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深海の白鯨  作者: 黒川文
4.上野キャンパス
10/21

(1)


 九月十二日の土曜日。

 午前一〇時の公園。


 芽衣は研究ノートとは別にしているノートを手に人待ちをしていた。

 とはいえ、待った時間はほぼない。と言うか、彼がすでに待っていたのに気づかなかっただけだ。


「黒澤先輩?」

「ああ、来てたの?」

 先日、ラブレターらしきものを手渡した男子高校生が頬を赤らめて近づいてきた。

 名前は荒木希望。希望と書いて「ノゾム」と読むそうだった。色が白くて目鼻立ちがくっきりしていて、アイドルの男の子っぽい雰囲気を漂わせていた。

 芽衣はノートをパタンと閉じて持っていたトートバッグに直した。

「何かお勉強中だったのですか?」

「いや、そんなのじゃないわよ。そう言えば、ノゾム君は高一って言ってたっけ? 担任は誰なの?」

「浅川先生です」

「あら? 偶然ね。あたしも三年生の時に受け持ってもらったわ。あの関西弁は今も健在かな?」

「はい。時々ついていけない時もありますが、面白くていい先生です」

「あはは。地元民しかわからないことも多いよね」

「そうなんですよ。あはは。何言うてんねん……みたいな?」

「そうそう。よく言っていたわね」

「それに、一番カルチャーショックぽいものは、『関西人はな。バカと言われると怒るけど、アホと言われたら喜ぶんや』と言うことでした。本当なのでしょうか」

「あっはっは。それは当たっているかも。うちの研究室にもそんな人がいたわ」


 芽衣の喜ぶ顔に少年は頬を赤らめた。

「ねえ、ノゾム君」

「はい?」

「君の洋服と靴と小物。それって結構お高いのではなくて?」

「そんなことないですよ。でも、ほとんどは祖母からプレゼントされたもので、いいものだとは思うんですが、実際の値段は知らないです」

「ふうん。趣味のいいお祖母様がいらっしゃるのね。もしかして、あなたのお家ってお金持ちなの?」

「そんなことないですよ。普通です。でも、他の人からも言われたことがありますが」


 芽衣は彼が結構、裕福な家庭の子供だと感じた。

「ねえ。君ってハーフなの?」

「え?」

「ちょっと普通の子とは違うなと思って。違っていたらごめんなさい」

「実は……祖母の父親がロシア人だったと聞いたことがあるんです。僕は会ったこともなくて、曽祖母もすでに亡くなっていて、祖母からの又聞きなんですが」

「それ本当?」

「又聞きなので、本当の所は謎なんです。でも、家の納戸にその人の遺品があって、ロシア語で書かれたノートなんかが残ってはいるんです」

「それって……。いつ頃のことなの?」

「詳しくはわからないのですが、祖母から聞いた話では……」


 荒木希望はあまり話したくはなさそうな雰囲気を醸し出しながら、訥々と言葉を選んだ。たぶん、好きな人に告白して初日のこと。回答を拒否して嫌われたくないという意識がそうさせたのかも知れない。

 曽祖父は、ソビエト連邦社会主義共和国の科学者で日本へは旅行だったのか、別の任務があったのか不明であったが、その当時に東京にいて、希望の曽祖母と出会って恋に落ち、そして結婚したのだそうだった。

 元々は短期間の訪日の予定だった。

 しかし、日本に滞在している最中にソ連崩壊と言う歴史的な出来事が起こった。

 元の組織も解体され、曽祖父は帰るべき理由を失った。


「科学者? 専攻は?」

 芽衣はそこに興味を抱いた。

「電磁波工学だそうです。祖母の話では」

「ふうん。日本へはどんな目的があったのかしら?」

「よくはわかりません。でも、港で写真を撮りまくっていたらしくて、カメラやフィルムがそのまま残されています」

「港?」

「軍艦が多く写っていたので、米軍基地や自衛隊基地だと思うのですが、何のためにそんなんことをしていたのかは、わかりません」


 芽衣は何となく嫌な予感がした。

 その人物が本当に科学者で、何らかの目的で来日して趣味で写真を撮っていた。

 もう一つは、本当は情報当局者、スパイで、科学者を装って来日して米軍や自衛隊の動きを探っていたかだ。しかし、海軍基地を探るのだったらもっとまともな肩書きの方がいいだろうとは思った。

 電磁波工学。


「ねえ。ノゾム君。それ見せて欲しいな」

「それはいいですが……」


 その時、公園に誰かが通りかかった。

「あ! お母さん!」

 と、ノゾムは言った。芽衣はその視線の先を目で追った。

 研究室の荒木ののかだった。

「え? お母さん?」


 荒木ののかは芽衣の姿に気付き、荷物を抱えたまま会釈した。

「荒木さんてば、子供がいたの?」

 と、芽衣は素っ頓狂な声を上げた。

「いけませんか?」

 彼女は全く動じなかった。

 芽衣は頭の中で計算機を叩こうとしたが、気が動転して叩けなかった。

 荒木希望がののかの息子であるならば? 彼女が中学生の時の子供になる。そんな事実があったのだろうか? もしかしたら、荒木の年齢が違うのかも知れない。入学年度から勝手に二十八歳と思っていただけで実際には、もっと歳を食っていた可能性もあった。

 そして……。その学校によっては、妊娠がバレたら退学になる可能性もある。

 留年や浪人は大学だけではない。高校なんかでもあり得たのだ。


 結局、芽衣は荒木ののかに誘われる形で、彼らの自宅へと招かれた。

 応接間でお茶を出される間に、ノゾムが大量のノートが詰め込まれた段ボール箱を持って来てくれた。

「ふうん。……あ、お構いなく!」

 お盆の上にお茶とお菓子をのせて、ののかが入ってきた。

 手早く、段ボール箱の中に目を通した。

 ノートはロシア語らしき文字で埋め尽くされていた。内容はわからなかったが、図やグラフは読み取れた。回路図のようなものが多数あり、無線機の一部だと推察された。電磁波工学というのも嘘ではなさそうだ。そして、写真の詰め込まれた封筒に手をつける。確かにアメリカ海軍の艦船と自衛隊の護衛艦が写っていた。


「これって何をしていたのかな?」

 芽衣は誰にともなく呟いた。

「あの?」


 荒木ののかは乱暴にお茶を置くと、他に話のありそうなそぶりを見せた。

「えっと」

「黒澤さん。どうしてうちの子に話なんかしていたんですか? もしかしたらセクハラ裁判のことですか? わたしを探りに来たんですか?」

「えっと」

「わたしに出産歴なんかがあると、不利になる。そうなんですね?」

「いや、そんなつもりはちっとも」

 芽衣はそう答えたが、何だか、来たタイミングは最悪のようだった。


 荒木ののかは鬼のような形相だった。

 芽衣はお茶だけ飲んで、そのまま帰ろうと考えた。

 と、その時、一枚の写真に目が行った。

 駆逐艦のアンテナ部分にペンで線が記入されていた。そして、そんなものが他にも数枚あるのに気づいた。


 ——電磁波工学というのは嘘ではなかった。彼は軍艦を写してはいたが、船ではなくアンテナを観察していたのだ。そう考えると辻褄があった。ノゾムの曽祖父がソ連の科学者であるとするならばではあるが。では、何のために? 芽衣は先ほどのノートを思い出した。

「荒木さん。失礼だけど、おじいさんのお名前は何というの?」

「そんなこと、セクハラ裁判に関係があるんですか? 差別です!」

「いや、あたしが来たのは、別に裁判のことじゃないんです。たまたまノゾム君と知り合いになっただけで……」

「まあ、いいわ。……ミハイル・スコフスキー」

「え?」

「ミハイル! スコフスキー!」

「え、ああ。ありがとう」

 芽衣は手にしていたノートと写真を落としてしまった。

 スコフスキーと彼女は言った。まさか、DARPAのディック・スコフスキー博士と関係があるのだろうか。いや、これも荒木ののかの妄想が勝手に作り出した与太話のひとつかも知れない。

 事実としてあるのは、ノゾムの言った通りに存在した段ボール箱一杯の資料と写真の山だった。


「ごめんなさい」

 芽衣は床に落としてしまったノートを丁寧な手つきで拾い上げた。と、その時開いたページに高周波回路と特殊なトランスと大型真空管が繋がれた図面があるのに気がついた。——何かある、と、芽衣は思った。


 午前十一時になる少し前。

 芽衣は、荒木ののかの怒りが爆発しないうちにと、そそくさと退散した。

 そして、元いた公園のベンチで、先ほど目立たないようにスマホで撮影したノートと写真の一部を見返した。緻密な線で描かれた、何かの回路図。それに細かいロシア語でぎっしり書き込まれたメモ。その上に海軍基地で撮られた写真と。

 これにもアンテナの部分にペンでたくさんの書き込みがあった。


 もし、91年のソ連崩壊がなければ?

 ノゾムの曽祖父は日本に腰を落ち着けていたはずがなく、祖国へ情報を持ち帰って何かの機器を作る作業に従事していたかも知れなかった。一体何を作ろうとしたのだろう? そして、実際には何も作られなかったというオチになっていた。


「いや、待てよ」

 芽衣はひとりで呟いた。

 何も作られることはなかった。

 それは歴史的事実かも知れない。しかし、科学者であるミハイル・スコフスキーがソ連が崩壊した後に帰国することなく、ノゾムの曽祖母と出会って結婚して、余生を平和に過ごしていたことを誰も知らなかったとすれば? と、思いいたった。


 芽衣はトートバッグを肩にかけ、駅へ向かって走り出した。



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