。あはは。……ああ、そうそう、もう一個調べて欲しいんだけど?」
「いいわよ」
「ミハイル・スコフスキーって名前は出て来ないかな?」
「ああ」
ゴルベンバエルは紅茶のカップを横に置いてパソコンのキーボードをカタカタと操作した。「そうね。電磁波の研究者みたい。でも、ソ連崩壊後に行方不明になった科学者のリストに入っているわね。どこに消えたんだろうね」
「結構、大変な時代だったんだね」
芽衣はしみじみと言った。「そのひとに兄弟とか息子さんとかいなかったの?」
「ええと」
ゴルベンバエルはカタカタとキーボードを叩いた。「ミハイルの兄でヨシフと言うひとがいて、ソ連崩壊後、エリツィン大統領の時代にアメリカに移住しているみたい。科学者だけど、すんなり移住が認められたなんて、もしかしたら何か情報を持ち込んだのかも知れないわね」
「世知辛いのね」
「そうよ。難民で命の危険があるのなら別だけど、経済的困窮だけじゃどこの国でも門前払いか、捕まって国外退去にされちゃうわ」
「ヨシフってロシア語名よね。英語名は?」
「ジョセフかジョーかな」
年齢的にはディック・スコフスキーの親の世代かも知れない。
「ディックって名前は出ていないかな?」
「ううん。ここにはないわ。……情報部にはあるかも知れないけど、これは他人には言えないの」
「ソ連の話はいいのに?」
「別の国だし、なくなっているし、守秘義務もないし。それに公文書館で公開されているしね。これは単なるデータベースよ」
「そんなものなのね」
芽衣はしみじみと言いカップの中身を飲み干した。
——ヨシフ・スコフスキーがアメリカ政府に持ち込んだ情報というのが、多分、ゴルベンバエルの言った「スプラヴェドリヴォスト」、正義の力計画のことかも知れなかった。こんなものが完成したらアメリカや西側諸国は大変なことになりますよ。わたしを採用してくれたら、それに対抗する手段を考えて差し上げます。どうです? 永住権をもらえませんかね? そうすればアメリカ合衆国に忠誠を誓います。
そんなことを売り込んだ可能性があった。
経済的困窮が移住の理由だったにせよ、それだけでは彼女の言う通りにアメリカも永住権など認めなかったに違いない。ヨシフの専門が何だったのかはデータにはなかったが、その息子か甥っ子のディックが潜水艦計画に関わっていることからも、何らかの情報の引き継ぎがなされていた可能性が高いと思った。
仮に関係がなくても、いない幽霊に怯えている子供たちにとって、アルテミス計画はその最後を締めくくる、壮大で愚かなものだったのだ。