二話 竜国からの公布
あれから千年、世界は大きく変わった。
そのまま非効率に扱われていた魔力は魔法として新たな形を持ち、魔力の乏しかった者でもある程度の炎を生み出せるようになり、魔力は一定の利便性を持つようになった。
しかしその一方で魂に宿る魔力、それぞれの保有魔力量による差が広がり、それによる貧富の差も眼に見えて大きくなった。
そんな世界に、かの英雄グレイラットは生まれ落ちた。これといった特徴もない低級貴族と低級貴族の間に。
奥様が大事に泣く女の子を抱きかかえあやしている。
「あらあら、欲しいのね」
「んー!」
生後三ヶ月、娘は母親の乳をねだっていた。母親の乳房に食らいつき、嬉しそうに母親の腹を平手でぺちぺちと叩く赤子。
英雄グレイラットはレア=ミルロットとして生を享受すると同時に、転生前の記憶を失っていた。それはすなわち、古代龍との約束も覚えていない、ということであった。
ガチャリ、とノックもなく扉が開く。三歳になる息子が重い扉を力一杯押して母親の元へとやってこようとしている。
そんな男の子を一人の侍女が軽々と抱き上げる。
「こーら、お母様の邪魔したらダメでしょ? いい子にしてたらちゃんと遊んでくれるから、ね?」
「そう言って昨日も遊んでくれなかったじゃん」
「ワガママ言ってはいけませんよ。明日お願いしてみますから今日は私と遊びましょうね?」
渋々承諾した男の子は、侍女の貧相な胸から降りると自室である子供部屋へと走って戻っていった。侍女は彼を追うことはせず、そのまま奥様の寝室へと足を踏み入れ、頭を垂れた。
「すみません奥様、どうにもここ最近お嬢様を羨む傾向にございまして……」
「別にいいのよ、仕方ないことだわ。ミリも気楽に相手してやって頂戴?」
「ええ。それで本日の予定ですが───」
会話への軽い入りを交わしたのち奥様を胸を仕舞い、ミリと家庭に関する連絡を交わし始めた。
この時代、それほど裕福でない貴族は使用人を多く雇えず、数人と奥様で維持していくのが普通であった。この家庭も例外ではなく、ミリ一人と奥様で切り盛りしていた。
「───と、奥様の体力も回復してきた様ですので少し仕事量を戻しましたがよろしかったでしょうか?」
「大丈夫よ。むしろ休んでいた分も働こうかしら?」
「ご勘弁を、私が暇になってしまいます」
奥様の口から小さく笑い声が漏れる。ミリも釣られて軽く笑う。
最後に、ミリは今朝読んだ他国からの公布に対する件を報告した。
「ああそれともう一つ。昨日の昼、グレイラット竜国から公布が届きました」
「あら、こんなところまで公布が届くなんて珍しいわね」
グレイラット竜国。それは一柱の古代龍と人間が契約を交わしたことから名づけられた国で、その規模は下位を遥かに凌ぐ財力と権力を誇る世界最大の王国だ。
奥様は軽い口調で扱っているが、それが世界に及ぼす影響はお互い分かっている。故に、奥様は内心身構えていた。
「それで、それがどうしたのかしら?」
「ええ。紙面は旦那様にお渡ししたのでございませんが、確か『今年産まれた女性で最も武力が高い女性を次期国王の妻に迎え入れる』という内容でした」
「………えっと?」
娘を撫でる手がピタリと止まる。
この時代、貴族の女性は立派な奥様となるべく、洗濯裁縫等の家事に精通しているのが好ましいとされていた。もちろん性格も慎ましやかな方が好まれており、勉学はともかく戦闘などもっての他だった。
故に奥様は困惑した。よもや世界最大の王国が常識外れな公布を発布したという事実に。
「つまりどういうことかしら?」
「そのままの意味ですよ、強い女性を国王の妻にする。本当にそのまんまの意味です」
「そう、少し整理させて」
十数秒後。物事を整理した奥様は額を押さえて溜め息を吐いた。
「まぁそうね、国王の妻というのは非常に魅力的だけど私達は関与しないわ。いささか無謀だもの」
「ええ、ですがこの出来事を切っ掛けに求められる女性像が変わりうるかもしれません。上位に組する貴族達は必ず国王の妻の座を狙うでしょうね」
「……つまり戦闘が得意な女が好まれる時代に? ちょっと想像出来ないわね」
奥様ににこやかな笑顔が戻ってきたが、それに込められているのは理解できないという感情だ。
「これは私独自の見解なのですが、この公布はあまりにも突然なもので、対象となる期間は去年の明後日から明日までというものです。
ですので運悪く期間中に女を産めなかった上位貴族は多額の金を叩いてでも保有魔力量が高い赤子を仕入れようとするでしょう。そのような動きが確認され次第、お嬢様にもある程度の勉学、剣術等を仕込むべきと思われます」
「そういうのは夫に言って頂戴?」
「すみません、教育方針でしたので先に奥様に相談すべきかと。……分かりました、女性の意見ではありますが旦那様にも一言申し上げてみます。では失礼します」
ミリは深々と頭を下げ、奥様からお嬢様を受け取る。そしてドアノブへと手をかけ、廊下へ一歩踏み出したミリに奥様は一つ質問を投げかけた。
「ねぇ、もしそんな時代が来たら貴女はどうするのかしら?」
「どうもしませんよ、私は一介の侍女ですから」
パタリ、と扉が閉まる。奥様が最後に見たミリの表情は、少し緩んでいた。
「ミリみたいな子が溢れかえる世界が来るとしたら、それは災厄でしかないわねぇ」
ベッドから重い腰を上げると、タンスの奥から裁縫道具を取り出した。