六章 あめ 2
裏道を走り、渋滞で止まり、適当なドライブインで空腹を誤魔化し、曲がりくねった峠を飛ばした。
ナツキの案内はめちゃくちゃだった。あえて渋滞を避けるために道を外れ、そのたびに彼女のスマホは代わりのルートを模索し続けた。
正直、余計に時間がかかっているとしか思えなかった。お昼前に出たはずなのに、いつの間にか帰宅する子供の姿が目立っていた。灰色の分厚い雲も原因の一つかもしれない。
「この辺りは見覚えあります。多分もうすぐです」
「おかしな言い方だな。もともとナツキの地元だろう?」
どうやら僕の発言は地雷を踏んだようで、ナツキは目を伏せてしまった。なにか間違っただろうか。
暑いと思っていた気温はあまり気にならなくなっていた。半袖では少し肌寒いくらいで、僕は二の腕を擦った。
「ここに車を停めていきましょう」
静かな案内から数分、ナツキがコンビニを指差した。ここからは歩いて行ける距離、ということらしい。
車から降りると、固まった背骨がボキボキと鳴った。わずかに湿った空気がエアコン漬けの肺に痛かった。
「ついてきてください」
服の裾を引っ張られて振り向いた先で、ナツキがカバンを抱えていた。
「持とうか?」
断られるだろうなと思いながら訊くと、案の定「平気です」とだけ言ってナツキは歩き出した。ただ僕は、その後ろ姿を眺めながら違和感を覚えた。いつもより棘がないのは気のせいだろうか。どことなく緊張しているみたいに見える。
「わたしが住んでいたのはあなたと同じ町です」
曇り空の下で、少女はわずかに周囲への警戒心を解いていた。強い光源がないため、黒いアスファルトに一人分の影が足りないのは目立たなかった。
「ここに来たのは二回目です。去年一度だけ来ました。」
「それってどういう……」
「今はそれ以上言いたくないです。あとで話しますから。今は……ちょっと、言えないです」
僕の言葉を遮るナツキは、やっぱりいつもと違って見えた。
「勝手言ってごめんなさい。どうしてか……胸がざわついて苦しいんです」
少女の悲痛そうな姿に、さすがに文句を並べるわけにもいかず、僕はただ少女の後ろをついていった。あるはずの影を探すように彼女の足元だけをただ見ていた。
コンビニから二十分ほどで目的地に着いた。立ち止まった彼女につられて僕もその家を見上げた。
「ここなのか」
一階建ての借家だった。多少荒れている庭にはそこに似合わないきれいな車。敷地の中には花壇があるものの、植えられているはずの植物は茶色く萎れていた。閉められたカーテンの隙間から見える景色は家主の不在を示していた。
静かな家。ここに少女の親がいるらしい。
どことなく、僕の実家と似た雰囲気があった。雑草の生えた庭やジメジメした裏庭に集まる動物たち。もし僕がもっと頻繁に実家に帰っていたら、庭先に子どものおもちゃが転がっていないという相違点に気づいたかもしれない。
「どうする? 帰ってくるまでここで待つか?」
後日改めて、は回避したかった。
「車で待ちたいです。雨も降ってきそうですから」
家に背を向けて歩き出した少女の頭上に黒い雲が広がっていた。
先を歩く道中も、車に乗り込んでからもナツキは無言だった。そんな空気に耐えきれなくて僕はコンビニに逃げ込んだ。
彼女はなにを神経質になっているのだろう。僕だって実家に帰るのは嫌だけど、なんとなくそういった類の心情とは違う気がする。イライラするのならわかるのだが、今の彼女は毒気がない。どこか怯えているようでさえある。
ただぶらぶらしているわけにもいかず、ペットボトルのお茶とおにぎり、それからビニール傘をそれぞれ二つずつレジに並べた。やたらと人懐っこい店員の笑顔が逆に不気味で僕は目線を合わせられなかった。
僕が車に戻っても、ナツキは勝手に買い物に行ったことを怒るでもなく、ただぼんやりと外を眺めていた。
こんな時だというのに、僕は急に不思議な感覚にとらわれた。恥もなにもかも捨てて告白するならば、物憂げに雨の景色を見つめるナツキを綺麗だと思った。顔が、とか半袖から覗く白い腕が、とかではなく、一つの光景として心を奪われてしまった。
儚げな少女と雨中の灯り。僕はその図を壊したくなくて、傘をそっと後ろに押し込んで自分のお茶だけを袋から抜いた。
「おにぎりとお茶置いとくから。行くときになったら起こしてくれ」
ツナと昆布。どっちが残っても構わないし、両方無くなるならそれも良かった。
僕は不意に湧いてきた感覚を押し殺そうと意識を集中した。座席を倒すと箱が潰れるような音がしたけど気にはしなかった。寝るつもりはなかった。ただなんとなく、寝たふりをしていた方が今の彼女にとってはいい、と心の中の誰かが囁いた。
まどろみの付近を散歩するつもりだったが、いつの間にか意識は深く沈んでいった。
思い返してみると、最近の僕は僕らしくない。いや、僕の人生らしくなかった。
子どもの頃は他人の声が聞こえると思っていた。でもそれは不思議な能力とかではなく、ただ単に僕が人の顔色ばかり窺っていたせいだろう。中学後半くらいに他人と向き合うのをやめてから、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「でもあの人と過ごしてから変わったんでしょ?」
暗闇でポニーテールが揺れる。いや、揺れた気がする。
こんなところで会えるはずがない。そもそもこんなところってどこだ。曇り空の車中か。
自分に問いかけて、悩むまでもなく結論が出る。遠くにいるはずの後輩が出てくるなんて、僕の夢以外にありえない。
「そうだな。あいつはいっつも本心を僕に見せてた。僕もあいつにはまっすぐでいられた」
僕は俯いてその声に答えた。
「先輩もあの人も捻くれてますから。奇跡的に合致したんですよ。そもそもあの人が本心でいられる相手がまともなはずないじゃないですか」
勝手な言い分だ。納得しちゃうからどうしようもないけど。
「素直に納得しないでくださいよ。あの人はともかく、先輩は無理して歪んでいたんですから。そうでしょ? ホントは困ってる人を放っておけないくせに無理やり目線逸らしちゃって。最近の先輩が自分らしくないんじゃないです。無理して作り上げたアイハラという人らしくない、ですよ」
ついあっちこっちに手を出して踏み込んでしまう僕と、蚊帳の外の出来事だといつも距離を置いてしまう僕。
「僕はさ、タツヤに憧れていたんだよ。ずっと前に無くした自分がいるみたいで。ありえたかもしれない僕を見ているみたいで」
不意に、煙草の匂いがした。ポニーテールの代わりに懐かしいシルエットが見えて、思わず涙が出そうになる。
「別にそれでいいだろ。なりたい姿なんてあやふやだぜ。どうせ真似ようったって完璧にはなれねーんだから目指すくらいでいいんだよ」
そしてタツヤも、あいつらしく自慢げに笑っている気がした。
「もう一度言うけどな、らしくなんてなくてもいいんだよ。それでもつい助けちまうのがアイハラだろ」
バシッと肩を叩かれたみたいな痛みが走る。それでも僕はまだ顔を上げられなかった。
「でも影がないなんて非現実は僕の人生らしくないだろ? 僕のキャパシティを軽く超えてる」
涙声にならないよう必死に訊く。
世の中には未来が見える人がいるという。でもそれはオカルトなんかじゃなくて論理的思考の結果だ。授業を聞いてなかったヤツが抜き打ちテストを受けたらどうなるかは誰にでもわかる。色んな体験をして、無意識にそれらの経験を結び付ければ結果が見える。それだけ。
仮に僕の「きこえる」という非現実に折り合いはつけられても、影がないなんてことは超現象すぎる。
「おいおい俺の哲学的問題かそりゃ。ごちゃごちゃ考えるなよ。特別に俺が答え教えてやろうか?」
挑発的に言って、タツヤは「いや」と続ける。
「アイハラの夢なんだから俺にわかる答えはお前にもわかってるか」
「自分の言葉じゃ信じられない。ううん、自信がないんだよ。お前の口から言ってほしいから夢に出てきてるんだよ。それくらいわかるだろ」
自分が他人より優れているとは思えない。だから自分の気持ちさえ誰かに代弁してほしかった。
「仕方ねぇな。なら俺が俺らしく言ってやるよ。これで最後だからな」
タツヤはわざとらしため息をついてから、やっぱりいつもの調子で自慢げに鼻を鳴らした。
「別にどうってことないだろそんなこと。世界は広いんだから奇妙なことが少しばかりあったって不思議じゃない。たまたま今まで知らなかっただけだ。ぶつかったときにそんこともあるのかって納得すりゃいいんだよ」
タツヤは言い切る。いや、言い切るだろう。だからどこかに旅立ったんだ。
顔を上げた先には、僕が笑っていた。