六章 あめ 3
まどろみに落ちるのは緩やかだったのに覚醒は突然だった。車体を叩く雨音が僕を呼んでいるみたいだった。
「すまない。すっかり寝ちゃったみたいだ」
目線を横に向けたとき、自分の失敗を痛感した。助手席に人影はなく、あるのは飲みかけのペットボトルと手つかずのおにぎりだけだった。後部座席の傘は一本になっていた。
なんで一人で行ったんだよ、とは思わなかった。別に僕とナツキは旧知の仲でもない。僕が勝手に恩を感じていただけで、あいつからしたら僕は隣人程度の存在だった。それはわかっていたはずなのに。
ため息をつく間もなく、僕は傘をつかんで飛び出していた。
外は激しい雨で、目の前すら大きな怪物に吞まれてしまったみたいな暗闇だった。傘を差していても足元は容赦なく濡れていく。根拠のない不安がこみ上げてきて、動かずにはいられなかった。
一人で行かせればいい。家出した少女が母親に会いに行くだけじゃないか。いつもの僕ならそう思う。あんな夢さえ見なければ。
自分らしくないなんてどうもいいじゃないか。色々言い訳して逃げてきたんだから、たまには自分に正直になるんだ。
夕方の道順を思い出しながら走った。けれども夜の街は全く違う顔をしていて、なかなか目的地が見つからない。
雨は容赦なく浸水してきてクツは重くなり、走るのに邪魔だから傘と一緒に捨てたくもなった。排水路の蓋に三回足をとられ、無灯火の自転車に一度ぶつかりかけて、喉の奥が鉄みたいな味でいっぱいになったとき、ようやく見覚えのある家を見つけた。玄関からの光が細い筋になって庭先に伸びている。
乱れた呼吸を整えながら近づくと、雨音に混じって怒鳴り声が聞こえた。
「なにこんなとこまで来てんのよあんたは!」
甲高い女の声。一瞬、僕に対してなのかと身をすくめたが、声の主からは灯りもない僕の姿が見えるわけないと思い直す。目を凝らしてみると、僅かに開いたドア越しに二人の人間が会話してるのが見える。どうやら怒声は軒先に立つ人影に向けてのものだったらしい。
「お母さん帰ろう。お金もあるから借金も二人で返していこうよ」
聞きなれたナツキの声。そのとき、バーンと玄関のドアが開かれた。すんでのところで退いたナツキの先に、肩で息をする女性が立っていた。
「アンタになにができんのよ! いつもわたしの邪魔して、鬱陶しい」
あれが、ナツキの母親だろうか。逆光で顔はよく見えない。乱れた髪と握ったこぶしがやけに印象的だった。怒りの矛先が自分に向いていることも気にせず、ナツキは叫ぶ女性に対してなおも優しく話しかけていた。
「ほら見てお母さん。お金、用意したんだよ。いっぱいあるから、これで一緒にくらそうよ、ね?」
ナツキがカバンを広げる。ドラマかマンガでしか見たことないような数の一万円札がカバンに詰まっているのが遠目に見えた。あんな大金持ち歩いていたのか。一千万はあるんじゃないか。
女性もパンパンに詰まった札束を見て息を呑んだ。
ゆっくりとした動きで一歩ナツキに歩み寄り、女性はカバンに手を伸ばしかけた。女性が動いたことで、玄関の明かりがナツキをはっきりと照らす。
「お母さん」
わずかに歓喜を帯びた声に、女性は伸ばしかけた手を止めた。
「アンタ、それ……」
すでに女性の目線はカバンには向いていなかったのだろう。女性が指差した先はナツキの後ろ側。さっきまでは女性の影と重なっていた、ナツキの影があるはずの地面。そこには、当然あるべきものがない。
次の瞬間、女性は声にならない短い悲鳴を発してナツキを突き飛ばした。
「ナツキっ」
僕はとっさに飛び出して彼女に駆け寄った。
ナツキの傘は吹っ飛び、スカートは泥で汚れ、濡れた肩は震えていた。突然現れた僕など気にせずに、ナツキの母親は叫び続けた。
「気持ち悪いっ。なんなのアンタ。いつも人の為にみたいな顔して誰かに依存して。いちいち鬱陶しいのッ。しかもなによそれ。この化け物ッ」
そう吐き捨てて、ナツキの母は叩きつけるようにドアを閉めた。雨が一層激しくなった気がした。
住宅街の庭先には似合わないものがいっぱい残った。立ち尽くす僕と、嗚咽を漏らす泥だらけの少女。濡れて歪む一万円札と、それが大量に詰められたカバン。それらにどこまでも平等に降り続ける雨。
「……とりあえずここから離れよう」
精一杯考えて言えたのはそんな言葉だった。
もっと他にかける言葉があったはずなのに、痺れた脳みそは声を発するので限界だった。
「そう、ですね。もう用事は済みましたし」
少女は手の泥を軽く拭いて、ふらふらと歩き出した。僕は置き去りのカバンを拾い、少女は傘を拾おうとしていた。カバンは、予想していたよりもずっと重かった。
ナツキは拾い上げた傘を広げようとしたが、彼女はいくら力を込めてもそれは役目を果たしそうになかった。
「アイハラさんごめんなさい。傘、壊してしまったみたいです」
言葉通り、差し出された傘は真ん中で骨が折れていた。
「別にいいさ。僕がこれまでドブに捨ててきたお金に比べたらビニール傘くらい安いから」
大金が入ったカバンを挟んでするにしては安すぎる会話だった。
僕は自分の傘を少し高くして「入った方がいい」と促した。
「もう十分濡れてしまったので平気です」
でも、と続けて少女は反転した。
「このままは辛いので屋根のある場所へ行きましょう」
正直、車が濡れるのは少し嫌だったが、この場合なら仕方ないかなと思った。
僕が車を停めたコンビニの方へ歩こうとしたのに、ナツキは振り向かずにコンビニとは逆に歩き始めた。
雨はいっこうに止む気配はなくて、僕は少女の肩が濡れていくのを傘の下から眺めるしかできなかった。声をかけても無駄な気がして、かといってこのまま立っていても仕方ないから、離れていく背中に無言でついていった。
空の暗さと反比例するみたいにあちこちの家の灯りが輝く。ナツキは自分を刺そうとしてくる灯りから逃げるみたいに歩き続ける。とても親子とは思えない二人の会話を聞いてしまった僕にしても眩しすぎる光だった。
行先の見えない僕からしたら不安を覚えるくらいの時間を歩いてから、ようやくナツキが足を止めた。見上げた先にあったのは古ぼけた神社。
「以前来たときに見つけたんです」
勝手知ったるという風に横手に回ると、ナツキは壊れた壁の隙間からするりと中に消えた。僕もなんとか同じ場所をくぐる。柔らかい畳の感触を手に感じて、濡れた傘は外に置いておくことにした。前から知っていたということは、案外あの家から離れていないのかもしれない。
屋内は薄暗く、灯りはどこか遠くの不謹慎なくらい明るい街灯だけだった。湿った畳の匂いが鼻をついたあと、僕の部屋の倍以上の大きさがあるのがぼんやり見えた。
「これ、使ってください」
どこから持ってきたのかナツキが毛布を抱えて立っていた。ありがとう、と受け取ろうとして、やっぱり彼女に返すことにした。僕なんかよりずっと濡れている人がいる。
毛布にくるまれる姿を見て、ナツキが傘に入らなかった理由がわかった気がした。車に戻らなかったのと同じだ。つまり、自分以外を濡らさないために、だ。
「なんだかんだ優しいんだな」
二人分くらいのスペースを開けて座る少女に話しかけた。しばらく待っても返事はなかった。
「さっきのが母親なんだろ?」
避けたい話題ならまた沈黙する。そう思ったから訊けた。
「僕も家族とは上手くいってないから。あんたとは違うけど、なんとなくわかる」
ナツキは壊れそうな無理のある笑顔で僕を見た。それが初めての笑顔で、気温とは関係なしに寒々しかった。
「うまくいってないのはわたしのせいですから。こういうのは難しいですね」
出会ったときからなんとなく家出したのではないかと疑ってはいた。でも一歩踏み込むのを躊躇って触れられなかった。今になって訊くのは、やっぱり勇気が足りなかった。
だから遠回しに質問する。
「あのお金はどうしたんだ」
雨で濡れているとはいえ、乾けば日本で最高額の紙たち。とてもアルバイトで稼げる額じゃない。
「影を……」
広い部屋に吸い込まれてしまいそうなくらい細い声。
「影を売った対価でもらいました」
「対価?」
影は奪われた、わけじゃなかったのか。
「そうです。わたしが影を渡して代わりにお金をもらいました。それがあれです」
影の代わり。怯えて、後悔しながら暮らす代償。突拍子もない話だけど、実際に影のない少女が目の前にいる。
「どうして」
問おうとして、ナツキを直視できない自分に気が付いた。僕が好奇心で踏み込んでいいのか。
「どうして影を売ったか、ですよね」
僕が言い淀んでる言葉を、ナツキの声が形にする。
やっぱり気になりますよね、と続ける。
「無理にとは聞きたくないけど。さすがに、な」
「無理ではないです。ここまで、わたしも付き合わせてますから」
ナツキは一層強く毛布を握りしめた。
「最初に一つだけ、あなたが想像してるであろうことを訂正します。わたし、家出したわけじゃないですよ」